●主体的に作る受療側倫理


 筆者は哲学者でもなければ医師でもないので、「医の倫理」についても無邪気に自分が理解している方向で議論を展開している。前回は高齢化社会での一般論としては、やはり、「在宅」で「低コスト」で自由に生を全うするという「患者側(一般市民)側の受療の倫理」のようなものが確立されてもいいのではないかとの視点を述べた。階段をゆっくりと降りて、死を迎える「高齢者患者側の倫理」の確立が必然ではないか、と。この場合、優先されるべきは「医の倫理」ではなく、「生きる倫理」だ。


 医の倫理を語るなかで、一般人の私が不満に思うのは、医の倫理は常に供給する側のあり得るべき「医療従事者が患者という弱い存在を前にして、自らのふるまいを考えるもの」しか語られていないことである。このことは前提として、「医の倫理」は常に弱い存在が眼前に存在するという前提に立っているということを意味する。


「医療従事者が患者という弱い存在を前にして、自らのふるまいを考えるもの」との定義は否定されるべきものだと私は考えているわけではないが、高齢者自体の絶対数が増え、死んでいく者の絶対数が激しく増えるなかで、「資源」を考えることが医の倫理の上位を占めることが避けられない状況で、高齢者が「自由に生きる」権利を縮小してもよく、「弱い存在」へのふるまいという一面的な「倫理感」にすがったままでいいのかということだ。


 私が望むのは「自由に生きる権利」の倫理的担保だ。それは自由に死ぬということも踏まえて、医療資源を使わないで「自由に生きる権利」もあるということである。たぶんだが、こうしたロジック、ストラテジーが浸透すれば、自らの生を自らに任せてくれという高齢者の意識は劇的に変化するものと思う。人生会議などという流行り、リビングウィルなどというあやかしに任せず、「高齢者の受療倫理」に則れば、あとの生き方、死に方は自由が保証されるという世界がほしい。


 とにかく、50年後に「団塊の世代の最後のひとりが亡くなりました」という話が明るいニュースとしてでも、暗いニュースとしてでもなく、なにやら「せいせいした」という気分のようなものの背負われ方をしなくて報道されることを望みたいのだ。その意味で、医師や哲学者や政府に、おせっかいを焼かれたくないのだ。


●医療側には確立している選択の自由


 ハワード・ブロディの『医の倫理』(第二版)には、医療側の「意志決定」について、「我々にできる最善のことは種々の方法を実際に試みて、妥当な行動を選ぶのに最も有効な方法を選択し、それを力の及ぶ限り利用し、利用しながら誤りを正すということだ」と述べられている。こうしたサゼッションがあること自体、多くの医療提供側が「医の倫理」に関して、それほど深く考えてもおらず、勉強もしておらず、このシリーズの冒頭にも出てきたような「研究」も中途半端で、医療側が実は、選択肢の多いなかで悩み、誤りを正す自由があり、すなわちそれが「ふるまい」のひとつだということである。医療提供側は実は、自らの「自由のふるまい」に一定のお墨付きを与えている。


 ただ『医の倫理』(第二版)は患者側の不安も推し量ってはいる。「倫理決定に必要なものに、結果を評価するための価値体系がある。もし医師が患者とだいたい同じ価値体系を持っていると仮定できるなら、医師は起こり得る結果もよく理解できるだろうから、患者自身が選択できないとき、彼は患者のために決定をする最善の人だと理解できる」。ここで重要なことは、「患者自身が選択できないとき」という前提が置かれていることである。そして、その医療者が「最善か否か」は、医療者と患者が同じ価値体系を持っていることによって決せられるとしている。


 ほぼ40年前にこうした一定の方向性が示されているにもかかわらず、「弱い者に対するふるまい方」の定義がいまだに論議され、患者や一般市民は「弱い」ほうで、だから医療供給側が暴走しないように「医の倫理」は必要だという、まことしやかな論理が医療側にからみついている。


●患者が医師を訪ねることで立ち位置が逆転


『医の倫理』(第二版)はしかし、こうした定義をいったん示しながら、「医師と患者がだいたい同じ価値体系をもつ」可能性が低いことにも言及している。「大部分の医師は患者とは異なった社会階層、文化的環境に住んでいるので、医師が患者と価値観を同じくするとはちょっと考えられない」と述べ、さらに「医師は純粋に医学的結果について優れた理解力を持っているかもしれないが、これらの結果が患者の日常生活にとって何を意味するのか十分に言えるようには患者の生活様式を知らない。例えば、自分の患者がどんな毎日を過ごしているのか、また患者の仕事に伴ってどういうことがあるのか、詳細を知っている医師が何人いるだろうか。医師はある手術をすると左の腕が弱まる可能性が30%あるということを知っているかもしれない。しかしそれが患者の仕事や生活様式にどういう意味があるかを知っているだろうか?」と説く。


 私は、訪問診療をしている医師や医療者の本を比較的多数読んでいるが、訪問診療者は、患者の日常生活の詳細を知りたいという人が多い。たぶん、そうした医療者は本能的に相手の日常生活や生活習慣、家族関係などを知らなければ、訪問医療自体が成立しないという実感を得ているのだと思える。『医の倫理』(第二版)でも、医師が患者のもとへ診察に行った頃は、こうしたある意味理想的な医師と患者の関係性が常識化していたが、現状ではもはや無理だと述べている。


 医療の世界では、患者が医師を訪ねるようになったときから、その関係性が劇的に変わったことをこの論から読み取ることができる。そうすると、医の倫理はもともと成立していたものを壊し、最初から構築し直している途上だという理解が不可欠になることが理解できる。


 医療者と患者の関係は、どちらがどちらを訪ねるかで、すでに一定の非対称性を生んでいる。そして、その関係が当然だとの常識化への内省が「医の倫理」を議論し、編み直さなければならない動機となっているのである。


●最後の団塊世代死者のニュース


 こうしてみてくると、その編み直しのなかに、医療者・医師の倫理だけでなく、受療する側の倫理も構築されなければならないのではないかとの私の最初の提起に戻ることになる。『医の倫理』(第二版)では、受療者の判断能力に関して、①意識のない患者②意識はあるが、非理性的な患者③理解の年齢以下の子どもの患者④まだ生まれていない患者――は、その意志を確認しなくても「契約違反」ではないと規定している。④はおそらく異論もあるポイントかもしれないが、今回はスルーしておく。


 私の医療論理(の一般的常識)に関する反抗的な試みは、主に②と③が含まれるが、事前に意思確認ができるケースは別にして、私も異を唱えるものではない。言いたいのは②③に移行する可能性が極めて高い高齢者集団の受療側の対応である。


 この集団は今のところ、厄介者扱いである。前述したが、50年後に「最後の団塊世代のひとりが亡くなりました」というニュースが流されるだろう、それもおそらく清々しながら語られるだろう高齢者群である。私たちの「生き方の自由」「死に方の自由」を確保するために、必要最低限の医療しか受けない自由を確保するために、受療者の倫理を模索し、打ち立てなければならない。


『医の倫理』(第二版)でも、「意志決定の責任は、患者が判断無能力者でない限り、本来、患者にある」と宣言されている。必要なのは「意志決定できる者」としての倫理の確立で、改めてそこに医療者や哲学者や政府がサゼッションしたり、誘導をしないことである。そして「意志決定できる高齢者」は、その倫理の要件に、主体的に「資源」のあり方に関する意思統一が必然になるだろう。(幸)