今回からは、89年から90年までの間に行われた「日米構造問題協議」、そして93年から行われた「日米包括経済協議」における、日米間の戦略、交渉内容、時代背景などを概観してみる。
この間、日本では88年から92年頃までの強烈なバブル時代を経験した。グローバルに、主に米国だが、貿易で得た果実であるマネーが国内市場に還流し、土地価格と株式が高騰した。国民のかなりの層にまでお金は回ったはずだが、今になってみると、多くの人々は、バブル時代は自分には関係がなかった、恩恵は受けなかったという。むろん、バブルで土地や株を通じて一時的に直接的に儲けた人と違い、多くの人はそうした取引を経験しなかったことで具体的経験に結びついていない。しかし、給与生活者は、企業が何らかの形でバブルの恩恵を受け、それなりに所得は増えていたはずだ。懐かしいが、「財テク」という言葉が流行りとなり、営業外利益分が、少なからず配分されたはずである。
そうした熱に浮かされたような時代、日米間の通商交渉はきわめて微妙な変化の中にあったことも事実だ。日本国内では、悲しいかなバブルの熱の中で、こうした変化の兆しがまともに取り上げられることはなかった。85年のMOSS協議(最終報告は87年)を経て、日米間の通商交渉は、例えばかつての繊維、その後の自動車問題、半導体問題などのきわめて分野が絞られた形での交渉から、お互いの産業構造に対する問題提起、障害の概念の具体化などに進むことになった。
むろん、自動車、半導体協議の最中から、そのような指摘、いわゆるたすき掛け的な対抗的戦略がなかったわけではないが、産業構造そのものから協議するという視点が、MOSS協議を経て「日米構造」という交渉過程に定まったということができる。非常に乱暴に分かり易く言えば、この時点で、少なくとも日米市場の構造的統一化を図る三段跳びのホップの第一歩が空中を飛んでいたといえるのだ。
●経済問題については日本への理解を示した共和党政権
ただ、構造協議は米国の政治過程が変質する中で、紆余曲折があったことも事実だ。レーガン大統領の後継としてブッシュ(パパ)が大統領に就任したのは89年である。この頃、対日貿易赤字はますます拡大し、日本経済の日の出の勢いは続いていた。米国内では対日貿易に関する強硬策を講じる要請がいや増していた。そして日本はバブルに突入していたのである。
米国議会はこの頃、スーパー301条の議決を盾に、レーガン、その後継のブッシュ大統領に対し対日強硬策を求める動きが顕在化していた。米国流の自由貿易を守る立場から、米国の恫喝的な交渉戦略に難色を示してきたのは、レーガンもブッシュも同様で、実に共和党の大統領は経済問題に関しては非常にリベラルな姿勢を堅持していたことがわかる。
スーパー301条は簡単に言えば、問題国を指定しその協議内容について一定の情報を迫り、成果が得られなければ報復的な措置をとるというものだ。この行使に否定的なブッシュは、日本側に構造協議を進めることを日本に伝え、結局、日本はこれを受け入れる。このとき、日本政府側の決断は、構造協議であれば、日本側からも米国に要求できると判断できたからだと伝えられている。ブッシュのこうした政治的判断は、92年の大統領選に大きな影響を与えたとの分析もある。ブッシュは92年、クリントンに敗れる。
89年に始まった日米構造問題協議は、米国側から日本の問題として、①貯蓄・投資パターン②土地②流通④排排他的取引慣行⑤系列関係⑥価格メカニズム——が協議内容として提起された。一方、日本側からは①貯蓄・投資パターン②企業投資と生産力(米国の競争力強化)③企業ビヘイビア④政府規制⑤研究開発⑥輸出振興⑦労働力の教育及び訓練——の7分野が挙げられた。
協議は89年9月から90年6月まで5回行われ、6月に最終報告が行われた後、その後もフォローアップ会議が行われ、91年、92年の2回、報告書がまとめられた。この協議は、日本側からの提案が行われるという点では、双方向性、あるいは公平性の確保などの印象が伴うが、現実には米国側に「スーパー301条」という恫喝的背景があったのであり、結果的には日本側が防衛的協議になったことは自d明である。
しかし、この協議では、米国側はあまり大きな成果は得られなかったというのが、現在の評価だ。経済学者によっては、米国側の構造問題も明確になったという点で、日本側にメリットがなかったわけではないという指摘もある。中でも、メートル法の導入に関しては日本側の早期導入を求める提案に対し、米国側がスタディを継続するというニュアンスでやんわりと実現性への消極性を示したという。また、日米間の価格差に関する論議でも、米国産の自動車価格が米国内と日本国内では大きく違うことも、当初問題視されたが、これは国内の流通障壁問題ではなく、米国系自動車企業が、日本輸出価格を吊り上げていたことが明らかになり、米国自動車企業が問題としてあげることに難色を示したなどということもあったようだ。この協議結果が、どちらにどのような効果をもたらしたかを分析、検証することは、この稿の任ではない。しかし、このときに顕在化したことがある。
●日本側の省庁間、産業間の対立も鮮明に
日米構造協議は、日本側も課題を提示するなど、2国間政府のお互いの政策が自国内でどのように影響をもたらすかも課題となるという作用をもたらした。つまり、自国内でも産業間で利害が衝突するケースが生まれてくるのを、どのように調整しながら協議を進めるかも問題となった。前述したように、米国側は6項目、日本側は7項目に関する協議テーマを持ち出したわけだが、その具体的テーマをみていくと、個々にはかなり微妙な国内調整が必要なものが出てくる。
例えば日本側から見ると、貯蓄・投資パターンに関しては中長期の公共投資の拡充計画が必要となるが、土地活用を行うための建築プロジェクト、民間の資金を吐き出すための信用調査の規制緩和、土地売却税の減税、一方で土地取引の活性化のための増税、流通時間の短縮、大規模店舗法の改正と規制緩和、景品表示法の改正(規制緩和)などが目白押しとなった。課題は細かくみれば40項目を軽く超え、その項目ごとに規制分野、緩和分野が混在するという具合になる。
このため、この協議に際しては、大蔵省、通産省(いずれも当時)が機関官庁となるも、関連する問題は多数の省庁にまたがることになり、日本の行政府内部でのまずハーモナイズが必然となってきたのだ。すると、省庁間での利害が表面化し、いわゆる省益をかけた駆け引きが内部で起こることになる。そして、その背景にいる産業間の利害が表面化し、いわゆる族議員も黙ってはいられないということになる。こうした問題を噴出させた点では、いかにも「構造問題」の炙り出しであり、それまでの繊維、自動車、半導体などという個別分野での通商交渉とは異なる側面があらわになったのである。
省庁間の省益をかけた争いは、予算の折衝ですでに明白になっていたことであり、そのこと自体は当時としても珍しいことではなかったが、通商交渉における協議が背景になった点でいえば、所管する産業の盛衰に直結するテーマであり、このような協議では日本国内の行政府の足並み揃えも課題として浮上した。
●経済政策でクリントンに敗れたブッシュ
「構造協議」の第1ラウンドであるブッシュ政権下での日米構造問題協議は、前述したように90年6月に最終報告書がまとめられた。2ヵ月後の8月に起こったのが、イラクによるクウェート侵攻を端緒とする第1次湾岸戦争。これに勝利したブッシュは、しばらく人気を維持していたとされるが、この間も、対日貿易赤字はふくらみ、米国内では不満が高まってくる。92年の大統領選は、クリントンが経済問題に絞って選挙戦を展開、勝利することになる。クリントンは当時、「問題は戦争ではない。経済だ」と言って、ブッシュを罵倒したといわれている。日本ではバブル景気に陰りが見え始め、政治も混沌してくる序章に向っていた頃である。
スーパー301条を背景にしながら、それを押しとどめる形で構造問題協議という形で日本を通商交渉にテーブルにつかせたブッシュの政策は、弱腰とみられて湾岸戦争で一時的に得た人気をフイにした印象が強い。後から考えれば、クリントンの登場は日本にとって、かなり大きなインパクトだったのだが、当時の世論を思い起こすと、日本ではクリントンの戦争批判者の側面が強調され人気を得たようなイメージがある。
実はクリントンが、厳しい「日本叩き」を強調したことは十分に伝えられていなかったのではないだろうか。こうした点では、日本のメディアのいわゆる分析報道が低いレベルであることが理解できる。TPPに関する、最近のメディアの「推進寄り」の姿勢はその延長で考えると、心許ないし、中間選挙における共和党勝利下での今後のオバマ政権の政策変化、オバマ以後を想定するとTPPに関する動静は予断を許さない。
●クリントンが掲げた数値目標という政策展開
米国経済の建て直しを掲げて大統領に当選したクリントンは、早速、貿易赤字の縮小策を練ることになる。赤字の最大の要因は日本であり、交渉の相手として日本が想定されたことは当然だ。
クリントンは就任後、早速に今後の通商政策を、米国産業界と協議する「通商政策・交渉諮問委員会」(ACTPN)を設置する。そしてこのACTPNが打ち出したのが、相手国の市場開放進展度を指標化することで、交渉を促進する方法だった。米国内でのこうした強硬姿勢を背景に行われた93年4月の、当時の宮沢首相とクリントンの会談で創設することが合意されたのが「日米包括経済協議」である。そして、この協議の準備段階から米国側は「数値目標」の設定にこだわるようになる。この協議は、その後の数年間、かなりの曲折をたどる。バブルがはじけ始めた日本では、政治の混沌の季節が始まっていた。(幸)