●錯綜する高齢者医療の“あり方”


 前回、トリアージは災害時、軍事の2つの側面で1950年頃から整理され始めた言語であり、用法であり、ガイダンスされてきたものだが、主に人工呼吸器の“配分”をめぐって、救急医療の現場に転化され、コロナ時代に「医療の効率的配分」を具体化させるための用語になった、という推論を提示してきた。筆者の主観としては、この展開は「嫌な感じ」がつきまとうことも述べた。


 コロナ禍をきっかけとして、このトリアージが「嫌な感じ」のニュアンスを筆者に持たせたのは、「差別される生死」が現実感として市民の目の前に提供されたからだし、そうかと言って「若い人を優先する」というメッセージには、モラルとして抗えないことも示した。


 このコロナ関連医療であれ、救急医療であれ、トリアージが必然化される要因は本質的に医療資源の不足であることも理解として示した。マスクの供給不安はなくなったが、例えば病床、例えば発熱外来、例えば医療従事者、などという医療資源の不足は継続されている。また、その医療資源が不足しているというイメージ戦略が、トリアージを市民の常識の内に入れなければならないという暗黙の了解につなげられようとはしていないか。そして、この暗黙の了解は、高齢者医療における延命医療の「非常識化」に連絡されようとしているように思える。


 この医療資源不足→医療を必要とする高齢者の選別→尊厳死の定着、へとロジックが重ねられている状況は、つまりコロナ禍を通じて、「医療資源不足」はいつでも起こる話であるとの刷り込みを成立させ、そのためにトリアージという概念を常識化しなければならないという奇妙なロジックがいつの間にか出来上がった。そして、一方で高齢者医療政策の議論のなかに「命の選別」に対する警戒感が薄れ、「延命」に対するネガティブな正義「反延命」が常識化していく趨勢にある、ように筆者には思える。


 実はACP(アドヴァンス・ケア・プランニング)という政府のキャンペーンは、団塊世代を中心とした現代の高齢者に対するトリアージの網ではないだろうか。


●流れは「医療インフラはスリムに」


 本年2月10日に「かかりつけ医機能の制度整備」が閣議決定された。やや激しい抵抗もあって、かかりつけ医は制度化するものの、行政処分などは行われないことになったが、筆者の私見では、2025年の地域包括医療の導入、政策の具体化のなかで、かかりつけ医制度は徐に開業医(かかりつけ医)に対する医療費適正化への踏み絵のような存在になっていくのではないかという懸念が消えない。トリアージの役目を、かかりつけ医が担わされるのではないか。


 医療経済学者の康永秀生は、著書『健康の経済学』で、「医療費の抑制は難しい」とその困難さを認めたうえで、医療費増の要因は「医療技術の進歩」であり、それ自体はコントロールできないが、個々の医療サービスの無駄は削減できるとして、「かぜに抗菌薬はさっさとやめる」「高額医療機器の導入は政府が規制する」「検査は必要最小限度にとどめる」などわかりやすい例を羅列しながら、「患者・国民の合意を前提として、医療機関と行政が協力し、高度急性期医療の選択と集中、病床の機能分化、療養病床の廃止、医療と介護の連携、家庭医の養成、在宅医療」の推進を主張する。それによって、経済成長期に作った過剰な医療インフラをスリム化し、医療費高騰を抑えられると述べる。


 前回紹介した「反延命主義」に警戒を示す生命倫理学者や哲学者は、医療インフラはあえて余分に用意し、トリアージの必然性が減弱するシステム準備を提言していたが、康永は「医療インフラをスリム化する」と述べており、医療資源の余剰的整備とは一線を画する見解だ。


●高齢者医療のトリアージは開業医に


 康永の医療費適正化提言でとくに重視すべきは、「家庭医の養成」と、医師の業務内容を他の医療従事者に分ける「タスクシフティング」、そして「フリーアクセスの制限」だ。とくにフリーアクセス制限を具体化する「人頭払い」の仕組みの導入提言にも踏み込む。


 著者が言う経済成長期に、日本の医療制度構築をリードしてきた元日本医師会長の武見太郎は、自由開業制度(プロフェッショナルフリーダム)、いつでもどこでもだれでも受診(フリーアクセス)を、医師会が主張する基本骨格に位置付けていた。ついでに言えば、出来高払い制度の堅持も、医師の自由裁量を確保するという理由があった。


 それらを日医が守ってきた3点セットだとすれば、「人頭払い」方式の導入はその3点をすべて破壊する。制度導入に際してどこかの部分をマイルドに調整するという余地もあまり想像はできない。つまり、現状の医療制度の構造破壊。それによって得られるコストパフォーマンスによって、国民皆保険制度の堅持はできるという意見にリアリティが生まれる。


 かかりつけ医の制度論がナーバスな議論となるのは、フリーアクセスの制限が「家庭医制度」と「人頭払い」とセットとなっているためだ。


「人頭払い」方式は、地域で指定された家庭医が住民1人当たり定額報酬を受け、住民のプライマリケア、疾病予防などを担い、さらに病院受診、入院のアクセス権限を持つ「ゲートキーパー」役を担う。自らの専門性やスキルを謳って自由に開業はできない。患者は自由にいつでも診療を受けることはできないし、入院治療も家庭医を通じなければできない。医師は「定額報酬」。出来高払いではない。かかりつけ医制度をそうした制度的変革への一里塚とみる医師会などの警戒は当たり前である。


 もともと「かかりつけ医」という言葉が生まれた背景も、「家庭医」を嫌う日本医師会が生み出した呼称だ。つまり「かかりつけ医」は、家庭医制度とそれに連なるフリーアクセス制限を拒絶する呼称でもあるわけで、2月の制度化の実現は、25年以降の医療制度に微妙な陰影をつけるともいえる。


 康永は著書で「この『かかりつけ医』の定義は、内容的には『家庭医』のそれとあまり変わりません。しかし総合診療の教育を受けたことがない、今いる開業医たちを『家庭医』と名乗るのにふさわしくないから、『かかりつけ医』という別の呼び名が作られたのかもしれません」と、呼称の違いの中に政治的なニュアンスがあることを前提に、筆者には意味不明としか思えない説明も付している。


 筆者は、かかりつけ医が家庭医に変貌し、英国NHSのようなシステムが導入される可能性は低いとみる。総合診療医が増えてきたとはいえ、現状のプライマリケアは専門医の地域での寄り集まりのような実態がある。言い換えれば、地域がひとつの総合病院のような形態を持っていて、そこをあえて認識することで、意図的な「地域病院化」のシステムを地域医師会に準備させるような状況が生まれるのではないかと予測する。


 現状では、ゲートキーパーではないが、多くの地域開業医は基幹病院との連携(病診連携)に参画している。そこで必要とされることとして今後増えてくるのは、病院に紹介する患者の重症度の判断だ。とくに高齢者の診療は、病院医療を阻害するような患者、コストパフォーマンスの低い患者は紹介を自主的にセーブし、「地域病院化」したプライマリのなかで判断するケースが増えてくると予想する。


 そのなかで、生まれてくるのが「延命」「非延命」の判断、トリアージだ。地域のニーズとしても、若年者を対象としたICU、子どものためのNICUに病院機能の価値が評価され、トリアージの結果、「黒タグ」と判断された高齢患者は地域開業医の看取りに任されるということになる。


 高齢化のなかでの地域医療は、「命のトリアージ」の役割を開業医(かかりつけ医)に付託することになる。開業医はトリアージの心身の判断に関してより高度で公正な姿勢が保てるようアップデートが必要になるのだと思う。(幸)