今から38年前、若き日の私が新聞記者になったとき、同期入社のほとんどは出て間もない話題の書、『犯罪報道の犯罪』を読んでいた。著者の浅野健一氏は共同通信の現役記者。当時は精神障害者や未成年の容疑者でない限り、軽微な犯罪でも実名・呼び捨ての報道が大原則だった。浅野氏は、そのことによるあまりに甚大な2次被害を訴えたのだ。その少し前までの報道では、細かい番地まで容疑者の住所も紙面には載っていた。誰もが当たり前のように電話帳で番号を明かしていた時代。身内が突然、犯罪者の汚名を着て、殺到する嫌がらせ電話に苦しんだ家族も多くいたに違いない。


 メディアの実名報道原則は今日も維持されているものの、こうした批判もあり、さほど重大な事件でない場合、匿名で報じられるケースが拡大した。「容疑者」「被告」等の呼び方にどれほどの意味があるのかは不明だが、犯罪者を呼び捨てする習慣もすでに消え去った。実名報道により家族までバッシングされる問題は、ネット時代の到来でまた別のフェーズに入ったが、マスコミ報道に限定した場合、こうして状況はだいぶ変わってきた。


 だが、この問題で週刊新潮は一貫して独自路線を行く。他メディアととくにはっきり分かれるのが、少年犯罪の報道だ。神戸連続児童殺傷事件や光市母子殺害事件、川崎市中1男子殺害事件など、さまざまな事件で少年法が禁止する実名報道を敢えて行ってきた。そして今週は、陸自射撃場で起きた銃乱射・殺傷事件の少年容疑者を実名・顔写真入りで報道した。タイトルもずばり『陸自3人殺傷「18歳候補生」の実名と全履歴』だ。


 昨春の法改正以降、18~19歳は「特定少年」として扱われ、重大事件として家裁の少年審判でなく刑事事件として裁かれるケースでは、実名報道が法的に認められることになっている。その意味で今回は、過去の例ほどの「掟破り感」はなく、他メディアも容疑者が精神鑑定をクリアして起訴された段階で、実名報道に切り替えることになるだろう。それでも万が一、心神喪失で不起訴になった場合には、結果的に新潮だけが「フライング」で実名を報じたことになる。とどのつまり、今週号の記事も「毎度おなじみの週刊新潮報道」なのである。


 長年に及ぶ実名・匿名論争のポイントは多岐に及び、数十年前を振り返ると、家族にまで波及する「過剰な社会的制裁」の問題がまずひとつ。少年事件では「更生する可能性」を阻害するリスク、そしてあらゆる事件に付随する「冤罪への懸念」、すなわち刑が確定するまでの「推定無罪」の原則との矛盾などが指摘されてきた。メディア側が(成人で精神障害の見られない容疑者への)実名報道を譲らずにきた理由にも、さまざまな言い分があり、私がかつていた職場で最も強調されていたポイントは、「匿名を原則にしてしまうと、警察も実名を発表しなくなり、その結果、メディアが容疑者を特定できず独自取材も阻まれたまま、たとえば冤罪の疑いがあるようなケースでも、警察の発表だけを垂れ流すことになってしまう」ということだった。


 新潮も過去、さまざまな理由をつけ少年の実名報道をする理由を公に語ってきた。だが、私がどうしてもその言い分を眉唾で聞いてしまうのは、その昔「新潮社の天皇」と呼ばれた伝説の編集者・斎藤十一氏が写真誌FOCUSを創刊した際の「君たち、人殺しの顔を見たくないのか」というあまりに有名な言葉があるからだ。あれこれ理由をつけてみても、同社の根幹にある本音はただ一点、凶悪犯罪者を世間にさらしたい――そんな欲求であろうと邪推してしまうのだ。もしそうなら、ただの野次馬精神で注目人物の個人情報をネットにさらしている「近年の不心得者」と何ら変わらない。メディア報道が正当化される唯一の拠り所「公益性」の建前など、本音では1ミリも信じずに鼻で笑っているようにさえ見えてしまうのだ。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)、『国権と島と涙』(朝日新聞出版)など。最新刊に、沖縄移民120年の歴史を追った『還流する魂: 世界のウチナーンチュ120年の物語』(岩波書店)がある。