岡山県の東北に美作の地がある。ここは「美作美人」という美女の産地と称されている。なぜ美女の産地なのか理由を考えてみた。ひとつは、「美作」の「美」のごろ合わせ説。次に、美人になるという温泉説。3つ目は、昔話で、昔々、毎夜、鬼が美女をさらって食べてしまった。その結果、不美人ばかりになった。ところが、世の中の美意識が変化して、かつての不美人が美人になってしまった。そして、もうひとつが「おふく」説である。
時は戦国、美作の地に絶世の美女がいた。「おふく」という。「お鮮」とも言われている。生年月日は不明だが、1549年に誕生したと推測されている。備前殿、大方殿、円融院と呼ばれたり、宇喜多直家(1529〜1582)の妻、宇喜多秀家(1572〜1655)の母と書かれることが多い。死亡年月日も不明だが、関ヶ原の合戦(1600年)以後も生きていたことは間違いないらしい。
超美人は目立つ。「超美女」うわさは、美作高田城の城主である三浦貞勝(1543〜65)の耳にも届き、三浦貞勝は一目見るなり、おふくを娶った。子供もひとり生んだ。しかし、戦国の常として、高田城は三村家親(1517〜1566)のため落城、三浦貞勝は自害する。
若き美貌の子連れ未亡人は備前沼城(岡山市内であるが岡山城ではない)の城下へ落のびる。備前沼城の城主は宇喜多直家で、謀略だけで城主になった冷血漢である。どこにいても超美女は目立つ。すぐに宇喜多直家に召し出される。未亡人は夫の仇を討ってくれと訴えて泣き崩れる。37歳の宇喜多直家は一目見るなり、メロメロのベタ惚れ。すぐさま、おふくは正室におさまる。
直家はおふくのご機嫌を得るため、三村家親を暗殺する。さらに、近隣の豪族を謀略・奸計・毒殺・裏切り・暗殺を駆使して、合戦なしで、とうとう備前一国の国盗りを完了する。何といっても、「合戦なし」という点がスゴイところで、その冷血漢ぶりは、腹心の家臣でさえ直家の前に座るとブルブル震えが止まらなかった、親族ですら直家の前に座るときは暗殺を恐れて鎖かたびらを着たと言われている。
謀略冷血漢だから、あちこちの美女を片っ端に次々と……と思われるかも知れないが、これが不思議とただひとり、おふくだけを溺愛した。2人の愛情関係がどんな種類のものであったのか、やっぱり普通じゃない特殊な愛情だったに違いない。
命ギリギリの戦国の世、兄弟で殺し合うことも、親子で殺し合うこともザラにある。誰も信じられない。だから、心底惚れた貴方ひとりだけを徹底的に信じ愛する。2人の間には些細な秘密さえない。文字通りの一心同体、そんな極限愛かも知れない。
黒田官兵衛のNHK大河ドラマを見ていたら、直家と某武将との談判交渉シーンがあったが、直家の体にはおふくの妖艶な体がしなだれかかっていた。重大交渉でさえ、おふくと一緒であった。あのシーンが直家とおふくの関係を物語るのにベストであるように思う。謀略冷血漢を「梟雄」というが、備前沼城に「梟雄と美女」が君臨したのである。
梟雄と美女の2人の平穏は長く続かなかった。なんと言っても戦国時代である。宇喜多へ西から毛利、東から織田の圧力が加わる。どちらと手を組むべきか。若干右往左往するが、織田側(直接には秀吉)に与する決断をし、直家とおふくの子供である八郎(後の秀家)を人質に出すことになった。おふくは直家の名代として秀家を伴って秀吉のもとへ行く。これが、おふくと秀吉の第1回目の遭遇シーンである。当然、好色家秀吉は、美貌の人妻にクラクラっとしただろうが、まさか、織田・宇喜多同盟を壊すような行動は慎んだと思われる。
第2回目の遭遇シーンは、直家が病床に伏し余命を悟ったとき、直家は秀吉に備前沼城への来城を願い出た。なにせ、謀略冷血漢で有名な直家のこと、どんな仕掛けがあるかも知れぬ岡山城へ、のこのこと出かけることはあり得ない話である。黒田官兵衛は反対したが、秀吉は出かけた。おそらく、第1回目の遭遇シーンで、好色秀吉と妖艶おふくの間に、なんらかの以心伝心の確かな感触があったのかも知れない。秀吉は、直家の願いを聞き入れ、人質の八郎を伴い備前沼城へ行き、直家の枕元で八郎の元服式を行い、「秀吉」の「秀」の字をとって「秀家」と名付けた。秀吉は秀家のいわば「親代わり」となったのである。NHK大河ドラマ黒田官兵衛では、この時、直家が「わしが死んだら側女にしてやってくれないか」と秀吉に、すべてを託すシーンになっている。
蛇足ながら、おふく(お鮮)を演じた女優は笛木優子(韓国での芸名はユミン)で、日韓で活躍している。
直家の死去は秘密にされたので、未亡人は有髪のままであった。35歳のおふくは「妖艶なる未亡人城主」となったのである。しかし、毛利の忍者もバカではない。直家病死を知った毛利は「未亡人城主」を攻めるべく大軍を国境に送る。それに対して、織田信長は「未亡人城主」救援と毛利総攻撃を秀吉に命じる。ジャーン、未亡人城主の運命やいかに……。
秀吉が大軍を引き連れ備前沼城へ立ち寄る。第3回目の遭遇シーンである。おふく一世一代の大舞台である。その美しさ艶やかさ……スーパー・ビューティフル、スーパー・ワンダフル。好色家の秀吉が無理やり押し倒したのか、熟女おふくが誘ったのか……。おふくにしても、危うい「未亡人城主」の立場である。亡き夫・直家は、信長の最大実力者に成長しつつある秀吉に、最愛の妻と子を託したのである。亡き夫に遠慮は要らない。秀吉を虜にすることが、亡き夫の意思であり、それが我が子と宇喜多家の安泰に直結する。
昔、エリザベス・テーラーの映画『クレオパトラ』で、彼女がシーザーやアントニウスを虜にするハイライトシーンにドキドキしたのを思い出すのだが、似たような大サービスを演出したに違いない。
世間一般では、「美貌の未亡人が好色家の餌食になった」とする見解が多いようだが、果たして……、なにせ、おふくは梟雄が愛した女なのだ。権謀術数の中を生きてきた女である。なんにしても、お家安泰と8歳の息子秀家のため、おふくは秀吉と身も心も完全合体したのであった。
さて、秀吉軍は宇喜多軍も加えて、毛利攻めへ進軍。周知の通り、秀吉軍は備中高松城を水攻めとした。その実行中、織田信長が明智光秀に討たれる。秀吉は電光石火、和議を結んで、京へ返す。いわゆる「中国大返し」(1582年)である。
「中国大返し」のルートや日程については、いろんな説があるが、おふくの備前沼城が途中にあったことは100%間違いなし。そこで議論になるのが、「秀吉の謎の1泊」事件である。秀吉としては、一刻も早く、姫路城へ帰らねばならない。それなのに、ああそれなのに、一泊とは、いかなる事情があったのか。
おふくとしては、お家安泰と息子秀家の将来を完全に保障させるべく、デラックス大サービスの「おもてなし」の準備をしただろう。城の西までおふくが出迎えたと文献にはあるが、それだけじゃないだろう。誰かが「岡山は桃太郎の国と聞いていたが、乙姫の竜宮城だったのか」と呻いたとかなんとか……。
秀吉としても、宇喜多軍をここに留めて毛利の追撃の防波堤にしなければならない。それには、慌てふためいた「中国大返し」ではなく、余裕綽綽の「中国大返し」を演出して宇喜多軍の安心感を得ねばならない。それに、生死を賭けた大勝負の前に、今一度恍惚の……ということかも知れない。
秀吉は明智光秀を滅ぼすと、秀家を養子にした。おふくは事実上の側室となった。
大阪城内ハーレムでは、「今宵もおふく」とご指名ナンバーワンのお気に入りとなった。40歳を過ぎても美女は美女なんだろうが、よほど秀吉が気にいるナニがあったのだろう。梟雄直家も首ったけになったナニである。
それはナニか?
それはわかりません。
でも、宇喜多直家は備前一国の大名になった。秀吉も明智光秀を破って天下人になった。つまり、おふくの「ふく」がやってくるということかな……。
そんなわけで、おふくの秀吉へのおねだりは、すべてOKであった。秀家は57万石を安堵されたばかりか、秀吉の養女豪姫(前田利家の娘)を娶って、完全に豊臣一族となることができ、五大老にまでなった。
しかし、おふくの「ふく」も尽きる時がきた。関ヶ原の合戦で宇喜多秀家は敗軍の将となり、八丈島へ流罪となる。その頃から、おふくがどう生きたか定かではない。岡山に伝わる手毬歌に「お鮮さまのお墓を見れば、さても立派なお墓でござる」と歌われているから、その寺で寂しくも敬われつつ晩年を暮らしたのだろう。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。