和歌山市の演説会場で岸田文雄首相襲撃事件を起こした木村隆二容疑者の鑑定留置が決まった。統一地方選が始まった今年4月15日、和歌山市の演説会場の漁港で岸田首相に手製のパイプ爆発物を投げ込んだ人物だ。和歌山県警が威力業務妨害容疑と火薬類取締法違反容疑で逮捕しているが、コトがコトだけに万全を期して精神状態を専門家に鑑定してもらう、ということだろう。問題がなければ、さらに殺人未遂容疑も加わるかもしれない。事件は安倍晋三元首相を手製の銃で殺害した事件の模倣とも見られるから、万全を期しておくのも当然だ。
安倍元首相銃撃事件の山上徹也容疑者は旧統一教会問題が原因だったが、今回の岸田首相襲撃事件では選挙制度に不満があったらしい。国会議員の立候補には衆議院では25歳以上、参議院ではチェック機能ということで経験を積んでいることを要件として30歳以上とされているが、年齢で制限しているのはおかしい、ということのようだ。
実際、彼は昨年6月に「年齢を理由に参議院選挙に立候補できないのは不当」として神戸地裁に国家賠償訴訟を起こしていた。欧米では立候補年齢が低い国も多いから、一概に、ケシカラン発想だとか、生意気だ、とは言えない。この訴訟に対し神戸地裁は昨年11月に請求棄却の判決を出している。それを不満として、彼は即座に大阪高裁に抗告しているが、この地裁判決直後から爆発物の製造を始めていたらしい。
高裁での控訴審は今年の3月23日に第1回口頭弁論が行われ、即日結審だった。たった1回の口頭弁論で判決がどう出るか、おおよその推察が付いたのだろう。高裁判決が出る前に犯行に及んでいる。彼には「くだらない裁判を起こしやがって」と言わんばかりの高裁の裁判官の考えが見て取れただろう。実際、事件後に高裁の棄却判決が出ている。高裁でも判事たちは彼をハナから相手にしていないのだ。
それはともかく、この結審から1ヵ月もたたないうちの犯行だった。たった一回の口頭弁論だけで、判決がどう出るか、判断が付いたうえでの犯行だったのだろう
傍目には立候補の年齢制限を違法という判決を得るのは難しいだろう、と思うが、驚くのは彼が代理人弁護士をつけない「本人訴訟」を行なっていたことだ。簡裁や家裁なら本人訴訟も多いだろう。しかし、本格的(?)な地裁での本人訴訟は極めて稀だ。雑誌記者時代の経験でも2回しか見たことがない。
1回目は元新聞社の政治記者からフリーのジャーナリストになったKさんで、かなり辛辣なことを言う人だった。私自身Kさんに「大丈夫? 証明するものはないんでしょう」などと心配したことさえあった。障害を持つお子さんを抱えていて、少々危ないことも言って売り込んでいたのかもしれない。このKさんは名誉棄損で訴えられたとき、弁護士を依頼する金がない、といい、本人で受けて立った。六法全書を読み、自分で資料を集めて反論していたが、数ヵ月後、風の便りでKさんは敗訴したという噂を耳にした。
もう1件は大手製鉄会社を相手に訴訟を起こしたTさんだ。小企業の下請けエンジニアリングの会社を経営していた人で、取材に協力してくれたことで知り合った。Tさんの会社は注文を取り消されたとかで半ば騙されて倒産。従業員は散り散りになった。Tさんを「騙した」のは発注元の製鉄会社のエンジニア部門だそうで、たびたび製鉄会社に抗議していた。会社に押し掛けたりしたようで、かなりしつこいものだったのかもしれない。
製鉄会社はTさんを相手に損害賠償訴訟を起こした。これに対し、Tさんは逆の損害賠償訴訟で反訴した。この裁判も本人訴訟だった。当時、Tさんは「会社は倒産、資産は差し押さえられ、お金がなく自分から訴訟を起こせない。向こうの訴えに反訴する形にすれば安く上がる」と語っていた。この裁判中に数度、Tさんに会って聞くと、「本人訴訟だから自分で質問したり、反論したりしなければならない。いろいろ証拠資料を集めたりするけれど、裁判官が親切で、こちらの質問を補って質問したりしてくれる。おかげで裁判は勝てそうだ。判決の日に裁判所に来てくれ」と言っていた。
その判決の日に地裁の部屋に入ると、一段高いところに裁判官がひとりだけいる。そして事件番号を読み上げ、「原告、被告は前に」と言うが、原告側は担当者も代理人弁護士も来ていない。が、そんなことにはお構いなく、裁判官は「原告・反訴被告の求める賠償を認める。賠償金はいくら。被告・反訴原告の訴えを棄却する。裁判費用は反訴原告の負担とする」と主文を読み上げるだけだ。時間はものの1分もかからない。
Tさんは予想さえしなかった判決に真っ青になり、判決文を受け取りに出て行った。私は後ろのほうの席で、この後、判決理由でもいうのかと思って座っていると、裁判官は次、といい、事件番号を呼び上げ、同じように別の事件の判決主文を読み上げる……。原告、被告が出席していようがいまいが関係なく、主文を読み上げるだけだ。4~5件の判決文の読み上げを聞いていると、裁判官が私のほうに目を向け不審そうに「なんでこの人はいくつもの判決を聞いているのだろう」という目つきでときどき私を見ていたのが印象的だった。
1階でTさんに会い、判決文を読むと、Tさんの言い分など何も取り上げていない。ハナから製鉄会社の言い分をそのまま認めている内容だった。Tさんは公判の様子とは全然違う、と戸惑っていたが、私にはこの判決文は「本人訴訟をする人物の言い分なぞ聞く必要もない」と言わんばかりのバカにしたものだった。これが司法の現状なのだろう。
たぶん、弁護士を頼らない本人訴訟はほとんどが敗訴しているだろう。裁判官の思考は「素人が司法の世界に出てきやがって生意気だ」というもののはず。裁判は判事、検事、弁護士で行なうもので、弁護士を雇わず、本人訴訟を起こすなどもってのほかだ、司法の縄張りに素人が入りやがって生意気だ、という発想だと受け取れる。だから、本人訴訟は大概、負けてしまう。難解な法律用語以前の話ではないだろうか。
岸田首相襲撃事件の木村被告が提起した裁判は被選挙権問題だから、おそらく行政訴訟だろう。この行政訴訟というのはなかなか勝てない。儲からないから弁護士は引き受けたがらない。引き受けてくれる弁護士は貴重な存在なのだが、住民の行政訴訟を数多く扱ってきた弁護士によると、「勝率はせいぜい2割に過ぎない」という。まず勝ち目のない訴訟らしい。下々は官の言うことを素直に聞けばいい、ということなのだろう。
だが、裁判というものは、本来、本人訴訟が原則のはずだ。歴史を見ても、個人が訴え出て、それに被告が反論し、裁判官が公平な目で判断するという仕組みだった。腕力や戦で、モノを言わせる武士の世界でも鎌倉幕府は問注所を設置しているし、江戸時代の名裁判とされる大岡越前守や遠山の金さんの時代でも、訴人も被告も本人そのものだ。法律が細かく、かつ多くなったことから代理人の弁護士が生まれ、活躍するようになっただけである。こうした歴史を踏まえず、裁判官が本人訴訟を見下すような判決はおかしい。
裁判官は公平な判断をするように身分を保障されている。この公平さを示す像として「秤」が掲げられている。弁護士の事務所でもよく秤の像が置かれている。裁判官は定年退職後も公平さを貫けるように簡裁の裁判長に就任したり、さらに公証役場の所長に就任する。30年近く前に弁護士から「年収が2300万円以上になるようになっている」と聞いた記憶がある。そういう待遇はすべて公平さを求めるために必要なのだ。だが、実際には耳を疑うような判決もある。
実は、マスコミの世界では裁判官批判はタブーになっている。判決についてあれこれ言うのは構わないが、裁判官批判はしないことになっている。ツイッターで変な主張を展開したり、破廉恥事件でも起こしたりしない限り、マスコミは裁判官個人を批判しない。理由は裁判官を批判すると、他の事件でしっぺ返しをされかねないからだ。
私の知っている限りでは、週刊誌でおかしな判決ばかり出す地裁の裁判官とその裁判官の下した判例を列挙した特集が一度あっただけだ。そのときにも編集部内では「後が心配だ」という声があったほどだ。
問題のある裁判官に対しては国会が弾劾裁判を行なうことができることになっている。だが、実際に弾劾裁判を受けた裁判官はごく少数である。余程のことがない限り、弾劾裁判の対象にはならない。代わって最高裁が個々の下級審の判決に目を配り、おかしい裁判官はこっそり地方に転勤をさせるそうだ。しかし、それもしばしば起こるわけではない。裁判官は判決について語ってはいけないことになっているから、傍から見ておかしいと思っても、説明はしない。判決がすべてだ、ということになっている。
世間では週刊誌はいつも訴えられてばかりいる、と思っている人は多いだろう。新聞にはたびたび訴えられたという記事が載る。あるいは週刊誌側が裁判で負けた、という記事も出る。だが、起こされたすべての訴訟の結果がどうだったかは新聞には載らない。私が在籍していた時代の感触では訴えられた訴訟の8~9割は週刊誌側が勝訴している。なかには一審で、さらに高裁でも敗訴したが、最高裁で逆転、勝訴した例すらある。でも、こうした勝訴は新聞に載らないから、週刊誌は訴えられてばかりいる、という印象になっているのだ。
もっとも、週刊誌は新聞や月刊誌と比べて訴えられることは多い。私自身。記事を執筆するようになって十数年間に2回ほど訴訟を起こされた。同僚の中には4件もの訴訟を抱えている豪の者もいた。抗議文はたびたび来る。抗議には回答するが、意外にも訴訟に至ることは少なかった。回答書を読んで相手側の弁護士は納得したのか、訴えても勝ち目がない、と判断したのかは知らないが、その後何の音沙汰もなかった例が多かった。
抗議の中でも驚いたのは在日の金融業者が銃で殺害された事件の記事だった。抗議は長男からで、内容は「すべての新聞が自宅ガレージで銃で撃たれた」と書いているのに、週刊誌は『愛人宅のガレージで』と書いている。ケシカラン」というものだった。反論は、言うまでもなく、「日本では一夫一妻制であり、被害者の本妻は代々木におられる、2号さん、お妾さんはすべて愛人とするしかない。新聞は警察発表通り書いたのでしょうが、週刊誌は取材した事実を書きます」と突っぱねた。が、儒教が生活に染み込んだ国だけに、家父長制が徹底しているのだろう、本妻の子供たちと愛人の子供たちが仲良くしているのには感心した。
訴訟になった2件も最終的には賠償金なし、訂正なしで和解になった。だが、正直にいえば、少々不満が残っている。というのも、そのうちの1件は投資を行なっている上場会社からのもので、裁判官は実に不勉強だった。特に経済に疎い。
例えば、相手が「わが社は外国の大手銀行が大株主の立派な会社だ」という主張を鵜呑みにしているのだ。冗談じゃない。「確かに大株主にロイヤル・ニューヨークバンク、シティバンクと書いてあるが、その後ろに『アカウント』と書いてあるじゃないか。アカウントとは個人客からの預かりを意味し、複数の外国人個人株主の代理人として株主権行使や配当の受領と分配を行なうための口座じゃないか。外国の個人株主に過ぎない。銀行が株主ではない」ということを文書で提出しなければならない。騙されるな、このくらいのことは判断して証拠にするな、と言いたくなった。
公判は7月初旬に結審し、9月初めに判決を出すという。弁護士によれば、判決文は大概、1ヵ月くらいかけて書く、と言う。裁判官は7月から8月は夏休みで、軽井沢に避暑に行ったり、家族旅行をしたりするそうだ。夏休みを返上して判決文を書いてくれるのか、感謝した。
ところが、9月2日の判決日に弁護士から電話が入り、裁判官は和解案を示し、和解したらどうか、と言っているというのだ。これには驚いた。夏休みに判決文を書かず、家族と避暑を楽しんだのだろう。裁判官の和解案とは「損害賠償は認めない、記事の訂正も不要、ただ、文章に行きすぎた個所があったという私信を出す」というものだった。どの弁護士も言うことだが、和解案を拒否すれば、裁判官の心証を悪くし、不利な判決になるのだ。
編集長は不満だったが、しょうがない。それから数ヵ月後、警視庁が投資会社がシンガポールを舞台にインサイダー取引だったか、詐欺容疑だったかで摘発。代表者を逮捕した。あのときの裁判官たちは一体、どう思っているのか、と聞きたくもなる。
話を戻す。前述したように裁判所には公平さを示す象徴として「秤」の像がある。欧米の裁判所にも「秤」の像がある。だが、欧米の秤の像には秤を持つ裁判官が目隠しをしている。その理由は裁判官は肌の色、人種などで判断することがないように、という意味である。日本の像には秤だけか、あるいは秤を持つ裁判官の目に目隠しをしていない。この差が日本では本人訴訟が勝てない理由のように感じられる。(常)