「色しろく髪ながく、容顔まことにすぐれたり」
しかもですね、この美女が「一人当千のつわものなり」ときた。
ものすごい強弓を引き、荒馬を乗りこなし、険しい坂を駆け下りるなんて朝飯前。刀を持てば、鬼でも神にでも立ち向かう、というスゴ〜い女。
その名は、そう、日本のスーパーウーマン、巴御前(生没年不詳)です。
新日本を築くため、遠い木曽からやってきた。知恵と勇気に超優(すぐ)れ、弓馬・剣術・体術も超秀(ひい)で、しかもメチャ美女。密かに「隠れ巴親衛隊」は思うのです。彼女こそ、日本女性史ナンバーワンだ、と。
時は、治承・寿永の大乱、一般的には源平合戦。
木曽の若武者・源義仲(1154〜1184)は北陸へ進軍し、怒濤の勢いで京を制覇した。義仲の遠征に最初から、巴も鎧兜を身に着けて転戦した。義仲は、巴をいわば第一部隊長に任じていて、巴は「たびたびの高名、肩をならぶる者なし」というくらい大活躍した。
巴と義仲の関係だが、義仲は源氏内部の勢力争いの結果、2歳で孤児となり、乳母の実家である木曽の中原家で育った。その中原家の娘が巴である。だから、ふたりは幼馴染みで、木曽の山谷を馬を駆けらせ自由奔放に遊んだ。
巴は義仲の愛妾なのか正妻なのか……まぁ、あの時代は戸籍謄本があるわけではないし、自由恋愛の時代だから、こだわることではないが、正確には愛妾である。ふたりの間に子供がひとりいたことは確かである。というわけで、巴は義仲軍団の最強部隊の部隊長であり、義仲の愛人であった。
京を制覇した義仲は、法皇・貴族たちの権謀術数、西日本の飢饉などによって、ガラガラっと権威失墜。そこへ、源頼朝が派遣した鎌倉軍に、義仲軍は京周辺の合戦で敗退し、クライマックスシーンとなる。
義仲は勇猛果敢に奮戦するも、ついに主従五騎となった。巴は、その一騎で健在。さぁ、最後の土壇場で義仲は巴に、どう言ったか?
「お前は女だから、どこかへ落ち延びろ。俺は討ち死にする。最後の合戦に女連れだった、なんて言われるのはいやだから」
義仲は再三再四「落ち延びろ」という。
それでも、巴は離れなかった。
木曽を出てから3年間、文字どおり生死をともにした巴である。どうして、ひとり落ち延び得ようか。愛する義仲様といっしょに戦っていることが女武者・巴の幸福であり、いっしょに戦って死ぬことが本望なのに……、この女心をなぜわかって下さらないのか。
義仲様の言葉は、言葉どおりの面子の問題ではなく、愛ゆえの「落ち延びろ」の言葉とわかっている。でも、そんなことなど、できはしない。しかし、義仲様の繰り返しの御命令を無視もできないし、義仲様の最後の境地を惑わせたくもないし、最後の瞬間に嫌われたくもないし……。
生と死の極限状況、ギリギリ最後の巴の選択は、「あぁ、ものすごく強い敵の豪傑はいないかな。最後の戦いを義仲様に見てもらいたい」であった。壮烈な一騎打ちを義仲に見守られながらの恍惚の奮戦死である。
ちょうどその時、武蔵国で有名な怪力武士が30騎を伴って現れた。すかさず巴は一騎で、その中へ突入した。巴はこの怪力武士をむんずとつかんで馬から引き落とし、首をねじ切って勝ってしまった。命を無にした女の力とは、まったく、ものすごいものだ。
その時、巴と義仲の目と目が合った。
その瞬間、膨大かつ微妙な精神情報が交差した。
だから、その精神情報の説明は省略。
平家物語では「物具ぬぎすて、東国の方へ落ちぞゆく」としか書かれていない。
その後の巴の運命は、源平盛衰記によると、信濃へ落ち延びたが、結局は捕えられた。しかし、鎌倉の有力御家人である和田義盛(1147〜1213)の尽力で助けられ、彼の子をもうけた。和田一族が滅亡した後、石黒氏のもとに身を寄せ、91歳の天寿をまっとうした。
余談であるが、先日、捕鯨の勉強をしていて、偶然知ったことがある。巴と和田義盛の間に生まれた子の子孫は熊野水軍の頭領となり、さらに数代を経て、江戸元禄期に紀州で「網取り法」という画期的組織捕鯨を発明して、日本最大の企業を興した太地角右衛門であった。
巴ファンとしては、やはりスーパーウーマンであるだけに、涙だけの月並みの悲劇のヒロインで終わってほしくなかったので、子孫の華々しい活躍に、なにやら安心したのであります。
ともかくも、なんですなぁ、91歳まで天寿をまっとうしたというから、やっぱり、美人はトク(得・徳)なんですよ。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。