前回、89年から90年までの間に行われた「日米構造問題協議」は、85年のMOSS協議(最終報告は87年)を経て、日米間の通商交渉は、例えばかつての繊維、その後の自動車問題、半導体問題などのきわめて分野が絞られた形での交渉から、お互いの産業構造に対する問題提起、障害の概念の具体化などに進むことになった状況を示した。つまり、産業構造そのものから協議するという視点が、MOSS協議を経て「日米産業構造協議」という交渉過程の中で熟し、今日のTPPという大きな課題の主旨である日米市場の構造的統一化を図る三段跳びのホップの第1歩が空中を飛んでいたと指摘した。


 そしてこの協議が、特に日本国内においては、協議課題の多様さ、複雑さから、行政府内部でのまずハーモナイズが必然となり、そのために省庁間での利害が表面化し、いわゆる省益をかけた駆け引きが内部で起こることを表面化させたこと、そして、その背景にいる産業間の利害が表面化し、いわゆる族議員のあからさまな介入も表に出てきた。


 こうした問題を噴出させた点では、「構造問題」のあぶり出しであり、それまでの繊維、自動車、半導体などという個別分野での通商交渉とは異なる側面があらわになった。省庁間の争いは予算の折衝ですでに明白だったではないかという指摘もあるだろうが、国の産業構造を日米交渉という観点から、いわばグローバルに焦点化したという点では、日本経済の長短、構造改革の必然性を含めて、より大きな視野と展望の中で、省庁間、産業間が調整と協議、争いが必要になってきたという点では、予算の分捕り合戦とは全く色合いの違うものだ。


●産業的視点では前をみていた通産省


 少し脱線するが、こうした産業構造の転換、あるいは変化というものに早くから当時の通商産業省は注目していたフシがある。特に、日本の高度経済成長がやがて歩を緩めるのではないかとの観測のもとに、高齢化とそれがもたらす消費構造の変化におっかなびっくりという姿勢はあったが予測が行われ、早期からひそかに研究を始めた形跡がある。80年代初めには、産業構造審議会の小委員会で国内消費の変化に呼応した新しいビジネスの模索が必要だという指摘もあったようだし、実際に大幅な入超産業だった医薬品産業について、知的産業育成の観点から、当時の厚生省の所管に医療関連産業を任せることの是非について議論が行われたこともある。厚生省は規制官庁であり、育成官庁の通産省が産業側に立って厚生省と対峙する必要を説く意見も出たとされる。


 医薬品産業の育成政策に関しては、健康保険制度と密接に関与するテーマだけに、結局は政府内では大きな火種になることはなかった。通産省が当時、声を張り上げていたら医療団体まで巻き込んで相当に大きな騒ぎになったであろうが、なぜか産業構造審議会がこれを大きなテーマとすることはなかった。現在の医療制度改革の流れ、特に薬価制度に関しての論議の展開をみると、通産省が育成官庁として医薬品産業を所管していたらどうなっていただろうかと考えると、一遍のSF小説が書けるような気もする。


 広瀬正のSF小説に、レーダー開発に戦前の日本が積極的に取組み、結局、日本は第2次大戦に勝利し、世界の超大国になっているというものがあるが、スケール感は別として、医療用医薬品をめぐる制度的対応は大きく変化し、ひいては健康保険制度自体にも大きな変化をもたらしていたのではないかと想像できるのである。


 医薬品産業論は別として、通産省は、まるで秘密裏に進められたような論議を下敷きにして、省内に何度か「ニュービジネス」を看板にしたワーキングチーム(WT)のような「室」を何度か設けている。このWTは、非常に意識的に人口の高齢化とそれに伴う消費構造の変化を基本に政策の先取りを研究した。中でも、医療とは違うケアシステムの研究、つまり介護、在宅ケアに関する米国市場のリサーチや、ケア産業育成のためのモデル的事業開発などの研究も進めていた。これらの経緯については、当時の通産省の外郭団体が出していた広報的冊子に何度か特集された経緯もある。


 また並行して、流通産業全体の構造改革も視野に入れ、流通業者の「情報武装化」をキーワードにした構造改革研究も進めていた。特に医薬品流通についてモデル的に捉えた研究チームも実際の事業者も交えて研究、レポートも出している。もっとも、さすがに医療用医薬品流通をテキストにするのは厚生省に遠慮した様子で、OTCやビューティケアを軸にした流通研究、今のドラッグストアを先取りしたような研究が行われた。しかし、「情報武装化」をキーワードとするのは、医療用医薬品がその先に見えていたと勘ぐることもできる。


 さらに、面白いのは、日本の自動車産業の隆盛に寄与した通産省の有名なトップ官僚(城山三郎の経済小説のモデルにもなった)が退官した後、「余暇」をテーマにした研究事業組織を立ち上げたことだ。こうした背景には、日本の人口の高齢化が明確に産業的視点から先取り研究する必然があることを通産省が認識していたことを裏付ける。この組織の立ち上げのパーティーには当時の日本医師会長も出席し、スピーチしていることも当時としてはかなり異例のことのはずだったが、日本メディアは何の関心も持たなかった。この余暇事業研究は雲散霧消したようにみえているが、前述したケア事業研究の一部を担っていたとも予測できる。


 介護事業に関するビジネス研究が通産省で進められる一方で、当時、厚生省はJETRO(日本貿易振興機構)にキャリア官僚を派遣し始めている。そのうちのひとりが、介護保険制度創設の重要なワーキングチームの事務方トップであったことは意外に知られていない。JETROへの厚生省の参入は、通産省の動きと合わせてみると、省庁間の牽制活動にもみえる。


●数値目標の既定化を目論んだ米国の「包括交渉」


 さて、そうした国内の構造調整の課題も炙り出した「日米構造問題協議」だが、これは89年9月から90年6月まで計5回行われ、同6月に最終報告書が出されたが、その後もフォローアップ会合が91年、92年の2年間に2回ずつ行われている。ただ、92年に行われたブッシュ大統領と宮沢首相の首脳会談は、米国製自動車部品の日本メーカーの購入に関して、94年には米国内購入、日本国内購入合計190億ドルの購入額で合意された経緯があり、これが「政府間の約束」か、「努力目標」かで日米の考え方が異なったことで、軋轢を生む素地となる。そしてこのことが日米包括経済協議へとつながっていく。


 経済問題を前面に打ち出して92年の大統領選挙でブッシュに勝ったクリントンは、93年に就任するや、すぐに公約の実行にとりかかる。前号でも触れたが、米国産業界と協議する「通商政策・交渉諮問委員会」(ACTPN)を設置する。ACTPNが打ち出したのが、交渉促進策として相手国の市場開放進展度を指標化することで、これを背景に行われたのが93年4月の、宮沢・クリントンの会談で「日米包括経済協議」の創設だ。


●クリントン大統領の登場と日本の政治の混迷


 当然のことだが、この協議の最大の争点は「数値目標」だ。包括協議の準備会合で、米国側は、①日本の経常黒字をGDP比で92年の3.2%から95年までに2%以下に削減する②日本の製品輸入のGDP比で92年の3.5%から95年までに4.7%程度まで引き上げる③個別協議(政府調達、規制緩和など)については複数の尺度を設定して交渉を進める——の3点の数値目標を求めた。


 この数値目標については、4月以降、事務方の協議は難航する。背景には米国側が通商法301条の発動をちらつかせていたこと、それに反発し、恫喝的な数値目標設定には同意できない日本側の反発が大きかったとされる。この間の日米間のやりとりについては、現在では多くの証言が存在するが、その詳細はここでは触れない。基本的には、日本側は恫喝的で強制的な交渉に対してノーの首を振り続けていたわけで、当然ながら交渉は暗礁に乗り上げる。一方で、国内では政治が迷走する。


 6月の国会で不信任決議された宮沢首相は、93年7月に、クリントンに対する親書で、マクロ経済に関しては対日貿易黒字の削減には努力すること、個別については数値目標や対外的公約はしないが参考指標としてなら導入に合意するといった内容の合意を示し、自らの花道である東京サミットでの首脳会談のお膳立てをする。しかし、東京サミットでの日米首脳会談では、米国側は宮沢親書に一定の理解を示したものの、なおも妥協の範囲拡大を求めていくつかの具体的提案を行ってきたという。


 結局、首脳会談では共同声明で、数値目標については交渉の進展の評価を行う目的で使われるという極めて曖昧な表現で、優先3分野などの交渉内容を決めて、包括協議が継続されることで決着した。


 優先3分野は、①政府調達(電気通信と医療機器)②保険③自動車。妥結が難しかったのは自動車であったことは、現在でも類推できるが、後のレポートをみると各分野とも交渉は暗礁に乗り上げたとされている。結局、事務方を中心とした交渉ではまとまらず、妥結は、94年2月に行われた細川首相とクリントン大統領の首脳会談に持ち越されるが、この会談はいとも簡単に決裂した。クリントンは「意味のない合意」は無用だとし、細川首相は、これまで日米交渉は玉虫色の決着で総称の誤解を生んできたとして、数値目標を安易に誤魔化して決着することを潔しとしなかったとされる。


 しかし、このことは、米国側の猛然とした攻撃を受ける背景になった。ただ、日米間それぞれの国内事情も手伝って、包括協議は5月には再開、再び決裂、12月に再々開というような交渉の経過をたどる。日米包括協議はその後、自動車問題を軸にWTO(世界貿易機関)の創設などもあって、文字通りの国際協議に進展するなどしたが、実質的には2000年に幕切れを迎える。


 次回は優先3分野のうち、あまりもめなかったとされる保険分野について日米協議の内容を概観したい。(幸)