前回、医療用医薬品の添付行為などを出発点に、医薬品流通の適正化の動きが顕在化した背景などをみてきた。


 添付は国民皆保険制度がスタートした1961年以後に常態化したとされるが、当時の実態を示すデータはあまり豊富ではない。添付が行われていたことは医薬品流通の史実だが、それがどの規模で、どういう経済的効果、つまりマージンとしてどう配分され、誰がどの程度の利益を受けたかはあまり関心がなかったのか。というより、やはりオマケ販売という営業戦略が医療市場で横行していたことは、誇るべき事実ではないということかもしれない。


 添付は、中央社会保険医療協議会の意向を受けて1970年12月の厚生省(当時)通知により、1971年から禁止された。添付、あるいは添付類似行為が露見したときには、薬価基準削除という厳しいペナルティを課すことも決められ、実際に1975年には1メーカーが3ヵ月間の薬価削除処分を受けている。


 現実には、添付(類似)行為は1980年まで続いていた形跡があり、前回も触れたが、1980年には日本医師会の武見太郎会長が、都道府県会長宛てに流通適正化への協力を求める通達を出し、医薬品の品質確保、薬価差益縮小の観点から、日医として添付禁止を支持していることを明言している。


●乱売が生み出した医薬品の金融機能


 添付の横行の背景には、国民皆保険以前からの医薬品流通の慣行が影響していたのではないかと見られるフシもある。この連載でも触れてきたが、戦後から1950年代にかけて医薬品は乱売競争の時代だった。この乱売競争の時代が遺したのが、医薬品の金融機能だ。廉売され、行き場の少ない医薬品はこれを現金で買い取る流通形態を生んだ。現金問屋の出現だ。


 このため、現金問屋は当初、中小・零細の小売薬局が売買の中心だったが、1961年以降、急速に医療用市場にその機能をシフトさせている。添付等で余剰になった医療用医薬品が現金問屋に集まり、それが中小病院、診療所市場に流通するという状況もあった。添付禁止以降も添付類似行為が続いたと前述したが、卸の営業マンがたびたび医療機関に医療用医薬品を「置き忘れた」り、サンプルという包装形態の出現など、やり方は多彩だったようだ。あるいは逆に、ライバルを監視するメーカー間の添付告発競争もあったという。


●第2薬局、トンネル卸をつくり出した土壌


 医薬品の金融機能はかなり長く、その命脈を保っている。ひとつには、支払いサイトの長期化がある。1960年代から1970年代にかけて、納入先(医療機関)が卸に取引した医薬品代金を納入から実際に支払うまでの期間は3ヵ月以上が普通だった。


 一方、卸とメーカーの間では債権滞留月数は4ヵ月程度。診療で実際に使った医薬品が審査を経て医療機関に支払われるのは2〜3ヵ月。つまり、医療機関から卸の間で、ほぼ20日から30日程度の回転資金が発生する。卸にもほぼ30日程度の回転資金が発生するが、これはメーカーの営業戦略に計算されていることだから、この間はいわば納得づくであり、卸へのマージンと考えられる。


 しかし、医療機関と卸間のサイトの長期化は、長期化すればするほど、医療機関の回転資金となる。そのうえ、利子はつかない。当時、1970年代には手形の長期化は時折話題になった。台風手形、お産手形と別称が生まれ、8ヵ月から10ヵ月という長期化債権も少なくなかったのである。


 1970年代から1980年代にかけて、こうした医薬品流通の実態に目をつけた詐欺的行為もたびたび発生している。経営危機に陥った中小病院や診療所に金融業者がコンサルタントとして入り込み、大量の医療用医薬品を発注し長期の手形を出す。薬を現金化して、手形は不渡りになってしまうというような事件だ。


 一部の医療機関には、こうした医薬品の金融機能に依存してしまう状態もあった。制度改正に乗じて、第2薬局、トンネル卸といった医療機関サイド主導のダークな取引形態に引き継がれていったとみることができる。第2薬局は、薬を媒介にした金融テクニックのひとつではないか。


●重なる医療不信の蔓延と流通転換期


 こうした論調で進めてくると、医療用医薬品流通の元凶は医療機関だったという印象になりかねない。しかし、こうした医療機関の行為は、前記の詐欺まがい行為は別として、大半がいわば「潜在技術料」の確保につながっている。実際に、1981年の16.8%の大幅薬価引き下げ時には、こうした政策が医療機関の経営を直撃するという危機感は医療機関サイドに横溢した。改定直後からメーカーの薬価防衛策が顕著になり始め、地域医師会による大手メーカーのヤミカルテル告発なども起きた。


 また、流通適正化を推進した武見氏に反発する空気が医師会を巻き込み、ポスト武見は反武見陣営から生まれるという状況も生んだのである。薬価差益は縮小されなければならないが、その分は診療報酬でフィーとして手当てされなければ、医療機関も経営資金を確保できないという主張があった。そうした主張が認められたかというと、客観的にみて到底十分だったとは言えないだろう。しかし、大幅薬価引き下げは、薬価差益の存在をいわば認知した形となり、世論の支持を得た。


 少し脱線するかもしれないが、いわゆる「医療不信」という社会世論は、この頃形成され、国民の間に拡大定着したのではないかとみられる。1980年に起きたいわゆる富士見産婦人科病院事件は、「乱診乱療」という流行語を生んだほど、センセーショナルな事件だった。医師資格のない理事長が、不必要な子宮摘出をさせたとして問題になり、同病院との関係を疑われた当時の厚生大臣が辞任するまでに追い込まれた。この事件がその後の医療法改正につながったとされる。


 つまり、1980年の同事件、そして1981年の大幅薬価改正は、医療機関の金権体質というイメージをつくり上げた。そのため、医師、医療機関のフィーを適正に評価するという手続きはおざなりにされた。医療不信の醸成が、医薬品流通の転換期と重なっていることは、覚えておきたいポイントだ。


 ちなみに、富士見産婦人科病院事件は、乱診乱療と報道したメディアが最終的に敗訴し、関与したとされる病院関係者は不起訴となった。事件は報道されたが、事件が存在したかどうかは不透明のまま。そして医療不信だけが残った。


●市場の構造性からみた流通課題の分析は十分だったか 


 医療用医薬品流通の最大の転換期は、1981年の薬価大幅引き下げを契機とした一連の政策の流れであり、1991年の新仕切価制度の導入によって、ヤマは超えた。その間、卸の再編は一気に進み、メーカー系列化などの話はずいぶんと昔の話になった。医薬品流通改革は、ほぼ10年間をかけて一応の形をつくった。しかし、当時のレポートなどに共通しているのは、メーカーと卸間の関係の是正、添付禁止から値引補償制への転換、さらに新仕切価制への移行といった道筋が、製と販の間だけの力学、取引慣行で語られがちであることだ。


 この間のエポックは、革命的に進んだ卸再編、メーカーMRの価格関与のシバリ、MRの資格化などがあるが、医療機関が医薬品の金融機能を手放したことにはあまり関心がみられない。医薬分業は進んだが、医療にはどのようなメリットが生まれたかの検証は少ない。医療制度全体の流れ、医療不信に代表される情報局在の不等性といった俯瞰的な分析は行われていないのではないか、とどうしてもみえる。


 1982年に報告された厚生省の医薬品流通対策研究会(流対研)の「医療用医薬品流通の改善方策について」は、問題をできるだけ幅広い観点から捉えるため、①医療用医薬品の当時者であるメーカー、卸、ユーザー(医療機関)の意識、行動および相互の関係はどうあるべきか(行動面)②医薬品産業の組織など構造的な問題(構造面)③薬価基準制度や医薬分業など諸制度はどうあるべきか(制度面)——の3つの側面からアプローチしたとしながら、報告は流通当事者の行動面を中心に取り上げたと述べている。


 実際には、薬価制度など制度が与える影響は無視していいないが、当面の焦点はメーカーと卸の行動面を重視する必要を強調するものだ。後から考えれば、結局、制度が与えた影響は大きい。次回は、その後の検討組織の一連の論議をみる。(幸)