先だって物書きの先輩から「これが現実」と題したメールが送られてきた。貼り付けられていたのは「読書一生分のポイント」が当たるという書籍販売サイトのキャーンペーン広告だ。彼が嘆くのは「1世帯当たりの読書一生分」が、わずか115万8901円にしかならないという算定金額だ。「1世帯当たりの書籍・雑誌の年間購入費(電子書籍も含む)」と「平均寿命」から算出した額だという。


 職業柄と言えばそれまでだが、115万円程度の本代は、私たちの業界ならせいぜい3~4年分の必要経費である。しかし近ごろは、これが一生かけ、家族全員で本や雑誌に費やす平均的な額だというのである。出版業界が未曽有の不況に陥るのも当然のことなのだ。


 もう一点、最近SNSを眺めていて気付くのは、「普通に本を読む人ならこの程度のことは知っているはずだ(理解できるはずだ)」というようなツイートに、異様なほど反発するリプライが殺到することだ。「偏った本を読むくらいなら読まないほうがまし」「情報を集めるならネットだけで十分」と、読書しないことを正当化する声が集まるのだ。たとえ自分とは無縁のツイートでも「読書量によってマウントを取ろうとする言動」と感じる書き込みには、我慢ならなくなる人が結構いるらしい。


 しかし、昨今必要性が叫ばれるリテラシーを身につけるには、一定量の本を読む習慣を持つ以外に方法はない。どんなテーマであれ、数十冊~100冊程度の関連書を読めば、「ある程度の根拠に基づく説」と「そうでない説」は自然と見分けられる。「根拠とする資料」を逐一明示しているか、引用は正確か、通説を否定する場合の論証は十分か、等々の記述方法をチェックしたり、引用元の文献にも当たったりするようにすれば、それぞれの本のクオリティーは歴然と分かれるのだ。「読んで無駄になる本」も含め一定量を読むことで、「偏った本」「根拠薄弱な論」は初めて識別できるようになる(そのプロセスでいい加減なものを書く「書き手」や媒体も記憶でき、別テーマの文献調査をする際の目安として役に立つ)。


 こういったことが気になるのは、前回少し触れたChatGPTに脅威を覚えているためだ。ただでさえ読書の習慣を急速に失っている多くの人々が、次の段階ではさまざまな情報や論考、事実関係の識別をAI任せにするのである。AIの精度が向上していけば、むしろ便利になる、という見方もあるようだが、一方で生身の人間は、自力で本を読み、ものを考える力を確実に退化させてゆく。映画評論家の町山智浩氏は「脳の機能の外部化」という言い方をしているが、まさにその通りだと思う。


 今週のニューズウィーク日本版では、経済評論家・加谷珪一氏が「経済ニュース超解説」というコーナーで『チャットGPTは不誠実なAI?』と題して持論を述べている。それによると、他の対話型AIに比べ、ChatGPTは「とにかく返答すること」を優先し、時には架空の人物を作り上げてしまうなど「いい加減な回答」をすることが現状では少なくないという。そして「AIがネット上にある情報を収集して答えを得る以上、最終的にAIの正確性を担保するのは、ネット空間に存在する情報の質ということになる」と、問題の本質を突いている。


 紙の時代の活字情報は、出版社・編集者の存在により、商品として市場に流通させるのが困難な低レベルの文章をふるいにかけていた。ネット時代の現在は、万人が自由に文章を発表する。個人的な印象では「以前なら陽の目を見なかった価値ある情報」が表に出るようになった、というポジティブな面もある一方、「無価値な情報、不正確な情報」はその何十倍、何百倍もの分量で出回るようになった。しかも、それを識別するリテラシーの持ち主はごく少数。結果として「玉石混交」の「石」が圧倒的に多い世界としてネット空間は出来上がってしまった。それよりはまだましなクオリティーだった「紙の本の世界」(こちらにも多くの「石」はあるにせよ)に、しかし人々は背を向ける。私たちがここ何年かで直面するのは、そんな文明史的な転換点だと思う。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)、『国権と島と涙』(朝日新聞出版)など。最新刊に、沖縄移民120年の歴史を追った『還流する魂: 世界のウチナーンチュ120年の物語』(岩波書店)がある。