(1)架空の人物
あらかじめお断りしますが、『古事記』『日本書紀』が伝える第1代天皇神武天皇の実在は、ほとんどの歴史学者は否定しています。ただし、「それらしい人物はいたのではないか」といった話はあるようですが、「天皇家の祖先は、昔々、西の九州のほうからやってきたのではないか」というレベルにすぎません。「日本人の遠い祖先は、20万年前、アフリカで生まれた」と似たレベルと思います。
第2代綏靖(すいぜい)天皇~8代開化天皇も「欠史八代」と呼ばれ、実在がほぼ否定されています。奈良盆地の南西部を根拠とした葛城王朝なるものがあって、天皇系図を古く脚色するため挿入されたのではないかという説もあるようです。仮に、葛城王朝があったとしても、天皇家の血脈とは異なるものでしょう。
余談ですが、以前、あるところで、「現在の天皇は第126代天皇と称されているが、便宜上126代と言っているに過ぎない」と発言したら、ひどく攻撃されてしまった。たぶん、その人は古代史を勉強したこともなければ、『記紀』も読んだことがなく、何かに憑りつかれているのだろう。
そのことは、ともかくとして……
実在していないフィクションの人物ですが、日本にとって、かなり影響を有していますので、取り上げることにしました。
たとえば、日本の「建国記念の日」(※建国記念日ではない)2月11日は、『日本書紀』の日本建国神話(フィクション)において神武天皇が即位したとされる「辛酉(しんゆう、かのととり)の年1月1日」が元になっており、それをグレゴリオ暦に直すと紀元前660年2月11日になります。
中国の辛酉革命説は、60年で還暦、60年×21=1260年、天命によって1260年で統治体制がガラリと変革するというものです。推古天皇9年(601年)に聖徳太子が改革を始めた、それを起点として、紀元前660年が大改革の年になるはずだ、ということです。『日本書紀』は中国を意識しており、我々は、ちゃんと辛酉革命説だって知っていますよ、という感じだと思います。中国を意識していない、いわば国内向けの『古事記』には神武天皇の即位年月日は記されていません。
なお、「建国記念の日」は、国民の祝日に関する法律では、その意義を「建国をしのぶ日」としています。「しのぶ」とは「思いをめぐらす」ことです。
神武天皇へ至る直系は、次のとおりです。
『日本書紀』に最初に登場する神は国常立尊(くにのとこたち・の・みこと)です。混沌の中から生まれます。『古事記』では、最初の神は天之御中主神(あまの・みなか・ぬしのかみ)となっています。
その後、順次、さまざまな神が生まれ、最後にイザナギ・イザナミが生まれます。国常立尊からイザナギ・イザナミまでを、天神七代(神世七代)といいます。
天神七代の解説は複雑ですが、一般的に書物の冒頭部分は重要なものです。一説によると、七代の神の名前を並べると、「たくさんの稲が採れる明るく楽しい国」という意味になるとのことです。
なお余談ですが、戦前、大弾圧を受けた大本教は、国常立尊が中心の宗教です。
イザナギ・イザナミは、非常に多くの神を生みます。多すぎて、一覧表をつくるのが非常に大変です。イザナギ(男)とイザナミ(女)によって、つまり男女和合によって日本がつくられた、を暗示しているのでしょう。
その中の1柱が天照大神です。天照大神~鸕鶿草葺不合尊およびその時代を「地神五代」といいます。
➀天照大神
②天忍穂耳尊(あめの・おしほ・みみ・の・みこと)
③瓊瓊杵尊(ににぎ・の・みこと)……天孫降臨
④火折尊(ほのおり・の・みこと)=彦火火出見尊(ひこほほでみ・の・みこと)。『古事記』では火遠理命(ほおり・の・みこと)。最近の若者は「海彦山彦」のお話を知らないようです。浦島太郎と混同している者もいました。火折尊は「山幸彦」です。
⑤鸕鶿草葺不合尊(うがや・ふき・あわせず・の・みこと)
そして、鸕鶿草葺不合尊の子が神武天皇(第1代天皇)となっています。諱(いみな、「本名」の意味)は彦火火出見で、祖父と同じです。
要するに、『古事記』『日本書紀』の基本思想のひとつは、天皇は神の直系であることをPRするものです。
ついでに、最初の神々は「清いもの」と「濁ったもの」が混じり合った混沌のなかから生まれました。ということは、世の中も人間も、「清いもの」と「濁ったもの」が混じり合っている、そうした認識も基本思想のひとつと思います。地神五代の時代でも天皇の時代でも、親子・兄弟の喧嘩・殺戮の多いことに驚きます。要するに、善悪が混じり合っていることは当然なんだよ、と言いたいのでしょう。戦前教育は、『日本書紀』から、麗しい部分だけを抽出して、「日本はすばらしい」と思わせていましたが、誤りです。戦前教育だけでなく、今日でも、そんな傾向が強いように思います。
(2)大雑把な粗筋(その1)畿内ではピンチの連続
『古事記』と『日本書紀』とでは、若干、異なりますが、ほぼ同じ内容です。基本的に、『古事記』は物語が多く、国内向け、紀伝体で書かれています。『日本書紀』は、隋や朝鮮を意識した正史(公式歴史書)で、編年体で書かれています。
以下は、『日本書紀』をベースにまとめてみました。
㋐天孫族である
磐余彦(いわれひこ)、諱は彦火火出見は、鸕鶿草葺不合尊の第4子です。母は玉依姫(たまよりひめ)で海童(わだつみ)の娘です。日向国の吾平津媛(あひらつ・ひめ)を娶って、手研耳命(たぎしのみみ・の・みこと)が生まれた。
※『古事記』では、2人が生まれています。
㋑一族集団移住を決意。
45歳のとき、「東に美(うま)し国」があると聞き、東へ向かう。
※「神武東征」なる言葉から、なにやら男の兵隊の遠征をイメージしがちですが、私は、一族の集団移住でしょう。老若男女、数十~数百人の規模と想像します。
㋒船団は浪速国に到着
イワレヒコの船団は、筑紫国の菟狭(=宇佐)へ到着し歓迎される。
※『日本書紀』は、681年、天武天皇の命によって書き始まり、720年に完成しました。当時、宇佐神社は九州最大の神社ですから、執筆者達は宇佐に敬意を払ったのだと思います。宇佐神社は全国の八幡神社の総本社です。でも、知名度は低いようです。
イワレヒコ一行の旅は、筑紫国の岡水門(おかのみなと)、安芸国の埃宮(えのみや)、吉備国の高嶋宮と続きます。単に、通過したのではなく、各地で数年滞在しています。
そして、大阪湾の白肩之津(東大阪市辺り)に上陸。
④長髓彦(ながすねひこ)との戦いに大敗
大坂湾から上陸したイワレヒコ一行は大和を目指した。しかし、大和には、すでに長髓彦の一族が支配しており、長髓彦にしてみればイワレヒコ一行は侵略者です。長髓彦は兵を集めて、イワレヒコ軍を迎え撃ちました。この合戦で、イワレヒコの兄・五瀬命(いつせ・の・みこと)の肱(ひじ)に矢が当たり、大怪我を負う。
イワレヒコは「私は日の神の子孫なのに、日に向かって敵に向かった。これは、天道に反する。ここは、一旦、退却する。今度は、日の神を背負って、敵を襲おう」と言った。そして退却した。
⑤紀伊半島を南下、五瀬命の死
大和の東から攻め込むため、紀伊半島を南下した。茅渟(ちぬ、大坂府の和歌山県近く)で、イワレヒコの兄・五瀬命の傷が悪化して、五瀬命は「死んでしまうのか!」雄叫びし、紀ノ國に入った所で死亡。
※「ミコト」の漢字には、「尊」と「命」があり、ミコトの中でもトップクラスには「尊」を使用。
⑥紀伊国の名草村の名草戸畔(なぐさ・とべ)を殺す
『日本書紀』には、名草戸畔を殺した、としか記載されていない。『古事記』には、まったく記載がない。でも、地元の伝承では、女性族長とされている。残虐にも、頭、胴、足が切り離された。名草の住民によって、頭は宇賀部神社、胴は杉尾神社、足は千種神社に埋葬された。和歌山市には、名草戸畔(=名草姫命)を祀る神社がいくつもある。それらの本社は、中言(なかごと)神社です。
私の勝手な推測ですが、イワレヒコは大和の東を目指すため紀伊半島をグルリと回るつもりであった。しかし、それは、難しい行程だと思い始めた。そこで、手っ取り早く、通過予定の名草村(現在の和歌山市)を支配し定住しようとした。名草戸畔にしてみれば、まさしく侵略である。しかし、名草戸畔は敗死してバラバラにされてしまった。名草村の住民は、イワレヒコ一行を強烈に憎んだ。そのためイワレヒコは、ここには定住できない、と察知し、物資を略奪して名草村を去ったのだと思う。名草戸畔の死後、この地を治めたのは紀氏であり、紀氏の系図に名草戸畔を組み込みこんだ。名草戸畔の正統な後継者であることを示したのです。そうしないと住民の納得が得られなかったのでしょう。名草戸畔は極めて優れた統治者だったのです。
⑦イワレヒコの2人の兄が暴風雨のため相次いで死ぬ
イワレヒコの船団は暴風雨にあい、イワレヒコの2人の兄、稲飯命(いない・の・みこと)と三毛入野命(みけいりの・の・みこと)が亡くなりました。イワレヒコは、父・鸕鶿草葺不合尊(うがや・ふき・あわせず・の・みこと)と母・玉依姫(たまよりひめ)の第4子です。3人の兄、全員が亡くなりました。
一行は、熊野川の河口である狭野(サノ、新宮市佐野)に、なんとか到着しました。イワレヒコは、狭野で一行を総点検しました。
※難破状態で辿り着き、もはや海路での北上は不可能と判断し、陸路に切り替えた。
⑧熊野荒坂津で丹敷戸畔(にしき・とべ)を殺す
イワレヒコとひとり息子の手研耳命(たぎしのみみ・の・みこと)は、進軍して、熊野荒坂津で丹敷戸畔(にしき・とべ)を殺した。丹敷戸畔も女性族長です。この女性族長がスゴイ。殺される前後に毒を吐いた。イワレヒコ及び全兵士が病んでしまって、軍として不能状態に陥ってしまった。
※難破で物資もなく略奪するしかない。そこで、丹敷戸畔の邑を襲ったのだろう。丹敷戸畔がいかなる毒を用いたのか、あるいは、たまたまなんらかの感染症なのか。イワレヒコ一行、絶対的ピンチ。集団行き倒れの大ピンチ。
(3)大雑把な粗筋(その2)天照大神が大活躍
➀天照大神からの救援「剣」
※イワレヒコ一行は、畿内に着いたらピンチの連続。そして、今や、集団行き倒れの大ピンチです。天上界(高天原)の天照大神は、イワレヒコの無能に呆れはてながらも、救援することにした。物語でも野球でも、絶対的ピンチからの大逆転が、ワクワク興奮するものです。イワレヒコの「9回裏の大逆転」は、いかに行われたか……。
熊野荒坂津に熊野高倉下(くまの・たかくらじ)という人がいました。その彼が夢を見ました。夢の中で、天照大神が武甕雷神(たけみかづち)におっしゃいました。
「葦原中国(あしはら・なかつくに)はひどい騒乱状況です。汝がまた行って、静かにさせなさい」
武甕雷神は答えました。
「私が行かなくても、私が国を平定した『剣』を降ろせば、すぐに国は静かになりますよ」
天照大神は「それでよい」とおっしゃいました。
夢の場面が変わって、
武甕雷神が高倉下に言った。
「私のこの剣は、名付けて『韴霊(ふつのみたま)』と言う。今、この剣をお前の蔵の中に置いていく。これを天孫イワレヒコに献上せよ」
高倉下は「はい。承知しました」と答えました。
そこで、高倉下は目が覚めた。
翌日、蔵を開けると、天から落ちてきたと思われる「剣」が床の板に刺さっていた。すぐに、イワレヒコに献上した。
「剣」を献上されてから、イワレヒコも兵も、ぐっすり長時間眠った。そして元気になった。
※「剣」は物を斬る。そこから、いろいろなモノを「断ち切る」に発展した。
②天照大神からの救援「頭八咫烏(やたカラス)」
イワレヒコ一行は大和へ向かう。しかし、山が険しく、道もなく、行ったり来たり。どうしても、山を越えられない。要するに、険しい山の森林の中で、集団迷子になってしまった。またも、集団野垂れ死にの大ピンチ。
イワレヒコは夢を見ました。
夢の中で天照大神が「私が今から頭八咫烏(やたカラス)を贈ろう」とおっしゃいました。
その夢どおり、空から頭八咫烏が下りてきた。
イワレヒコ一行は、頭八咫烏の先導で熊野から北上し、寃田(うだ)に到着した。『古事記』では、宇陀と書く。奈良県北東部です。
※『日本書紀』では「頭八咫烏」と書いてある。意味は、「頭が大きいカラス」です。『古事記』『日本書紀』のどこにも、「三本足カラス」の記載はありません。日本サッカーは、なぜ「三本足カラス」=「八咫鳥」をシンボルにしたのでしょうか……。珍説も含めいろいろな説があるようです。
③寃田(=宇陀)での兄弟死闘
寃田(=宇陀)の地は、猾(うかし)兄弟が治めていた。弟はイワレヒコに従い、兄はイワレヒコを騙し討ちしようとしていた。しかし、兄の企てはバレて死に至ります。弟はイワレヒコ一行を牛肉と酒の宴会でもてなします。その宴会で歌われた歌は「来目歌(=久米歌、くめうた)」と呼ばれ、その歌詞がのっています。
※「来目歌(=久米歌)」は宴会用ヒット曲です。歌詞は省略。
④吉野の先住民
寃田(=宇陀、奈良県北東部)に滞在しているイワレヒコは吉野(奈良県南部)の地を視察しました。
井の中から人が出てきて、その人は光っていて尾があった。吉野首(よしの・の・おびと)などの始祖です。
岩を押し分け、尾がある人が現れた。吉野国樔(よしの・の・くず)などの祖先です。
吉野川で梁(やな)で魚を捕る人がいました。阿太養鸕(あだのうかい)などの始祖です。
※「尾」がある人は存在しません。おそらく、毛皮をまとっていたのでしょう。繊維の衣服ではなく、毛皮をそのまま身につける非文化人という感覚なのでしょう。
⑤天照大神からの必勝法
イワレヒコは、寃田(=宇陀)の高倉山に登って国中を眺めました。国見丘の上に、敵の八十梟帥(やそたける)が居た。八十梟帥は女坂に女軍、男坂に男軍を配置していた。
※女軍とは、おそらく巫女集団です。
また、磯城(しき)邑(=奈良盆地の南西部)には磯城八十梟帥が敵対姿勢を見せている。高尾張邑でも赤胴八十梟帥が敵対姿勢を見せている。
イワレヒコは困り果てました。
その夜、天照大神の夢を見ました。
「天香山(あまのかぐやま)の神社の土を取って、酒杯を80枚、酒瓮(さけかめ)を造り、天津神と国津神を祀り、厳しい呪詛(じゅそ)をかけなさい。そうすれば、敵は自然と従うことでしょう」
イワレヒコは、夢のとおり実行しました。
さらに、米から飴(あめ)をつくって呪詛をかけて川へ流しました。
イワレヒコは、まず、国見丘の八十梟帥(やそたける)を撃破した。残りの敵は、宴会を催しておびき寄せ、酔った敵を皆殺しにした。
次いで、磯城に対しては、兄弟を分断して、敵対する兄の磯城軍を打ち破った。赤胴八十梟帥も屈服した。
⑥長髓彦(ながすねひこ)との再戦。金色の鳶(とび)
次に、最大の敵、長髓彦との戦いです。大坂湾から上陸して、敗北した相手です。連続して戦ったが、勝てない。
そのとき、突然、空が暗くなり氷雨が降ってきた。そして、金色の鳶(とび)が飛んできて、イワレヒコの弓の先端に止まった。鳶の光は電流のように輝いた。そのため、長髓彦とその兵達は戦意を喪失しました。
※金色の鳶も、天照大神が遣わした。
⑦長髓彦が殺される
戦意を喪失した長髓彦は和解に乗り出します。
長髓彦は言います。
「昔、天津神は饒速日命(にぎはやひ・の・みこと)をつかわし、私は、その饒速日命に仕えている。どうして、天神の子が二人もいて、一つの国を奪い合いするのか」
イワレヒコは応じます。
「天神の子は多くいるものだ」
両者は、天神の子の証拠の品を見せ合います。
そうこうしていたら、饒速日命は、天神が最も大事と思っているのは、天照大神の子孫と知っていたので、長髓彦を殺しました。そして、饒速日命及び長髓彦の支配地域の人々はイワレヒコに従うことになりました。
なお、饒速日命は物部氏の祖先です。
※瓊瓊杵尊(ににぎ・の・みこと)の天孫降臨神話以外にも、天孫降臨神話があり、饒速日命の天孫降臨神話は、そのひとつです。
※長髓彦陣営は、負けそうになったので、内部分裂した。
⑧土蜘蛛を征伐
大和の4ヵ所に土蜘蛛がいて、イワレヒコに従わない。皆殺しにした。
※「土蜘蛛」とは、文化水準が低い集団をいうのだろう。
(4)即位
➀橿原(かしはら)に都をつくる
3月1日、日向を出発して6年目、大和を平定して、ここを定住地とし、都をつくると発表。なお、『古事記』では16年目と計算されています。
②皇后を迎える
庚申(こうしん)の年9月24日、媛蹈韛五十鈴媛命(ひめ・たたら・いすず・ひめ・の・みこと)を正妃に迎え入れた。正妃選びの際、ある人が「この姫(五十鈴媛)は国色(かお)が優れています」と言うと、イワレヒコは大喜びした。
③即位
辛酉(しんゆう)の年1月1日、橿原宮(かしはらのみや)で即位した。正妃を皇后とした。
「始馭天下之天皇(はつくにしらす・すめらみこと=初めて国を治めた天皇)である私は、神日本磐余彦火々出見天皇(カムヤマトいわれびこ・ほほでみ・ノ・スメラミコト)と名乗ることにしよう」
2人の間に3人の男子が生まれた。
神武2年2月2日、論功行賞を行った。
神武4年2月23日、天照大神を鳥見山に祀った。
神武31年4月1日、天皇は国内を視察して、「ああ!良い国を得た!」と言いました。
神武42年1月3日、皇子の一人を皇太子にした。
神武76年3月11日、崩御。1277歳。翌年9月、畝傍山(うねびやま)の北東の陵(墓)に埋葬。
ここで、3つのことを確認しておきます。
1つ目は、イワレヒコが即位するまでは詳しく書かれていますが、即位後はほとんど何もしていません。天皇第2~9代も家系図が書いてあるだけで業績・物語がありません。そこで、「欠史八代」と言われていますが、即位後の神武天皇も「欠史八代」と同じです。神武天皇不存在説の根拠のひとつになっています。
2つ目は、イワレヒコ一行は集団行倒れ寸前までいった無能・非力集団だった。しかし、天照大神の次から次への援助で大和平定を成した。神武天皇の話とは、「イワレヒコはスゴイ」物語ではなく、「天照大神はスゴイ」物語なのです。
3つ目は、神武天皇が天照大神を祀ったのは鳥見山(奈良県宇佐市の西)です。伊勢神宮ではありません。「伊勢神宮=天照大神」として大々的に脚光を浴びるのは天武天皇からです。
(5)イワレヒコの妻問い物語
『日本書紀』の皇后に関する記述はたんたんとしたものに過ぎません。しかし、『古事記』の記述はおもしろい。『古事記』は国内向け、物語ふんだんの内容です。以下は『古事記』です。
➀イワレヒコは日向にいたとき、阿比良比売(あひら・ひめ)を娶った。『日本書紀』では、吾平津媛(あひらつ・ひめ)の文字になっています。
②大和平定が成り、イワレヒコは、皇后として美しい女性を探し始めました。それを聞いた大久米命(おおくめ・の・みこと)は言いました。
「いい娘がいますよ。彼女は『神の子』と言われています。『神の子』と言われる所以は……」
三島ミゾクヒの娘に勢夜陀多良比売(せや・だたら・ひめ)という美少女がいました。三輪山(みわやま)の大物主神(おおものぬし・かみ)が、彼女を気に入り、少女が大便をしている時に、丹塗矢(にぬりや、丹を塗った赤い矢)に姿を変え、そのトイレの水が流れる溝に流れて、少女の陰部を突きました。
驚いた少女はあわてて走り回りました。
すぐに矢を床に置くと、矢は立派な男の姿になりました。その男が少女を娶って、産ませた子が、「富登多多良伊須須岐比売命」(ほと・たたら・いすすき・ひめ命)です。ほと(陰部)という名を嫌って、別名「比売多多良伊須気余理売」(ひめ・たたら・いすけ・より・ひめ)と言います。
そう大久米命(おおくめ・の・みこと)は言いました。
③7人の娘が高佐士野へ遊びに来ました。7人の中に、伊須気余理売(いすけ・より・ひめ)」がいました。大久米命は歌を以って言いました。
倭の 高佐士野を 七(なな)行く 彼女ども 誰れをしまかむ
伊須気余理売は先頭に立っていました。イワレヒコは、一目で気に入ってしまいました。そして、歌で答えました。
かつがつも いや先立てる 兄をしまかむ(※兄=年長者)
かくして、大久米命はイワレヒコの意思を伊須気余理売に伝えにいきます。大久米命の目には刺青があり、伊須気余理売は奇妙に思えて、歌で尋ねます。
天地(あめつつ) 千鳥ましとと など黥(さ)ける利目(とめ)
意味:あなたはなぜ、いろいろな鳥のように、目のまわりに入れ墨をして、鋭い目つきをしているのですか。黥=入れ墨。
これに対する大久米命の返歌。
おと女に 直(ただ)に逢わんと 我が黥(さ)ける利目(とめ)
意味:あなたのことを直接たしかめるため、鋭い目つきをしているのです・
かくして、伊須気余理売はイワレヒコとの婚姻を承諾した。
そして、イワレヒコは狭井川の上にある伊須気余理売の家で一泊する。
葦原の 穢(しね)しき小屋に 菅畳(すかたたみ) いや清敷きて 我が二人寝し
意味:河原の草むらにある むさ苦しい小屋に スゲの畳を清く敷いて、2人で寝たな~。
2人の間には、3人の子が生まれた。『日本書紀』では2人の子になっています。
なんと申しましょうか、おおらかな、ほのぼのとした男女関係であります。古代にあっては、現代に比べ、セックスは実に寛容、大らかでありました。
最後に一言。神武天皇が崩御すると、「先妻の子」と「皇后・伊須気余理売の3人の子」の間で、2代目天皇の地位をめぐって、血みどろの争いとなりました。人の世は清濁混沌です。
…………………………………………………………………
太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。