●死までの潤沢な時間


 前回は「医の倫理」とは、倫理学者の宮坂道夫の言を借りて、医療従事者が患者という弱い存在を前にして、自らのふるまいを考えるものだとの基本的前提を明確にした。WMA(世界医師会)『医の倫理マニュアル第3版』でも、「なぜ医の倫理を研究するのか?」というテーマが設定されており、WMAの「必然」はそれに照らしても軌道は同じだ。「医の倫理」「あるいは医療従事者の倫理」は、全人的な倫理感のなかに包含される個々の職業的倫理観のひとつであり、医療関係者が「上から目線」で学ぶものでも、研究するものでもないことを筆者は了解してこのコラムを進めていく。


 例題として前回は、「弱い存在」のALS患者が死を望んだ場合、その弱さは身体的苦痛と精神的苦痛の両方であり、その両方から解放することが「安楽死=自殺の手助け」だと短絡することではないと断じた。その「ふるまい」は倫理的ではない。「倫理」を学んだ形跡も見えにくく、本質的にWMA風に言えば「研究する」ことの根本さえ無力にしているこうした医師を作らないために明らかにしておくべき「弱い存在」とは何か。今回は、やや貧弱な知識ながら、そのヒントになるような資料を探してみる。


●医の倫理は道徳ではない


 1985年に邦訳第2版が出版されたハワード・ブロディの『医の倫理』では、第2章「倫理を考えるための方法」のなかで、(筆者なりの解釈に過ぎないことを前提にしている)ひとつの選択が「善」か「悪」かを判断する場面は、医療の現場ではほとんどないとしたうえで、そこで起こる倫理的対立は「相対的によいか」「相対的に悪いか」の判断である述べている。そして、その相対性に関する倫理的考察が、医療資源の効率性と無縁でないところから、「倫理的対立」としてスタートするのではないかとみる。ブロディはこの見解から価値観の判断についての演習に進むが、ここではそこには近づかないでおく。


 若干付言すれば、価値観としての倫理的対立は、「医師は妊娠中絶を行ってはならない。なぜなら妊娠は器質的な疾患ではないから」との主張が価値を持っていて、倫理的に正しいとすれば、美容整形のような施術もまた、医師の関与については反倫理的というロジックに援用できることになる。天邪鬼的に考えれば、医の倫理の問題は、道徳と背中合わせになると西欧的宗教観のカオスにはまるし、社会に蔓延るルッキズムという問題を解決したい一部の大衆にとっては、「反道徳」という痛みを伴わせることになる。


 患者である一般人、つまり弱い存在に対する「ふるまい」がそうした立場で論理として通るはずがないのは自明であり、医療的な「ささやかなふるまい」は、現場では至極当然だが、なかなかに複雑である。妊娠中絶を医師に求めるのも、美容整形を求めるのも実は求める側が「弱い存在」でかつ「弱い事情」に苛まれているからだ。


 複雑であるから、いくつかの専門性の分野ごとに倫理的背景を持ちながら、現代医療の「常識」を生み出していく例もある。1984年の英国の医療倫理学者、ゴードン・ダンスタンは論文のなかで、「患者の死が医学の失敗であるかのごとく、集中治療の成功を生存率だけで測るべきではない。生き延びた後の生活の質で測るべきである」と述べ、これに触発される形で21世紀のICU医療の新たな指針になりつつある「A2Fバンドル」が、「弱い存在の患者に対するふるまい」の好例だと言える。


 PICS(集中治療症候群)という症状形態も医療界では常識化しつつあり、世界中で何百万人も存在するICUサバイバーがPICSに苦しんでいることも明らかとなり、このムーブメントは新型コロナ患者の多くがICUから生還したこととも考えあわせれば、「医の倫理」に関して、医療側がどう行動すべきかを示唆し、さらにボリューム感からいえば、大変なニーズがある。


 現代の医療倫理は、90年までの反パターナリズムに象徴される、「患者目線」「共感・思いやり」「訊く力」(ナラティブ)などに加えて、医療資源の効率化、死生観、PICSなどのこれまで振り返られなかったシンドロームに対する気づきと研究、それらのプロトコル開発と標準化などがあり、多様化する一方である。多様化は複雑化を生む。「患者の苦痛除去→安楽死(自殺幇助という解放)」などという単線で考えられるものではないことを、ここでも繰り返しておこう。思惟的ではなく、単線での患者解放という認識は虐待とほぼ同じなのだ。


●「考えない」医療者の存在


 少し急ぎすぎかもしれないが、現代の医療倫理のテーマのなかで、最も人々(医療関係者だけでなく、一般市民も、国家権力も)を悩ませ、主題として共通化しているのは「延命医療」だ。


 米国の著名な外科医であるアトゥール・ガワンデは、著書『死すべき定め』(邦訳16年)で、「現代の科学技術の能力は人の一生を根本的に変えてしまった。人類史上、人はもっとも長く、よく生きるようになっている。しかし、科学の進歩は老化と死のプロセスを医学的経験に変え、医療の専門家によって管理されることがらにしてしまった。そして、医療関係者はこのことがらを扱う準備を驚くほどまったくしていない」と語っている。老化と死のプロセスを管理していることによって、患者の生殺与奪の権利を得ていると真反対の勘違いをして、「平穏死」「尊厳死」「安楽死」を言い立てていいのか。


 ガワンデは「医療者は扱う準備をしていない」と喝破している。PICSが医療者による倫理的な「準備」だとしたら、それは21世紀になってようやく始まった作業に過ぎず、全世界のICU関係者のタスクとして一般化されているとはいえない。「死にゆく病床」も「生還する病床」も実は、現状で行われているのは、目の前にある患者の臨床症状への対処だけなのだ。徹底的に手を尽くすが、ICU管理後をどのようにフォローするのか、緩和医療にどのようなリレーションでバトンを渡すのか、あるいは一般病床に地域の施設に、家庭に何を伝えるのか。考えもしない医療従事者がまだほとんどなのだ。その「考えもしない」こと自体が最大の「医の倫理」の課題かもしれない。


 ガワンデは『死すべき定め』で、長寿の陰で「引退」という概念が出現したことを切り取る。かつて人は、元気だった時間から崖から滑り落ちるような形で死に至ったのに、現代では、医学と公衆衛生の進歩によって、「引退」を契機に階段を少しずつ降りるように死を迎える。「階段」は慢性疾患の治療と回復を繰り返すこと。そして、人はゆっくりと衰えていくことに自覚的になり、それを「どこか恥ずべきこと」のように思い、例えば97歳の女性がフルマラソンを走ったことを聞くと、自分もそうでありたいと思って敗北感を持ち、そのファンタジーが現実化しないことに、申し訳ないと思わせるようになったという。


 急激に崖から落ちるようにして死に至った少し前までと違い、「死を迎える」時間が潤沢にある時代で、医の倫理が以前のままのパターナリスティックで存在していいわけがないのである。


 ガワンデはこうもいう。社会構造の大きな変化に、一貫して医学、医療、介護が無関心であり、無力であることを繰り返し指摘したうえで、「医療関係者は役に立たない。治せるようなはっきりした問題をもっているのでなければ、医師は患者に興味を示さない」。この外科医の言葉から読み取れるのは、「安全と生存」を最優先する医学・医療が、患者の「自由な意思」に無関心なことの「無駄」だ。彼は自身の医療体験から、「安全と生存」のために束縛される人の平均余命より、「自由な意思」を持った患者のほうが余命は長いことを明らかにしている。医の倫理は「医の常識」を覆す、疑うこともその範疇に入る。(幸)