医療費の無駄遣いの象徴として、とくにマスメディアがネガティブな報道を繰り返してきたことに、診療報酬審査の甘さ、不正請求、それに薬価差益がある。 


 診療報酬の審査に対する批判は、つい最近も大手紙が「診療報酬不適切請求の疑い 厚労省、半数の調査放置」といった記事を掲載し、個別指導の実態が杜撰だと指摘している。記事は、個別指導の対象となるのは、「不適切請求の疑いがある」医療機関だと読者を誘導するような表現を使っているが、審査対象となるのは「高点数」の医療機関であって、「不適切請求」とは限らない。


 インターフェロンのような高薬価の薬剤を主に使用する医療機関などは、平均的に医療費は高くなるし、在宅関連の訪問診療に熱心に取り組む医療機関も、診療報酬改定による誘導策もあり、高点数化することも起こり得る。問題は、なぜ高点数となるかであり、高点数自体を問題として捉えるのは強引に過ぎる印象がある。 


 薬剤の使用についても、メディアのこうしたネガティブキャンペーンは、1960年代から行われてきた。医師の収入は一般より遥かに大きい→高い償還価額の薬を安く購入して売っている→得られた薬価差益で高級車を買い豪遊している——といったような批判記事が1960〜1980年代には多く登場し、それが「薬漬け」批判につながって、「薬価差益」は、日本の医療の暗部としてのイメージが定着してきた。 


  批判のときに必要なのは、「なぜ薬価差益が必要だったのか」ということである。そして、その「差益」は、本当に医師の不当な所得だけに化けて、国民、患者には恩恵ではなかったのかという検証だ。 


●医療のパターナリズムを確保する手段 


 薬価差益に対するイージーな批判、ネガティブキャンペーンの背中を押したのは、1960年代から1980年代にかけて、とくに地方の高額所得者番付に医師がずらりと並ぶようになったことが一因だろう。医師が高収入を得たのは、その頃には国民の所得が安定し、医療への要求が一定の生活の質を確保するためのものになった時代と軌を一にしている。 


 以前にこの連載で、戦後の医療供給体制の高度成長ぶりを示した。それが、1億人を超える人口国でありながら、世界で最も長寿の国をつくり上げることに寄与したことは間違いないところだろう。ただ、医療提供体制の充実とともに、提供される医療の質も極めて高かったことには、あまり言及されていない。それは日本の医学教育の高さではなく、一般の診療医師たちが、質の高い教科書をもとに、ある意味「パターナリズム」で診療に従事したことが評価されなければならない。 


 日本の国民皆保険は、皆保険であるからこそ全国一律で、どの地域でもどの所得階層でも同じ診療が受けられることを基本に設計されている。そのため、都会でも郡部でも診療報酬は同一が原則で、その内容は保険医にとって、ひとつの教科書である。同じ教科書で診療に当たるわけだから、診療行為はパターン化する。診療がパターナリズムであるという批判はやはり、メディアの好むところだが、実はこれから外れると、患者無視だとか濃厚診療だという批判の矛先が向けられたことも多い。 


 医療とは、高質化、均等化をめざすなかでは、そのバランスがとれにくい行為だ。そのため、矛盾も増える。最近では、高齢化に伴い、1990年代までには診療報酬が想定していなかった疾病の多様化、集中化が起こり、医学の進歩による医療技術の高度化、多様化も相まって、保険診療でカバーする範囲が肥大化してきた。混合診療や、それを可能にする特区構想、あるいは国際化という流れは、診療報酬が教科書としての機能を喪失し始めた状況も意味する。 


●非価格競争が生み出した「添付」という悪弊 


 さすがに1970年代から1980年代は診療報酬は、いわば診療行為の教科書として、ほぼオールマイティーだった。そこでは医療提供施設へのフィーが重視され、医師へのフィーはあまり考慮が払われていなかった。それは、国民皆保険が持つ宿命的なものであり、「医師の技量」について数値化し、評価できる体制も整わず、それを推進する声も弱かった。 


 施設へのフィーとは、すなわち医療で使われるモノに対するフィーである。薬を使った診療行為、検査そうしたフィーに対する報酬が重視されてきた結果、薬や検査の対価に対する医療機関の関心度は高まる。診療行為の教科書が、そうした行為を重視していたわけだから、医療機関の経営戦略と診療はそれに立脚することは当然の帰結だったと言っていい。 


 こうした状況から、「モノと技術の分離」を主張していたのが、1970年代の武見太郎・元日本医師会長だ。少し遡ると、1967年に医薬品に関してはその後の薬事法改正につながる「医薬品の製造承認に関する基本通知」が出され、医療用医薬品と一般用医薬品の承認基準が明確に区分された。これ以後、医療用医薬品の存在が明確化されるとともに、医療用医薬品は薬価基準への搭載が製造企業の経営戦略の柱となった。医薬品生産は、これを機に右肩上がりで増えている。 


 1967年の基本通知と同時に、政府は薬価算定方式に90%バルクライン方式を採用する。90%を超える部分、10%分の薬価を維持すれば、薬価は下がらない方式だが、あまりに価格競争が激化すると、薬価は次の薬価改正で引き下げられる。いわゆる循環的引き下げの始まりだ。このことは、卸に対する医療機関の値下げ圧力をそのまま受けると、メーカーの卸価格の引き下げにつながり、次回改定の薬価を防衛できなくなる。そこで、納入価格を下げないで、非価格的競争として登場したのが「添付」だ。 


●「潜在技術料」はいつまで必要だったか 


 添付行為はそれ自体、どう考えても邪道だ。大量の添付によって、大げさにいえばタダ同然の医薬品を使って、医療機関は薬剤費を請求することになる。あるいは、だぶついた添付製品を、引き取り企業に買わせ、現金化することも可能だった。 


 さすがに、添付行為は中医協決定で1970年に禁止になるが、サンプル品の提供といった添付類似行為はその後も行われていたフシがあり、1970年代前半には添付を医療機関が要求するといった事案(メーカー、卸からもちかけたものもある)が度々報告され、1975年には日医・武見会長が添付行為の是正について注意喚起を促す会員向け通達も出している。 


 添付も含めて、過大な薬価差益自体の是正は行われる必要があったのは、言うまでもない。しかし、医療機関の経営戦略が、脱医薬品の水準に達するまではまだ時間がかかっている。前述したように、中医協等で添付、薬価差益が問題化した1970年以降、武見氏は「モノと技術の分離」を主張するようになり、診療報酬自体の考え方の改革を求めている。 


 1974年の診療報酬改定では、処方せん料の引き上げに同意し、その後の医薬分業進展の最初の契機をつくっている。もっとも当時は、武見氏自身、保険薬局の質的水準の低さ(当時)を指摘し、直後の分業進展には警戒を示していた。分業に反対する会員への意思表示もあっただろうが、医師がその医業経営において医薬品を原資にすべきではないという原則論を、内外にアピールしていたことは事実である。処方せん料の引き上げは、「モノと技術の分離」の一歩であり、分業を行える環境作りを促したと、今では見える。 


 1970年代以降でも、医療機関の薬価が経営原資の一部という構図は続いていた。しかし、薬価制度に対する改革、ひいては医薬品流通の改革意欲は日増しに強まっていたことも事実だ。1981年6月に銘柄別の薬価改正が行われ、薬価は18.6%もの大幅な引き下げが行われた。このとき、多くの医療機関からは、医薬品による「潜在技術料」が低下する危惧がかなりオープンに語られていた。 


「モノと技術の分離」を主張した武見氏は、1982年に勇退し、その後継者と見られていた陣営は、反武見を掲げる陣営に敗れている。その陣営は、「反武見」を掲げるなかで、「国民との対話路線」を打ち出した。しかし、一方では武見氏を敵に回すために、「モノと技術の分離」に消極的だった。そして、大幅薬価引き下げに危機感を抱いた医薬品産業側と、流通での熾烈な攻防が始まり、公正取引委員会の介入を呼び込み、度重なる医薬品流通の近代化、適正化、取引慣行の改善へと向かうことになる。(幸)