イスラム国人質事件は、ヨルダン人パイロットの件も含め、最悪の結末に終わった。皮肉にも私たち日本人は、この事件によって、シリアやイラクの人々が日々、どれほどの絶望の中に身を置いているのかを切実に理解するようになった。 


 事件終結後の各誌は当然、関連記事で埋め尽くされているが、これだけ関心を集めた大事件となると、人々は時々刻々テレビやネットにかじりつき、よほど目新しい情報がない限り、数日遅れの記事群は色褪せて見える。週刊誌という媒体の宿命かもしれない。 


 前回の本欄で「たまらなく嫌な感じがする」と言わざるを得なかった被害者・後藤健二さんをめぐるネガティブな報道は、おそらく多くの読者が似たような不快感を訴えたのだろう、今週の各誌では目立たなくなっている。 


 後藤さんの処刑が伝えられた夜、NHKスペシャルでイスラム国の成り立ちを教えられ、改めて自分が何も知らないまま、ニュースの表層だけをなぞってきたことを痛感した。結局のところ、この悪魔のような集団を生み出したのは、アメリカによるイラク戦争であり、フセインやアサドの独裁が必要悪だったのは、現地の事情を無視した国境割り、つまりは帝国主義国によるオスマントルコ分割に起因する問題だったのだ。 


 素人考えで言えば、もし伝えられるように、イスラム国の中核を旧イラク軍人らが占めているのなら、少なくとも昨夏の湯川遥菜さん拘束以後、日本政府が水面下で探すべきだったのは、旧フセイン・バース党政権に深く食い込んでいた人々ではなかったか。 


 近年は、危機管理やインテリジェンスの“専門家”をありがたがる風潮が強いが、どうなのかと思う。それはどこか、欧米的な“マネージメント”の専門家をありがたがる風潮に似ている。私自身、南米の小さな新聞社にいて感じたことなのだが、向こうでは実務の現場から管理職は生まれない。有名大学でマネージメント=経営を学んだ青二才が、現場でのイロハも知らぬまま、ベテラン社員たちに命令を下すのだ。 


 危機管理のプロ、にも同じ臭いがする。一部にはそうした人もいていいが、より重要なことは中東なら中東、中国なら中国、とその地域に特化して限りなく深く人脈を張り巡らせた人々ではないか。CIAなどをもつアメリカですら、“外交のプロ集団”が歴史的な愚行を繰り返してきたのだ。後付けの弁解だけ達者な“ごっこ遊びのプロ”はいらない。 


 今週の文春に、幸福の科学への「お詫び文」が載った。教祖による「性の儀式」を報道した記事で教団から訴えられ、最高裁で敗訴したためだが、謝罪ページに続く『本誌はなぜ「謝罪広告」を掲載するのか』という記事が興味深い。 


 それによれば、判決を不服と感じながら、心にもない謝罪文を掲載させられる強制は日本独自の習慣だという。判決は判決として従うが、自分たちはまるで納得していない。この記事は、改めてそう意思表示している。 


 そのなかで、法学者のひとりは「謝罪広告ではなく、判決文をそのまま掲載すればよい」という法曹界での異論を紹介しているが、もっともな主張だ。とはいえ、こうやって「謝罪広告」と「判決への不満」を抱き合わせにすれば、編集部の「真意」は100%、読者には伝わる。教団側は腹立たしいだろうが、編集部が敗訴の確定に一矢報いた形だ。


------------------------------------------------------------
三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町:フクシマ曝心地の「心の声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。