●人生の一断面を医の倫理で支配する


 前回、訪問診療をしている医師や医療者の本を多数読んでいるなかで、訪問診療者は、患者の日常生活の詳細を知りたいという人が多い、たぶん、そうした医療者は本能的に相手の日常生活や生活習慣、家族関係などを知らなければ、訪問医療自体が成立しないという実感を得ているのだと思える。『医の倫理』(第二版)でも、医師が患者のもとへ診察に行った頃は、こうしたある意味理想的な医師と患者の関係性が常識化していたが、現状ではもはや無理だと述べている、ことに触れた。


 こうした医療者側からの、対患者・一般市民目線というものは、患者の生活を考えない限り、患者に「倫理的」に対応するとか、医療者側と対称であるという視点には立ちにくいものだということが、これまで述べてきたなかでわかってきたと、ここでは述べておきたい。


 医療施設に人が入れば、患者や一般市民が(健康時の)生活の場にいたことすら医療者側が想像しないことも多いように思える。「弱い者を前にしたふるまい」のあり方が医療倫理の原則性だとの理解を中心に据えて、そのために学習し研究されるものだという理解は、徹底的に無意味な思考であり、前提である。


「暮らし」「教育」「環境」の渾然となった世界のなかで我々は生きているのであり、あまりに稚拙な言い方を容赦してもらえれば、患者や一般市民のそのカオス的な人生のフレームのなかにいる「弱者=患者」は、医療を受ける機会はその一断面に過ぎない。弱者は人生のなかですべての場面で弱者なわけではない。断面だけを取り上げての、「医療人」学習や研究は意味があるとはとても思えないのである。


●「生」に対して有効か


 ここまで述べてきたようなことをとりまとめて言えば、「医療倫理は医療者のものであって、患者や市民のものではない」ということである。安楽死を望む患者がいれば、「それに寄り添う」ことで倫理的にその人間を死に至らしめてよい、というロジックも「決める側」「倫理を学び研究した側」にプライオリティがあるという、医療側の半ば硬直した意識下では、実はあり得なかったはずの空間を生み、その空間で生きてくるものである。


 嫌だなぁと感じるのは、医療倫理がひどく硬直した世界で生かされていることである。柔軟に考える連中が出てくるから「安楽死」を正当化する考えが生まれるというふうに誤解されそうだが、医の倫理は前提としては柔軟に考えられるべきものだと私は思う。それは「生」に対して有効な判断を生むかもしれないからだ。


 しかし、「死」の判断ではその有効性は、現段階では小さいように思える。生き続けることへの「望み」は、医療者でも患者・市民でも対等に立ち向かえるテーマだが、「死」はそこの周縁に生きている人たちの問題でもある。「死」は残される人たちを置いてけぼりにして考えられる問題ではない。「生」と「死」では、とくに患者・市民側に倫理的にケースバイケースで考えるべきテーマが山積していくのは「死」である。個人の「死」は周縁に不安、悲惨、拒否、悼みといった、ある意味処理しきれない、精神的平安を欠かせる。


 一口に言えば、現在の医の倫理については、医療者側は「医療者の問題」としか捉えていない。患者・市民の「生きる意味」に関しては一切の言及はしない、できないことを前提にしている。一方のみの「倫理」の探求、研究、意思統一といったものが、果たして有効なのかどうか。


●医の倫理を手放しで受け入れられるか


 医療者が言う「医の倫理」で通底している、あるいは信念化されている言葉に「Do no harm」がある。「(患者に)害をなさない」ということだと思うが、医療者側にはこの「Do no harm」の信奉で、教条化で自分たちの倫理が貫徹しているという思いがみえる。


 2023年初頭に刊行された加藤寛幸氏の著書『生命の旅、シエラレオネ』で、この言葉をめぐって若い医師と論争した経験が語られている。加藤氏はエボラ出血熱の治療支援で国境なき医師団の一員としてシエラレオネで活動した経験を同書で語っているが、次々と亡くなっていく子どもたちへの心情と、インシデントに端を発した支援活動の挫折をありのままに報告している。


 加藤氏はその活動を終えた直後に、同じ活動経験のある若手医師と食事し、そこで論争となる。加藤氏は、開発されたエボラの新薬に関して、「エボラに対する効果や危険性が十分に実証されていないとしても、何らかの効果が得られる可能性があって、使用が許可されるならば、ぜひ使いたい」と語ったことを若手医師に咎められる。


 彼は「効果や危険性が実証されていない薬を使うということは、医師の倫理に反しませんか」と加藤氏に問い、「Do no harm」という医師としての最低限の倫理が失われるのではないかと続ける。加藤氏は、インフォームドコンセントなど可能な限りの条件をクリアし、好奇心や功名心などないことを説明するが、相手の若手医師は引き下がらず、ついには「ヤブ医者」呼ばわりまでされてしまう。加藤氏は頭に血が上ったものの、すぐに冷静さを取り戻す。


 その理由について、こう述べている。「実際のところ、僕自身が彼の言うことに完全に同意していたからなのだと思う。彼が言うことは100パーセント正しい。そんなことは分かっていた。それでもシエラレオネで救えなかった命を思うと、その悔しさから、教科書に書かれている医の倫理や大原則を、手放しで受け入れることはできなかった」。


 このエピソードから類推できることは、シエラレオネでの経験は加藤氏をして、医師ではなく治療を必要とする子どもたちの周縁者にさせてしまったということである。このことは非常に強いインパクトであり、「医師としての最低限の倫理」に楯突きたくなる心情を説明するものだ。「もしかしたら治せるかもしれない。生という望みの端緒があるかもしれない」と考えることは、医の倫理に反するかもしれないが、人として存在する価値観で言えば、また違った「倫理観」でもある。


 すでに、エボラによって次々に死んでいく子どもたちの周縁者となった加藤氏が、人間として用いられる自らの専門性によって「使いたい」という「人の倫理」に思いをかけることを、「医の倫理」から批判する狭量さに私は少し不快な思いを持った。


「Do no harm」が医の倫理とすれば、医療を受ける側が、それによってチャレンジングな医療を受けられないという側面は「矛盾」と捉えるべきではないのだろうか。いかに人を死なせるか、いかに医療資源を無駄にしないか(金を使わず平穏死するか)、ばかりに焦点が当たり過ぎてはいないか。


 加藤氏は、国境なき医師団は医療倫理を厳しく守っていると述べており、その証拠は加藤氏がインシデントを指摘されて、支援活動を中止せざるを得なくなった顛末があることでも明らかだ。医師の支援団体が、最大公約数的な意味で、わかりやすい医の倫理を統合的に使うことは理解できる。非営利団体でも営利団体でも、どんな組織でも共通するモラルや倫理が徹底されるのは当然のことだ。しかし、現在、医療関係者に共有されている倫理は医師という職業倫理を逸脱して、かなり完全に近い人としての倫理のような扱いをしてはいないだろうか。


 私は、医師が医師として「医の倫理」を叩き込まれ、研究し、身に着けていることに疑問を持つのではなく、それが患者にも適用されているような社会的合意に異を唱えているのだ。患者・市民とその周縁者による共同体の倫理は「医の倫理」によって否定されるべきではないと思う。生きる可能性があるなら、チャレンジングな医療を求めるのはその「共同体」の倫理である。


 次回からは、私が最もわかっていないと自覚する「生命倫理」を勉強していきたい。(幸)