●どうして医の倫理は必須化されないのか


「医の倫理」を勉強すると息巻いて、このコラムを発信させたわけだが、教科書としてあたると述べた『WMA医の倫理マニュアル』(日本医師会 樋口範雄監訳)、『生命倫理の源流』(岩波書店 香川知晶、小松美彦)、『医の倫理』(第2版、東京大学出版会)のタイトルをよくよくみていて気付いた。というより、まず基本中の基本として、意識しておかなければならないことがあったことにあらためて気づかされた。


 一般的な意味で「医の倫理」と考えはしたが、「医の倫理」、「生命倫理」、「医療の倫理」とは似ているが非なる部分もあるのではないかということに、である。医の倫理で集約した場合、医科学者、医療者が「医療とされる科学技術」を道具として、患者といかに対応するか、あるいはそこにおける態度、姿勢、協調、共感などがどうあるべきかが基本となるかもしれないが、どうやらいくつかの関連本を斜め読みしても、患者側が能動的におくべき「倫理」というものに、あまり深く言及されたものはない。医の技術を受ける立場は受動態だと最初から決めつけられている側面もあるが、熊谷晋一郎らが編み出した「中動態」的な患者論から出発すれば、医療者や医療技術に対する患者の倫理も多くの論及があってもいいのではないかと思える。


 それはやさしくて、親切で、適切で、不快感の小さい医療を受けるということではなく、どう生きるべきか、どのように死ぬか、どのような医療を選択するかの、自己決定権の倫理的保証である。いきなりの結論的な言い方をすれば、「どうしますか」と医療者が訊くことではなく、患者が医療者にどう問いかけるかが確保されるための「倫理」だ。


●落ち着かない生命倫理「学」


 さらに悩ましいのは、「生命倫理」は、医の倫理、医療の倫理より実はさらに根源的で、「どう生きるか」「どう死ぬか」より前に「どう生まれるかの」の視点があるということである。そして語られる「生命倫理」の多くは、生殖医療の異常ともいうべき急速な進歩に対する落ち着きのない論議の途上にある、という印象が強い。


 さらに、「生命倫理」の議論、研究は公的規制のあり方、法制化との距離の取り方、あるいは最大公約数的な論理を層化させて語ることが多いことも特徴だ。公的規制が、生命分野で父権主義的に争論されるのはかなりリスキーで、現実に行われているいくつかの生殖医療に関連するとみられる日本国内の議論も、これが先進国かと見紛うような漂流を続けている。


 生殖医療の進歩を単なる技術として捉え、生命倫理に対する未熟な感性について、中国の一人っ子政策や、遺伝子編集での双子ベビー誕生をもとに議論する向きもあるが、それはそれで問題ではあるものの、日本の政治体制、官僚体制の父権主義への頑固な踏みとどまりは、中国を批判できるレベルなのだろうかという問題もある。生命倫理に関しては基礎的な学習を終えた段階の各論で、また勉強し直す。


●弱い存在に対する振る舞い


 ここからは医の倫理、医療の倫理についての学習を少し詳しめにやってみたい。とは言っても、このコラムの執筆者(私)は研究者でも学者でも、評論家でもない。そのため学習しながらフリーハンドでその時々に受けた印象を、かなり直接的で感情的な認識も挟み込んで伝えていきたい。


 まず「医の倫理」とは何か。医療倫理学者の宮坂道夫は、著書『弱さの倫理学』(2023年2月刊・医学書院)で、医療をめぐる定義としての「医療倫理」は、「医療従事者が、患者という弱い存在を前にして、自らの振る舞いを考えるものだということになる」と述べている。むろん宮坂の本は、彼の語る倫理自体が「弱い存在を前にした人間が、自らの振る舞いについて考える」ものだとしているので、彼の「医療倫理」がその軌道で語られていることを前提にしなければならない。しかし、宮坂の語っている「医療倫理」は、一般論的に受け止められている考え方と大きな違いがあるわけではない。その意味で、ここから先は「医療倫理」をそこの視点で括ってみていきたい。


 もうひとつ、いくつかの医療倫理、医の倫理に関する本を読んでいくと、こうした医療に関する倫理がひとつの歴史的規則性から重視されてきているということを私は心にとめている。むろん、ヒポクラテスの時代から「対患者」倫理についての見解がまったくないわけではないが、それでも20世紀半ば以降からの急速な医科学、医療技術の進歩が、倫理についての考察や医療従事者の学習事項として重要性を増しているということは間違いない。


 映画評論などで知られる蓮實重彦は、最近の読書雑誌のエッセイで、「科学技術」という言葉を耳にしたら、およそいい加減な話だと確信して、黙って聞き流せばよい、と言う。彼は、「科学」と「技術」はまったく意味の異なる言葉であり、ほとんどの辞書には「科学技術」は載っていない「言語」だという。そのうえで「科学」は真理の探求のことであり、「技術」は科学とは無縁ではないが、「科学に範をとりつつもどこかで、『真』とは無縁な見切り発車を強いられる活動」ではないかと述べる。


 見切り発車だから、大抵は生活の改善に資するが、福島原発事故のような不運な結果ももたらすものもあるのだと。蓮實の説から少し離れてみると、科学は真理の探究なので、「あぁやはりそうなのか」と納得したり、今でも多くが「わからない世界」の夥しさにはっと気づいたりするわけで、「技術」はやはりいくつか「わかった」真理から導き出された「道具」なのだと思い当たる。


 つまり、蓮實の卓見をベースにするなら、医科学で得られた「医療技術」は、どこかで破綻することもあるのであり、そこを見越して準備するのが、科学を基本とする現代医療の「倫理」の必然であるということになりはしまいか。


 ただ私は、科学と技術の間に一線を引くトレーニングができているのは「医学」と「医療」ではないかとも思う。医学の社会的適用が「医療」とするなら、すでに多くの課題が具体的で検証的な論議に入っている。ただ、医科学は、医療のために真理を探求するという目的は明確だ。そうなると医科学自体が、相応に「倫理的な見識」を身に着けて進められなければならないということにもなる。その意味で、「医の倫理」が多くの科学やそれによってもたらされる利便というものに先駆けて検討されるのは必然だといえる。むろん「生命倫理」が枕頭にあることも前提だ。


●当たり前が当たり前ではない


 こうしてみてくると、医の倫理とは、医療を行う者、医療を受ける者にとって、必然的に身に着けておくべきものであり、当たり前の作法ではないかと思えてくる。しかし、どうして今さら、医の倫理がこうしたコラムのテーマとなるのか。まぁ、この社会は至極当然のことに、当然ではないということがいくつもまかり通っているからだ。


 正義の味方の銀行マン、半沢直樹は「銀行は人々のために存在している」などというようなことを言って見得を切るが、それって当たり前のこと。日本ではこうした当たり前のことで見得を切れる社会だと、「医の倫理」から離れたり、遠くなったりして、みつけてしまう。そして、あらためてため息をつくのだ。


 だから「医の倫理」は医学教育の現場では実は当たり前になっていないのである。『WMA医の倫理マニュアル第3版』で、「なぜ医の倫理を研究するのか?」というテーマ設定が2番目に行われている。


「医師が知識と技術のある臨床医である限り、倫理など問題ではない」

「倫理は家庭で学ぶもので、医学部で学ぶものではない」

「医の倫理は、先輩医師がどうふるまうかを見て学ぶものであり、本や講義から学ぶものではない」

「倫理は重要だが、カリキュラムはすでにびっしりなので、倫理を教える余裕はない」


 こうした考え方がまかり通っている世界にWMAがどう反論しているのか。そこの学習から次回は取りかかってみよう。(幸)