●医療がコントロールすべきは「生」


 前回に続いて厚生労働省が1992年から5年おきに行っている「人生の最終段階における医療に関する意識調査」から、事前指示書についての意識調査をみる。


 すでに触れたが、17年度調査では、事前指示書の作成に賛成した人が、実際に事前指示書を作成しているかどうかの設問では、一般国民の91.3%が「していない」と回答、13年度より事前指示書への理解が進んでいるなかで、作成自体はまだ手が付けられていない状況も明らかになった。ただ、非常に面白いのは、一般国民は「作成している」が8.1%なのに対し、医師は6.0%、看護師は3.7%、介護職員は2.7%しか作成していない。


 この結果は、次の設問「事前指示書に従って治療方針を決定することを法律で定めることの賛否」でも、曲線は同様の軌跡となっている。一般国民の「定めてほしい」22.4%に対して、医師は21.1%、看護師は21.0%、介護職員は19.9%に下がる。ただ、「定めなくてもよい」「定めるべきではない」を合算した否定意見は、医師が56.9%と突出しているのに対して、一般国民は45.3%、看護師47.2%、介護職員47.3%と、医師とは大きく意見が隔たっている。医師には、事前指示書に対する懐疑がまだ大きく、治療方針が事前指示書に縛られることへの違和感が大きいことが理解できる。


 筆者は、まだ社会的合意を得る論議が不十分なままのこの時期において、医師の56.9%も低すぎるのではないかと思えるのだが、それでも医師に事前指示書の本質的意味がよく理解されているという証明にはなるのではないかという印象は持つことができた。


 一方で一般国民や看護師、介護職員は3分の1程度が「わからない」のが実状であり、それは社会的にこの事前指示書に関する理解と論議が不十分であることを反映していると言えるだろう。しかし、前回にも触れたが13年度調査と比して、事前指示書を作成している人は一般国民で5ポイント近く増えているのは、事前指示書が情報としては社会に流通していることを示しているのではないか。法律で定めることへの賛否も、医師は13年度には71.3%が否定的だったのに比すと、15ポイント近く減っており、医師に事前指示書の制度化容認論が広まる可能性が高いのではないかとの予測もできる。


●ACPありきの懸念


 事前指示書という形式にとらわれずに、治療方針の決定に関してもこの調査は聞いている。「自分が意思決定できなくなったときに備えて、自分が信頼して自分の医療・療養に関する方針決めてほしいと思う人、もしくは人々を選定しておくことについての可否」では、一般国民は62.7%が賛成し、医師は74.8%、看護師74.4%、介護職員77.8%が賛成だ。一般国民より、医療者・介護者が10ポイント以上上回るということは何を意味しているのだろうか。治療方針の決定について、どこか相手任せにする気分が濃厚に伝わるといえば言い過ぎか。


 しかし、この調査結果は、官が進めたいアドバンス・ケアプランニング(ACP)に対する理解度を探る下地の設問となっており、医療者・介護者にその意図を認識させ、一般国民に開発していくという仕組みを理解するうえで実証的なデータでもある。すでに詳しいACPに関する情報は医療者たちには伝わっているのであり、その情報の非対称性を浮き彫りにしたなかで、事前指示書への誘導をうかがう意図は見て取れないだろうか。


 設問では、ACPについて「人生の最終段階の医療・療養について、意思に沿った医療・療養を受けるために、ご家族等や医療介護関係者等とあらかじめ話し合い、また繰り返し話し合うこと」と説明し、その認知度を聞いている。「よく知っている」は一般国民は3.3%であるのに対して、医師は22.4%、看護師は19.7%、介護職員は7.6%で、情報の認知度は大きく差がある。またACPに対する賛否では、賛成は一般国民64.9%に対して、医師75.9%、看護師76.7%、介護職員80.1%と落差が生まれている。とくに8割を超える介護職員は、接する患者・入所者が相対的に意思疎通を取りにくい人が多いこと、それに対する現場での懊悩が反映されている可能性が高い。しかし、ACPはそれほど効果的な「最期」への処方箋になるのだろうか。


 ACPの理念は、「患者自ら」が、「人生の最終段階の医療・療養について、意思に沿った医療・療養を受けるために、ご家族等や医療介護関係者等とあらかじめ話し合い、また繰り返し話し合うこと」だとされる。言ってしまえば、患者自身が「その気にならなければ」できない話だということに、一応は理解されるのだが、医療や介護の現場でそうした患者ファーストが実践されるだろうか。その意味では、一般国民と医療者らの認知度の落差、ACPへの賛否の違いに着目しておく必要は高いと筆者は考える。


 この問題は、急ぎすぎてはならないのだ。どこかに「誘導」、促し(ナレッジ)が入り込む余地はないか。そして、誘導や促しが、臆面もなく医療や介護の現場で当たり前の風景となったとき、安楽死の制度化にまで「発展」を求める風潮が醸成されることは間違いないと確信する。


●ACPを曲解する危惧


 現実には、控えめではあるがACP的な協議はすでに通常の景色になっているかもしれない。とくに、介護現場では、本人の意思確認を行うことは不可能なので、家族と介護者の間で協議が行われることが多いようだ。しかし、それも現状のスタイルで留め置くべきで、それらを発展系にすると、結局、制度がほしくなるのだと思う。


 8月11日付の朝日新聞投稿欄では、「ACPは患者の大事な時間を使って行うものであり、医療者はACP自体が目的にならないようにしなければならない」という若い看護師の意見が掲載されていた。非常にまともな意見であり、医療関係者にもACPが目的化することや、それによる治療方針決定が安易に流れることへの警戒があることを知らされた。


 一方で、延命治療を求める患者の声に配慮のない医師の説明を難じる投稿も寄せられていた。投稿内容の医師の説明をここで掲載するのは避けるが、非難されても仕方のない無作法なものだ。こうした医療側の誤解を助長するようなACPの浸透があっていいはずはない。常に、検証とリスクマネジメントが必要なことは当然であり、ACPを曲解したまま、医療現場で一律に延命治療が否定される時代の到来は避けるべきなのだ。


 海外でも事前指示書に対する意見は論議の途上だ。現代米国医療の精神的支柱ともされるアトウール・ガワンデは事前指示書賛成派であり、アイルランドの腫瘍内科医のシェイマス・オウハマニーはこうした動きを厳しく批判している。


 この連載の1回目で、筆者は現在の尊厳死論や、ACPにつながる最期の在り方に関する議論が、「介錯」の仕儀とは違うのではないかと書いた。尊厳死や平穏死が一般人の教養と常識とたしなみとマナーになり始めている現状で、一斉に早く死んでしまえという議論が起きているのではないか、と。そして、それを支える道具となり始めているのがリビングウィル、エンディングノート、総じて言えば「事前指示書」だ。


 介錯を要請する意味で、「延命医療は拒否する」と事前に指示しても、人の心は移ろうし、また人それぞれだ。それでも医療がそこに分け入って独断解釈し、事前指示書に忠実になろうとしているのが現代なのだ。何度も言うが、医療がそこに出しゃばってはならない。


 オウハマニーは、著書『現代の死に方』で、事前指示書ブームを必要悪として受け入れざるを得ないかもしれないとしながらも、生死が不確実なことを無視した「幻想を永続させるもの」としている。生死は「不確実」なのだ、そこの部分に医療は存在している。そして医療は「生」にその使命がある。死をコントロールする存在では決してない。(終)