戦後1948年から3年間、東京日日新聞(現・毎日新聞)の辛口人気コラムだった「ブラリひょうたん」(筆者は劇作家で随筆家の高田保)をまとめた古本を、たまたま読んでいて、次のような一文に遭遇した。


「条理だった賢明な演説は人を感心させるが感動させはしない。この前の(選挙の)とき(略)ある候補者が壇上で、ワイシャツの胸を開き(略)『さあ、ここで諸君と命の取引だ。この命売ります(略)』とやった(略)。会衆は感心しなかったが感動した(略)。ゆうゆうたる成績で彼は当選した(略)。選挙戦術で最も大切なことは相手が群衆だという事実である。群衆に知性はない」


 身もふたもない強烈な文章だが、結局のところこの国の政治はあの敗戦の直後、戦後民主主義の黎明期からそんな雰囲気だったのかと半ば落胆し、半ば納得した。だとしても、今世紀に入ってからの政治は、昭和期に輪をかけてひどくなっている。さまざまな年長者が口にする「劣化」という形容に私も同意する。


 今週の週刊文春は、調査報道キャンペーン「木原事件」の続報のほか、『“改革政党”のウソと暗部 維新を暴く!』と題した大特集を組んでいる。毎月のように醜聞が噴出する党なのに、大阪を中心になぜか人気があり、野党第一党にもならんとする勢いの「日本維新の会」のことだ。私自身、あの政党の「ゴロツキ感」がどうにも苦手だ。


 文春特集では、現党首・馬場信幸氏がかつて地方選敗北の党内分析で批判されたことを根に持って、今春の統一地方選でその指摘をした大物堺市議の公認を拒否。当人の抗議に「公認はさ、僕の権限や。(略)理由なんて無かったって(公認を外して)ええんですよ」と、傲岸に開き直る音声データが紹介されている(当該市議は無所属で出て落選した)。記事に添付された「小誌が報じた(維新の)不祥事一覧(21年10月衆院選以降)」の表には、議員会館でマルチセミナーを開いた伊東信久・衆院議員の話や池下卓・衆院議員の違法献金疑惑、その他パワハラ、セクハラなど計12件もの「既報スキャンダル」がまとめられている。


『松井一郎前代表に直撃80分「橋本コンサル」「万博ピンチ」「セクハラ府議」』という関連記事の中で、松井氏は「僕も橋下さんも、(維新の政治家に)聖人君子な人柄は求めてこなかった。僕が支持された理由は政策の実行力。支持されない理由は言葉遣いが荒っぽいとかヤンキー体質。(略)言い方キツいけど約束したことを守る政治家のほうが、僕はええと思うよね」と持論を語っている。もちろん聖人君子である必要は必ずしもないのだが、物事にはやはり限度がある。自慢の「実行力」や「約束を守ること」に関しても、誇張やウソ交じりの「自画自賛のアピール力」という印象のほうが強い。


 たまたま同じ号の読書欄「著者は語る」のコーナーで、作家の堂場瞬一氏が近著の『デモクラシー』について語っている。作品そのものは未読だが、物語の舞台が「憲法改正後の未来」であり、そこでは立法府の議員が選挙でなく、抽選でランダムに選ばれるようになっている、という設定の説明に、強く関心を引かれた。抽選による議員選出のほうがまだマシだ――。私自身、最近同じことを強く思う。「あらゆる能力が国民の平均点レベルの人間集団」と「他の能力はすべて平均点、唯一、他者を押しのける権力欲と支配欲の突出ぶりにおいてだけ有意差が見られるグループ」を比べたとき、明らかに前者のほうが国民に害が少なく思えるのだ。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)、『国権と島と涙』(朝日新聞出版)など。最新刊に、沖縄移民120年の歴史を追った『還流する魂: 世界のウチナーンチュ120年の物語』(岩波書店)がある。