●生まれ続ける倫理的課題


 前回、「医の倫理」とは、「医療従事者が患者という弱い存在を前にして、自らのふるまいを考えるもの」との基本的前提を明確にした。そのうえで、さらに医の倫理の特性を語るうえで見過ごしてならないのは、前記の「弱い存在」とは何かの認識の常在、あるいは判断のトレーニングの必然、医療現場における善か悪かの相対的評価の意識づけなどの必然について羅列してみた。


 そして、現代的「医療論理」の本質的課題は、「延命医療」への対処であり、そのなかからPICS(集中治療症候群)という症状形態も医療界では常識化しつつあり、世界中で何百万人も存在するICUサバイバーがPICSに苦しんでいることを、医療倫理の側面から新たなムーブメントのひとつとして捉えた。医療倫理はまさに進歩した医療科学の欠点の修正も、そのカテゴリーに入ってきたという認識が必要だということだ。


 英国の医療倫理学者、ゴードン・ダンスタンが84年に論文のなかで、「患者の死が医学の失敗であるかのごとく、集中治療の成功を生存率だけで測るべきではない。生き延びた後の生活の質で測るべきである」と述べているのは、まさにそうした医療倫理の新たな課題に対する展望というべきだ。「延命」「死にゆく者」に対して、医療は無関心であっていいわけではなく、医療倫理は「無くなっていくことに対する新たに出現した課題」に対処するパラドックスの渦中にもある。


●自由意思の獲得


 この「無くなっていく」「消えていく」ことへの「医療を含めた時間の長さ」に関して、アトゥール・ガワンデは著書『死すべき定め』で、「引退」という概念を示し、人は医学と公衆衛生の進歩によって、「引退」を契機に階段を少しずつ降りるように死を迎え、それを「どこか恥ずべきこと」のように思い始めたと語っている。死までの時間が潤沢にある時代で、医の倫理が以前のままのパターナリスティックを主軸に存在するべきではない。


 ガワンデは社会構造の大きな変化に、一貫して医学、医療、介護が無関心であり、無力であることを繰り返し指摘したうえで、「医療関係者は役に立たない。治せるようなはっきりした問題をもっているのでなければ、医師は患者に興味を示さない」ことに強い違和と苛立ちを隠さない。ガワンデの思潮で最も大事なことは、「安全と生存」を最優先する医学・医療が、患者の「自由な意思」に無関心なことの「無駄」だ。


 彼は自身の医療体験から、「安全と生存」のために束縛される人の平均余命より、「自由な意思」を持った患者のほうが余命は長いとまで言い切っている。


●知られない人々の社会的再配置


 現代の医療倫理は「弱い存在に対するふるまい」のあり方を語るものではあるが、一方で、死にゆく者、弱っていく者の権利とも言うべき自由意思の尊重という新たに医療関係者への認識を問うことを背中に張り付かせている。その意味で、ガワンデが言う社会構造の変化に鈍感な医療者たちの存在そのものが、医療リスク化しているという現状もあるかもしれない。医療行為の理由によって「束縛される」患者より、「自由な意思」を持った患者のほうが延命するというデータがこれから増えるように思う。


 では、患者の今日的環境、あるいは「延命」を考える人々の自由意思はどうやって確認し、確保されなければならないのだろうか。一般論としては、現代の考えることも含めての自由さは患者ではなくても、何だか大幅に制限されている時代だ。


 精神科医の熊代亨は、著書『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』で、一般人としても生きづらい時代を概説し、人々が社会で「再配置」されることを語っている。熊代が言う「再配置」論は、主として発達障害などの患者の社会における位置づけを語るものだが、「延命」という新たな社会構造・階層の出っ張りにある患者、高齢者もそこの側面から語ってもいいように思える。


 熊代は、秩序立った美しく清潔な街となった東京が現代日本社会の象徴だと述べたうえで、著者は「そこに適応している人には何のデメリットもないどころか、住み心地の快適さを提供するだけのものだ。(中略)人を不自由にしたり窮屈にしたりするなど、思いもよらぬことであろう」としながら、それでもなかには無理して背伸びして行儀よく「振る舞って」いる人がいることを示している。そして、「この秩序ならではの生きづらさや、私たち自身が気づかぬうちに背負わされている課題に思いを馳せずにはいられない」というのだ。


 医療倫理を語るとき、医療者側は自分たちも思いを馳せるので、患者や高齢者も一定の自由さのなかで、「行儀よく振る舞ってもらう」ことを前提にしているのではないかと思う。身体拘束の問題は医療・介護の技術上の問題からは供給側に一定の根拠はあるが、それでも彼らの側からまるで「反省」のような模様で発せられる「身体拘束の否定」は倫理的に正しいとしても、患者や介護を受ける人たちの一定の「不自由さを甘受した」場所での再配置を条件化しているのではないだろうか。


 そうなってくると、延命を望む患者、新たな社会構造階層にいる人々は、その再配置を拒否するか肯定するかで、「自由さ」を斟酌しなければならないことになる。現代の医療倫理は、まさにこれまでになかった社会構造、秩序概念、自由を確保するための再配置場所の確認などの「作業」を経なければならない、という現実も見えてくる。


●生きる倫理という考え方


 それでも、医療行為を受けず、家で自由に暮らすことを望んだ高齢者患者群のほうが延命しているというガワンデの見解はかなり大きなインパクトがあり、今後もこれに類したコホート研究が活発に出てくる可能性が大きいのではないかと私は感じる。ある意味、「再配置」ではなく、本質的な自由のある場所は「家」であることが明確化してくるのだと思える。


 地域コミュニティを軸にした包括緩和ケアは、コミュニティに主軸が置かれ、「考える」のは医療関係者や介護関係者である。「考える主体」「自由の主体」に当事者が置かれているわけではない。認知症者が自由に考えたらどうするのかという反論が聞こえそうだが、実際はその反発そのものが、すでに認知症者の社会的再配置を目論む「高みの倫理」であるとしか思えない。


 認知症者の自由を確保すれば、かなりのコストがかかることは目に見えるが、結局、医療・福祉の倫理とは第1回目に記した「資源の配分」も含まれ、資源的リスクを回避する「倫理」として、「再配置」論を補強する。


 社会構造を言う前に「疾病構造」にも目を向けなければならないという言い分も聞こえてくるような気がする。結核をみていた戦後すぐまで、医療の目標は感染症との戦いに勝つことであったが、それは倫理的にも、患者の隔離や一部での優生的処置なども出現して、現代とは比較にならない世界であった。比較して現代は、がん、脳卒中、心疾患が死因の上位を占め、またそのウエイトもかつてと比較にはならない。


 患者の数、医科学の指向性、医療提供体制など、システムもヒエラルキーも様変わりした。「資源的リスク」が医療倫理を考える際のヒエラルキーの上部に差し込んでいる印象も拭えない。倫理的に考えなければならない資源的リスクは、「延命」であり、そのための社会的経費増であり、そして享受する高齢者群を、経済成長ができなくなった現代日本の生産年齢人口が賄わなければならないという「構造変化」が、当然のことながら主因となっている。


 そうなると、やはり、「在宅」で「低コスト」でという世界に視野を向けるのは当然だ。階段をゆっくりと降りて、死を迎える「高齢者患者側の倫理」の確立が必然となってくる。優先されるべきは「医の倫理」ではなく、「生きる倫理」だ。(幸)