先週の週刊朝日休刊で、新聞社系最後の週刊誌となったサンデー毎日は、前号に引き続きライバル誌・週朝との別れを惜しむ特集を組んでいる。題して『「週刊朝日」休刊に捧げる雑誌文化論・後編』。執筆者は音楽プロデューサーで作家としても活動する松尾潔氏だ。幼少期から親が購読する週朝に慣れ親しみ、活字文化に馴染んできたという55歳の松尾氏は、週朝最後の編集長・渡辺薫さん(52)との対談に織り交ぜて「時代の節目」への感慨を綴っている。
年齢の近いこのふたりは学生時代から、漫画家・西原理恵子さんとコラムニスト・神足裕司氏による毒舌グルメガイド「恨ミシュラン」や市井の珍妙な出来事を小噺ふうにまとめたコラムページ「デキゴトロジー」を好んで読んだと言い、「かつての週朝は若者にも面白い雑誌だった」と懐かしむ。そのうえで往年の週刊誌には「読み飛ばせる媒体」「ささやかで、役にも立たないもの」でありながら、それがゆえの魅力があった、と語り合っている。
しかし、現代の活字読者には、そういった「緩さ」はもはや求められず、ウェブメディアでは「無料でかつ生活に役立つ情報」しか読まれにくくなったという。言い換えれば、ちょっと変わった視点を持ち、軽妙洒脱な文章で読者を惹きつける「プロの技量」を有料媒体であれ楽しもうとする「読者の側のゆとり」がなくなってきているのだ。ダウンロードした映画を倍速で視聴して、粗筋だけを確認しようとする風潮ともどこか似ている。
週朝休刊に関しては、元週刊現代編集長の元木昌彦氏も日刊ゲンダイデジタルにコラムを書いているのだが、「“家に持って帰って家族みんなで楽しめる週刊誌”を標榜していた週朝をはじめとする新聞社系週刊誌」は、新潮、文春、現代など「政治家や権力者のイロとカネ・スキャンダルとメディア批判」に力点を置く出版社系週刊誌の敵ではなかった、という総括の仕方には正直、違和感を覚えた。
確かに新聞社系メディアには、不倫や離婚など著名人の性愛ゴシップは扱わないという不文律が存在した。その手のネタはあくまでもプライバシー、社会性のない当事者間および家族の問題と捉えていたからだ。このタブーを変えたのが89年、宇野宗佑首相が芸者を愛人にした一件を暴いたサンデー毎日のスクープだ。性愛ゴシップにまつわるスタンスの違いは、それ以降も両者に見られたが、私の知る限りそれ以外の犯罪・スキャンダル報道では、週刊現代より週朝のほうが各テーマに取材記者を投入し、裏取りにも労力を使っていた。文春、新潮はさておいて、現代やポストには「飛ばし記事」が目立ち、同じ出版社系週刊誌でも、そこには大きな差があった。
末期の週朝が取材記事に人員を割けなくなり、スクープ報道で文春や新潮に大きく水をあけられてしまったのは事実だが、その変化は現代・ポストにもあった。いずれにせよ、週朝が休刊に追い込まれた最大の原因は、おそらくその点ではない。往年の週朝の強みはやはり松尾氏も指摘するように、豪華執筆陣にこそあった。吉川英治、開高健、司馬遼太郎、井上ひさし、丸谷才一、村上春樹……。しかし、紙の媒体がネットに吸収されるにつれ、エッセイやコラムで「文章を味わう」読者は消えかけている。当然のことながら、令和の文筆家に昭和・平成の大家に迫る人材は生まれにくいだろう。このことに関しては、やはり寂しさを禁じ得ない。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)、『国権と島と涙』(朝日新聞出版)など。最新刊に、沖縄移民120年の歴史を追った『還流する魂: 世界のウチナーンチュ120年の物語』(岩波書店)がある。