週刊新潮に載った1本の書評がどうにも気になって落ち着かない。記事そのものの情報はあまりに断片的であり、週刊誌の読者人口が減りすぎて気づく人がいないのか、追加情報を得ようにも、ネット空間では話題にさえなっていない。北方謙三氏のエッセイ本『完全版 十字路が見える』(岩波書店)を取り上げた大沢在昌氏の書評記事のことである。


『エッセイは作家の腸がさらされる ネタが尽きてからがおもしろい』。そんなタイトルで綴られたこの書評は、そのほとんどがタイトルにあるようなごく普通の内容で、同じハードボイルドの書き手として北方氏と親しい大沢氏が、自身のエピソードも登場するこの本の面白さを語っているのだが、最後の2つの段落で文章のトーンは突如一変する。


 曰く、週刊新潮に(昨年3月まで)連載されていた北方氏のこのエッセイは、「編集長の突然の命令で連載が中断され」終了したという。大沢氏はこれを「暴挙というよりは愚挙である」と痛烈に批判、彼自身「前々から考えていたこともあり、私は新潮社との関係を終えることとした。本稿は、私は新潮社において書く、最後のものだ」と、絶縁状を突き付ける格好で文章を結んでいるのである。


 あまりに情報量が少ないため事情はよくわからないが、大沢氏は新潮社の北方氏の扱いに憤り、また彼自身にも不満があったらしく、同社との関係を断ち切ったということだ。一方、このような原稿をわざわざ自社誌面に掲載した点から見て、新潮の編集部サイドにも、それをやむなしとする何らかの事情・判断があったのであろう。


 大沢氏、宮部みゆき氏、京極夏彦氏の3氏共同の公式ツイッターには何の言及もなく、ファンなどのツイッター類にも関連情報は見当たらない。かつての『噂の真相』のように文壇ゴシップを載せるネット媒体が存在してくれていたら、とないものねだりをしてしまうのだが、結局この「モヤモヤ感」は大沢氏本人がどこかで事情を明かさない限り、解消されることはないのだろう。


 ちなみに北方氏の『十字路が見える』は、2015年に新潮社で一度書籍化され、文庫にもなっているのだが、今年になり岩波書店が脱落分やその後の回を補完、全4巻の「完全版」として改めて刊行し直した。今回の大沢氏の書評はこの岩波の本を取り上げているわけだが、連載の打ち切りや出版社変更の裏側には、何がしかドロドロしたものがあったに違いない。大ベストセラー『新宿鮫』シリーズの著者にして直木賞作家の大沢氏、そしてその直木賞の選考委員を今年1月まで勤めていた北方氏という2人の大御所と「天下の新潮社」を巡るいざこざ。だが、ネット空間ではこれほどのゴシップでも話題する人はなく、今さらながら「本の時代の終焉」を痛感させられる。


 今週の新潮には『「Chat GPT」は人類の「神」か「悪魔」か』という特集もあり、取り上げたい気持ちもあったのだが、この問題はいずれまた触れる機会もあるだろう。ひと言だけ思いを綴るなら、この「Chat GPT」の普及・発展は、ネット社会の到来以後、著しい人々の言語能力の低劣化をいよいよ決定的にする「最後のとどめ」になると思う。


 そのことはもちろん世界的な現象になるはずだが、とりわけ我が日本では「思考のプロセスを軽視して結論だけを求める」傾向が著しく、クオリティーはどうあれ「結論」を提示してくれるAIの誕生は、「書籍単位の分量で情報を脳内処理する能力」を持たない人間の大量出現に直結するだろう。


 まぁ、文字が発明される以前から人類は生きてきたわけだし、人々の多数派が文盲だった時代も長かったのだから、「ごちゃごちゃモノを考える人間の激減」は、むしろ秩序の維持、社会システムの効率化にはプラスかもしれない。ただ、それでも旧世代としてはやはり、大多数の人々が自覚もないままに「思考を他者依存する時代」まで、生きながらえたいとは思わない。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)、『国権と島と涙』(朝日新聞出版)など。最新刊に、沖縄移民120年の歴史を追った『還流する魂: 世界のウチナーンチュ120年の物語』(岩波書店)がある。