●多様化の肯定と否定が繰り返された近代史


 生命倫理は未だに語りつくされていないテーマである。私のような勉強不足の人間が語る話なのかどうかもわからないが、語りつくされていないからこそ、専門家でなくても議論に参加できる余地があるという言い方はできるかもしれない。


 そういう主張ができるのは、生命倫理が本質的に人類特有の問題でありながら、20世紀後半以後のバイオテクノロジーの予測を超えた進歩が、一定の解決が見えかかったときに新たな闇を生み、その闇が立ちはだかり、立ちはだかりすることを繰り返してきたからである。ゆえに近年、生命倫理を語る人々は、テクノロジーの進歩展開とともに多岐の分野に枝を広げ続けている。70年代半ばまで、生命倫理を語るのは圧倒的に医師であり、薬学研究者や生物学者であったりした。


 しかし、その後、哲学者、広範な理系研究者、宗教家、市民運動家、政治家までが、語り始め、多様な組み合わせでの論議の機会も増えている。


 2018年に邦訳が刊行されたシッダルータ・ムカジーの『遺伝子――親密なる人類史』は、生物学、生命学、社会学、人類学に関する史書であり、現在時点に至る生命倫理の論議の展開を並走しながら語っている。この本で解説を担当している仲野徹・大阪大学大学院教授の「科学に興味がないという人がいても、我々の未来に興味がない人などいないだろう。その未来、いや、近未来は、『遺伝子』をどう取り扱うか、どう操作するかによって大きく変わってしまう可能性が大きい。期せずして、その節目が現代なのである」と述べている。


 キーワードは医療的倫理と同義語化していたストリームから、「遺伝子」という細いカテゴリーによって、医療倫理そのものでは御しきれない「生命倫理」という大河に変わった。


 なかでも最も問われているのは、いったん人類の知恵で乗り越えかかった「優生思想」の否定が、技術という網掛けで目くらまししながら復活したことだ。その復活の最中を私たちは生きている。


●19世紀のベイトソンの予感


 簡略に言うとムカジーの著書(大部である)は、遺伝という概念が、メンデルの関心・研究から生まれ、ダーウィンの『種の起源』と交差し、それが優生学的根拠となってさまざまな人種的差別、民族主義、それに伴う悲惨な歴史を構築し、さらにその研究の進化がさまざまな疾患の特定と治療法開発、あるいは開発への期待へと進んできた一方で、新たな「優生学」(仲野氏は「新優生学」としている)を生み始める兆しをみせているといった史観がベースとなっている。


 100年前には一握りの専門家しか輪郭を知らなかった「遺伝子」が、今は世界中で誰もが常識として共有しているなかで、生命倫理の鍵であり、その鍵で開けるボックスは、混沌とした暗闇のままである。


 ただ、ムカジーによれば、19世紀末の生物学者でメンデルを高く評価したひとりである、英国の生物学者ウィリアム・ベイトソンは、遺伝学「Genetics」という言葉を生み出すとともに、1905年には「人類が遺伝に干渉し始める」ことを明確に予言したとしている。


 こうした歴史を見る限り、「生命倫理」は遺伝学とそれに濃厚に付随する優生思想の萌芽に対する実に人間的な問い掛けだということもできる。ベイトソンは、「遺伝の科学はまもなく、とてつもない規模の力を人類に与えるだろう。そしてどこかの国では、それほど遠くない未来のどこかの時点で、その力が国家の構成を操作するために使われることだろう。その国にとって、あるいは人類全体にとって、そうした操作が最終的に善となるか悪となるかはまた別の問題である」と述べた。


 ムカジーは「ベイトソンはすでに遺伝の世紀を見越していた」と語るが、その後に起こる優生学的立場に依拠して始まる戦争の世紀は、ピリオドを打てないままだし、地球上には生物学的差別、遺伝学的差別が旺盛に跋扈している。生命倫理など最初から頭にない権威主義者に、いまだに蹂躙され続けている世界はいたるところにある。


●ドブジャンスキーの洞察


 しかし、20世紀の半ばには何人かの生物学者の登場で生命に関する倫理的立場は、いったん確立しているような場面も見えたことがある。1940年代に頭角を現したウクライナ出身の米国人テオドシウス・ドブジャンスキーは、ショウジョウバエの遺伝的研究から「遺伝型が表現型を決定する」というメンデルの発見を体系化するなかで、「遺伝型+環境=表現型」ということに気付く。


 彼の到達点についてムカジーは「遺伝子自体は子に受け継がれても、それが実際の特徴へと浸透する能力は完全ではない」と述べて、「遺伝型+環境+誘因+偶然=表現型」という一定の公式のようなものをドブジャンスキーの研究から見出している。


 ムカジーが位置づける「ドブジャンスキーの洞察」は、20世紀半ば遺伝学は多様性の研究であり、「自然な多様性というのは生物にとって欠くことのできない蓄えであり、不利益よりはるかに多くの利益をもたらし」、「突然変異も多様性のひとつにすぎない。どちらが道徳的に優れているとか、生物学的に優れているということはない。ある特定の環境に適応できたか、できなかっただけの違い」で、「ひとつひとつの要因がもたらす相対的な影響を解析せずに知能や美を高めようとしても、優生学者は挫折するだけだ」という非常にわかりやすい論理で貫かれている。「遺伝学の悪用と優生学に対する強力な異議申し立て」はこの頃、一定の世界的スタンダードとなったフシがある。ただし、日本は除いて。


●洞察は懸念に


 ドブジャンスキーの洞察を区切りとして遺伝学の立場は「多様性の肯定」で、一定の結論を得たように見えるが、第2次大戦を境として、DNAの時代へと向かうことで新たな試練が始まり、現在に続いている。


 41年から44年にかけて、ニューヨークのロックフェラー大学教授だったフレデリック・エイヴリーらが「形質転換の原則」に基づく、タンパク質と核酸の研究を通じてDNAの存在を仮定し、44年にその存在が論文発表された。44年はナチスによる虐殺がピークに達した。ドブジャンスキーの「洞察」は「懸念」に転化する。戦争遂行の思想的道具として遺伝学は優生学と混濁しながら、DNAの発見に向かうのだ。


 ムカジーは45年頃を、「優生学と遺伝学の言語は、大きな憎しみに満ちた人種差別言語の付属物」になったと述べている。


 その後、68年から73年にかけてDNA研究は米国を中心に飛躍的な進歩を遂げる。この頃までに、遺伝子の解読技術、遺伝子とゲノムの性質の明確化、遺伝子ベクターの開発技術などが明らかにされ、その到達点のひとつが、組み換えDNA技術だ。


 この組み換えDNA技術が重要なテーマになったと述べるのは、生命誌研究者の中村桂子氏。14年に出された『生命倫理の源流』(岩波書店・香川知晶、小松美彦編)のインタビューで同氏は、「生命科学を考える立場として、組み換えDNA技術は具体的な研究にとって重要な技術、これをどう考えるかが私にとって重要なテーマとなった」と語っている。


 組み換えDNA技術によって、多細胞生物が扱える新しい生命科学が誕生してきたことが、「私にとって自然観、生命観、人間観をつくることになっていき」、「事実のない技術や倫理であれこれ議論するよりは、社会や倫理を意識しながら研究のありようを考える方が重要だと思い始めた」と中村氏は述べている。


 こうした考え方のモチベーションとなっているのが、「アシロマ・モラトリアム」だ。次回はこのアシロマ・モラトリアムをベースに、第2期に入っている生命倫理を考えながら、新優生学への危惧を示していく。(幸)