前回はTPP交渉が日本に与える影響で、国民皆保険制度は最も難しい課題になるのではないかと述べた。その背景にあるのは、「統制経済」で医療保障を進めてきた日本独自の社会保険システムは、グローバル市場では相容れない閉鎖的制度であり、障壁そのもの。TPPがめざす「障壁のない」自由貿易協定とは真っ向から対抗する規制だということである。国内メディアにも、産業界にも、国民にも、この危うさの認識が伝わっている状況にはないことは、再度、強調しておきたい。しかし、こうした一種の「危惧」は、これまで紹介してきたように、医療団体を中心に根強く存在するのも事実。


 だが、これが市民団体からの「危惧」よりも強いメッセージとして伝わらないのはなぜだろうか。どこかTPP交渉を進めるうえで、このところの政府の焦燥のようなもの、あるいは強権的な政策推進が目に付き始めたことが一因としてありそうな気配がある。象徴的なのは、農協改革を軸とする農業政策の転換が表面化しつつあることだ。


 周知の通り、政府はJA全中(全国農業共同組合中央会)の権力集中の解体を狙い、全中との協議を加速させてきた。結果、全中の監査権限を外部に出すことで、表面的には全中の権威を一部はぎとる形をつくった。ただ、これとてもエコノミストには「手ぬるい」との批判が強い。農地使用法などの政策的判断が宙に浮いたままであることなどがその背景にあるが、TPPの当面の焦点が農産品の関税に向かうなかで、全中といった「抵抗勢力」のなし崩しが、中途半端なままに終わったという印象が、エコノミストには強いのである。


 しかし、TPP交渉を背景に、こうした既存の抵抗勢力、あるいは政府への「圧力団体」の力のはぎとりが形だけでも顕在化したことは、医療団体にも少なくともスタディなどとは言っていられないニュアンスを残した。TPP交渉が大詰めを迎えつつあるなかで、この秋には次期診療報酬改定論議が始まる。消費税10%引き上げを控えるだけに、特に薬価に対する攻防は熾烈をきわめそうだが、TPPと消費税の狭間にあって、政府の戦略プランは複層化している。逆に医療側は、抵抗手段には限界も見え始める。


 一方で財界を中心とする国内経済界は、一部の経済学者、エコノミストを含めて、TPP交渉が進まない、あるいは具体的進捗過程が明らかにならないことに、最近は苛立ちを隠していない。全中と政府との「折り合い」に対する不信はその象徴である。また、ことにエコノミスト、経済学者に関しては、推進論者の多くが市場原理主義を推進するいわゆる規制緩和派であることは周知のとおりで、批判圧力はヒートアップしつつある。


●微妙な温度差がある日米経済界


 ここで、TPP交渉入り前後から、経済界の推進を求めるスタンスをみておく。昨年2月10日に日本経済団体連合会、日本商工会議所、経済同友会が「TPP交渉の早期妥結を求める」という声明を発表している。全文を資料としてみてみよう。


1、第2次安倍政権の下、日本経済の再生に向けた政策が功を奏し、着実な回復が続き、デフレからの脱却は目前にある。アベノミクスの3本目の矢である成長戦略の実現に向け、その重要な柱である経済連携推進の喫緊の課題として、経済界はTPPを重視している。TPPはアジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)の実現に向けた最も有望な道筋として位置づけられ、成長著しいアジア太平洋の活力を取りこみ、わが国経済を持続的な成長軌道に乗せる上で、必要不可欠な協定である。また、経済界は、中小企業も含め、物品やサービスの市場アクセス拡大のみならず、グローバル・ルールの形成へとつながる21世紀型の貿易・投資ルールによる競争力強化も大いに期待している。


 わが国は、安倍首相の英断をもって、昨年7月にTPP交渉に参加して以来、包括型で次世代型の協定実現に向け、ルール作りを中心に建設的な貢献を行ってきた。経済界として、これまでの安倍首相のリーダーシップと政府交渉当局の取組みに敬意を表したい。 


2、一方、昨年12月のシンガポール閣僚会合では、年内の妥結を目指し交渉を加速させ、多くの分野で進捗がみられたものの、交渉妥結には至らなかった。交渉参加国はそれぞれ国内的にセンシティブな分野を抱え、それらが対立軸として妥結を困難としていることが明らかとなった。対立軸をめぐる交渉の帰趨は、首脳、閣僚レベルでの政治決断が求められる段階となっており、次回の閣僚会合はまさに正念場である。各国は総合的かつ長期的な視点から、高水準で野心的な協定の妥結に向けて協調する必要がある。 


3、わが国としては、ルール分野を含め交渉全体をまとめるために、物品市場アクセス交渉について、交渉参加国が受け入れられる野心の水準を示す必要がある。そのためには、守るべき分野を核心分野に絞り込むととともに、段階的な関税の引き下げ・撤廃、セーフガード等も活用し、柔軟に対応することが必要となる。また、政府が打ち出している農業競争力強化に向けた施策を着実に推進することも重要である。交渉を動かす上で、まず日米両国が柔軟性を高め、2国間交渉で合意することが不可欠であり、TPP交渉参加を決定した安倍首相に、交渉妥結への道筋を切り開くべく再度の英断を求めたい。 


 また、昨年4月21日には、経団連、全米商工会議所など日米の経済団体がTPP交渉の促進を求める共同提言を出している。その中で語られているのは、2月の日本経済界の声明に比して、日米間の交渉妥結の早期化を求める点では同じだが、日本声明が「物品市場アクセス」として、限定的印象が強い表現が使われているのに対し、日米共同提言では「市場アクセス」という、より包括的な表現が使われていることが注目される。


 共同提言の中から、主なものを抜粋すると、


「(日米両国は)2013年12月のホノルル会談における会合に基づき、包括的で高い水準の、野心的な合意を実現するための明確なコミットメント表明するべきである。日米両国は、未決着の他の交渉分野の突破口となるような市場アクセスに関して2国間で進展させるべきである。これは、日米両国にとって困難な決断だが、他のTPP交渉国は日米交渉の決着を待ち望んでいる」


「TPPのような高い水準の協定においては、完全な市場アクセスがすべての参加国にとって中核的な原則となる。日本に関しては、20133年4月のTPP交渉参加に際して米国及びその他のTPP参加国に対して行ったコミットメントに即し、農産物を含むすべての物品について、最終的な関税および非関税障壁の撤廃を目標として交渉のテーブルに載せることが必要である。米国に関しても、工業製品および農産品についての市場アクセスを提供することについて同様のコミットメントを示すことが重要である。両国ともセンシティブな問題に関するコミットメントについて柔軟に対処できる方策はあるが、この原則に沿った形で対応すべきである」


「両国とも、知的財産権保護、当市、国有企業、電子商取引、規制の統一および透明性などの分野において高い水準のルールを確立することにより、多くの実質的メリットを享受する立場にある。しかしながら、日米両国が、強力な市場アクセスを提供しない限り、他の交渉国は、自国の市場開放を行わず、日米両国の企業および経済にとって将来にわたり広範な利益をもたらすルールの策定に合意しないであろう」


「強力なTPP協定の妥結のためには、両国政府が、長期的なビジョンを持ち、貿易・投資の拡大、雇用創出およびイノベーションを促進する21世紀型の戦略的な経済利益を優先する能力を発揮することが必要である。両国の政治指導者は、より広範な経済利益に目を向けることが重要である。究極的にはTPPは、米日両国の経済の成長をもたらし、両国経済のさらなる統合につながり、重要な局面における戦略的同盟関係を強化するものである」 


●「農産品」に示された具体的なベクトル


 両者の声明、提言を読み比べると、微妙な落差が文言に見え隠れしている。先に触れた「物品市場アクセス」と「市場アクセス」もそうだが、センシティブな問題に関しても、日本経済界の声明は「問題が明らかになった」としているのに対して、提言は「最終的な関税および非関税障壁の撤廃を目標として交渉のテーブルに載せることが必要で……、両国ともセンシティブな問題に関するコミットメントについて柔軟に対処できる方策はあるが、この原則に沿った形で対応すべき」だとして、「非関税障壁の撤廃」も原則ルールであることを明確にしている。「センシティブ」に医療市場が含まれることは当然だが、昨年の段階では、その分野の特定は避けられている。


 一方で、具体的に語られているのは、どちらも「農産品」であり、そのベクトル線上に「全中改革」があることは自明といっていいだろう。カギは、こうした経済界、あるいはTPP推進派からの民間からのサインがオフィシャルな形で具体性を帯びたときに、時ならずして政府施策として浮上することである。全中問題は、これをスタディとして医療関係者は分析し、対応戦略を練る必要が大きいと言わざるを得ない。 


●民間サインはエコノミストが発信


 民間分野からオフィシャルな形で、声明、提言が出される前に、エコノミストから具体的な政策提言が示され始めていくことも定番である。すでに、医療改革についてはいくつかの議論が示されているが、ここでは次回にわたってそれらを総合的にみる。


 TPP交渉に期待をつなぐエコノミストたちの基本的な認識は、グローバル・スタンダード、アベノミクス支援、新たな安全保障システム、超高齢化社会対応などに集約される。


 グローバル・スタンダードは説明する必要もないが、国際市場の一員として国内規制緩和を継続し、「自由貿易」のもとでの、競争力のある国内市場環境と、国際市場環境の融和を図るべしという主張だ。骨格をなすのは「市場原理主義」。規制をなくして市場原理で国際経済活動を行うという論理は、いかにも公正公平に聞える場面もあるが、富の偏在、格差の拡大という負の部分を広げる可能性が大きい。エマニュエル・トッドは自由貿易は幻想であると言い、トマ・ピケティは資本の集中化は格差の拡大につながるとして、こうした動きに反論する論調を明確に打ち出し、論壇世界のグローバリズムでは大きな勢力になりはじめている。話を接ぎ木することになるが、市場原理主義にトッド、ピケティの主張で対抗すれば、統制経済である日本の皆保険制度は、市場に委ねて歪む世界を補正する「規制」として、機能することになる。


 アベノミクス支援は、3本の矢が放たれるとき、日本は国際市場で貿易強国として立場を発揮できるという想像に根ざしている。金融市場での存在感が必要になるが、ときに安倍首相が不機嫌に対応する「景気回復の実感はない」という「街の声」に代表される、いわゆるトリクルダウンの効果は未だに不透明だ。


 そして、新たな安全保障システム、超高齢化社会への対応でTPP交渉に期待するエコノミストの論理も、徐々に明らかになっている。次回は、国民皆保険制度を軸に、TPP交渉を支持するエコノミストの具体的な医療制度論をみていく。(幸)