●弱い存在への「ふるまい」として


 さて今回は、WMA(世界医師会)「医の倫理マニュアル第3版」で、「なぜ医の倫理を研究するのか?」というテーマ設定について学習してみよう。


 WMAは、医学教育の中で「医の倫理」に関心が払われていないことについて、その理由を以下のような現場的感覚の例示で厳しい批判を示している。


「医師が知識と技術のある臨床医である限り、倫理など問題ではない」


「倫理は家庭で学ぶもので、医学部で学ぶものではない」


「医の倫理は、先輩医師がどうふるまうかを見て学ぶものであり、本や講義から学ぶものではない」


「倫理は重要だが、カリキュラムはすでにびっしりなので、倫理を教える余裕はない」


 これにWMAがどう反論しているのか。ただし、WMAも上記はあくまで一部の例外的見解であり、十分な時間と資源を使って医学生に倫理を学ばせる必要があるというのは世界中の医学教育機関で認識されており、高まっていると釘を刺している。WMA自体、その方向性を肯定するように求める強い勧告も出されている。


 WMAはそうした解説のなかで、倫理は医療行為において本質的な構成要素だとの認識を語り、個人の尊重、インフォームドコンセント、守秘義務などの倫理原則は医師と患者の関係上の基本だとする一方で、実際には問題が生じることが多いとの現実に立って、何が正しいのかを考える必然を語る。さて、その現実とは何か。


 本質的に、WMAの本マニュアルは、「医師、患者、患者家族その他の医療従事者が合意できないこともある」として、倫理を研究することで、医学生がそのような困難な状況があることを理解し、合理的かつ原則に沿って対処することができる、と述べる。翻訳の都合上のささいな問題なのかもしれないが、現場感覚への批判で示した「学ぶ」が、倫理の重要性を医学教育の中では、「研究する」という言葉に変換されている。


 これは医学教育における「医の倫理」に対する態度として、「学ぶ」の受け身では十分ではなく、「研究する」という能動的態度が必要だと意訳すべきなのか、それとも単なる言葉のアヤなのだろうか。教育する機関が学ぶではなく、研究するという場所であるという了解があるなら、医学そのものが教育の段階からもう少し厳格で、自己実現のための鋭敏さが必然だという了解が世界中の医育機関にあってもいいと思えるのだが、どうしても元に戻って、それならなぜ医学教育で「医の倫理」がカリキュラム化されないのかという堂々巡りを始めてしまうことになる。


●学ぶのか研究するのか


 WMAマニュアルでのこの小さな「言い換え」にこだわってしまうのは、総論から続くなかで、「医療に特有なこと」「医の倫理に特有なこと」が述べられていることと無関係ではないと思う。


 医師であることの特別な意味。このマニュアルはそれを過去形で示している。


「人々は肉体や精神の苦痛からの解放や、健康や正常な状態への復帰という最も緊急の必要性に迫られ、助けを求めて医師のもとへやってきます。医師に体の最も恥ずかしい部分を含むあらゆる部位を見せ、触り、動かすことを許します。人々がそうするのは、医師は患者の最善の利益のために行動すると信頼しているからです」


 この前段では、医師が信頼されている理由が語られるが、次のパラグラフでは、医師の地位は国により異なり、さらに全般的には低下しつつあることを認めながら、医師が医療改革のパートナーになっていないこと、患者が主治医以外の情報を求め、アクセスする状況が生まれていること、医師だけに許されていた「医療的行為」がタスクシフティングしていることなどの現実を示し、過去形に至ったバックグラウンドを示唆する。


 そのうえで、医の倫理を学ぶか研究する必然について、「患者と学生双方の期待に応えるためには、医師が医療の中核となる価値、とくに共感、能力、自立について知り、自ら示していくことが重要」で、それが「基盤」だと宣言している。


 倫理学者の宮坂道夫は「医療倫理」とは、医療従事者が患者という弱い存在を前にして、自らのふるまいを考えるものだとしており、WMAの「必然」はそれに照らしても軌道は同じだと了解はできる。


 しかし、WMAマニュアルの医師の地位が全体的に低下しているとの認識は、実は「医の倫理」の欠如に大きな要因があるのではないかとの分析には至っていないように思える。「医療の中核となる価値」の、「共感、能力、自律について知り自ら示していく」ことは、やはり学ばなければならないとは思う。さらに「患者と学生双方の期待」に応えるのは医師だとして、医師全体がその責を負っていることに異論はないものの、医師全体がその教師たり得るかという議論も行われていない。


「倫理」というものは全人的であって、医師が特別な存在と語るのであれば、学ぶ側か、教える側か、研究する側か、研究される側かなどはどうでもいい話であって、自ら示していくという存在であることを医師以外の人々が求めているというのは、言い過ぎのような気がしてならない。


 医師の地位は全般的に低下しているのではなく、パターナリズムの典型としての価値観が薄れ、余計なヒエラルキーに支配されずに、全人的に「倫理」を学ぶ時代が到来したと認識すべきではないのだろうか。「医の倫理」は弱い存在を前にした「ふるまい」という分野、事項であり、その価値を壮大化して、復権的なニュアンスは取り払われるべきかもしれない。


●カリキュラム化する意味はあるか


「弱い存在を前にしたふるまい」を確かなものとしていくためには、医師の前にある弱い存在を覚知して、眼に見えるようにすることが必要だ。医師の「倫理教育」はその前提に立てば、より実践的で学びつつ「研究」資料を蓄え、そのいちいちに自らの認識を加えていくということになる。そうすると、医学教育の中での「カリキュラム」として位置づけることは必然かという疑問も生まれる。


 WMAマニュアルは「共感」「能力」「自律」について、それぞれにその必然の意味と認識を示している。共感は他者の苦痛に対する理解、それを取り除く強い願いの矜持、患者自身が治療してもらっているという感じ取りへのつなぎ、などを示す。能力は医学という高度で継続的な知識、技術、態度の確保であり、自律は自らの自律性だけではなく、患者の自律も尊重する姿勢を求める。確かにそれらが欠けることは患者側である私たちにとって、医師に対する不信の源泉となるものであることは当然である。


 しかし、本質的に「医の倫理」は、弱い存在に対する「ふるまい」として定義され、より実践的で有効な教育課程として確立されるべきだ。ただ、そのなかでは、「倫理」を全人的な課題だとの認識を前提におく配慮が必要だ。


 極端な例を語れば、「弱い存在」のALS患者が死を望んだ場合、その弱さは身体的苦痛と精神的苦痛の両者であり、その両方から解放することが自殺の手助けだとして短絡し、その「ふるまい」が倫理的であるわけがない。こうした医師を作らないために「弱い存在」とは何かを考えておかなければならない。考えつつ、知識として蓄えなければならないのである。


「患者の弱さ」を今の医学教育は丹念に教えているか、という反省が、倫理教育の欠如などという大上段の議論や、宣言や綱領のようなスローガン的なものにすり替わってはいないかと思える。


 さて、そうすると医学教育で学ぶべき患者の「弱さ」とは何か。次回はその周辺を少し考えてみたい。(幸)