この夏の甲子園で実に107年ぶりの優勝を果たした慶應義塾高校をめぐり、週刊新潮が『甲子園「慶應優勝」への違和感の正体」という特集記事を組んでいる。「エンジョイベースボール」をモットーに髪型は自由、練習もごく短時間に収めるなど、確かに話題性に富むチームではあったが、世間の注目を広く集めたのはそんな球児たちの活躍より、スタンドをぎっしり埋めた慶應関係者の怒涛の応援歌や慶應出身のテレビ出演者の「はしゃぎっぷり」のほうだった。
実は週刊文春も『107年ぶり甲子園優勝 慶應を丸裸にする』という似た特集を載せているが、社内に数多くいるのだろう、慶應OBの上司や同僚に忖度でもしているのか、そう疑いたくなるほどに、ごく普通、当たり障りのない特集記事だった。かたや新潮のほうは、タイトル下に箇条書きされた記事骨子を拾うだけで『慶大名誉教授が「大学野球的応援は申し訳なかった」』『「鼻につく」という「内輪ノリ」と「群れる習性」』『出身者が振り返る「階層ギャップ」と「ブルジョワ的雰囲気」』等々と、イヤミっぽさに溢れている。こちらはまたこちらで「社内外の慶應出身者に顰蹙を買うのでは」と心配になってしまう。
私自身の印象でも、今回の慶應OBらの「大はしゃぎ」に部外者はしらけ気味だった。何よりもそれは、「塾高」という存在に「日本一洗練され、優秀なセレブ子弟が集まった学校」というブランドイメージがあるからだ。卒表生たちも普段なら、それをひけらかす「下品さ」は十分にわきまえている。だが、今回は100年に1度という宝くじ的な僥倖に、タガが外れてしまったに違いない。空前のバカ騒ぎを繰り広げてしまった。
私は神奈川の県立高出身のため、大学受験時にはほとんどの友人が慶應か早稲田、あるいはその双方に挑戦した。バンカラの早稲田とスマートでお坊ちゃま風の慶應。そんなふうにイメージは違ったが、その当時(70年代末)、受験生の人気はほぼ同等だったように思う。しかし、そのころからバブル期に向け、「バンカラ」などという美学は死語同然となり、世相は慶應的な「リッチな洒脱さ」を追うようになる。慶應に進学した友人の話では、大学からの「外様組」がシティーボーイを気取ろうにも、生え抜きの「塾高」出身者を前にすると、自分の野暮ったさ、垢抜けなさを痛感させられたものだという。
1億総中流時代のあのころさえ、そんな具合だったわけだから、世の階級的分断がかくも深まった今日では、慶應ボーイの団結はまさに「勝ち組人脈」の象徴、しがない庶民にはなかなか共感しにくい対象になっている。今回は図らずも、甲子園という国民的行事の場で「彼ら」と「その他もろもろ」のコントラストが可視化されてしまったのだ。新潮の記事は「慶應の優勝について『モヤモヤしたものを感じる』と違和感を表明する人が一定数存在した」という視点に立っているが、その感覚は正直、私の中にもある。
今週の週刊文春では、巻末の「編集長から」という短いコーナーの横にQRコードがあり、こんな説明がなされていた。「近頃、読者の方から『取材費を寄付したい』というありがたいお声を頂く機会が増え、受け皿となる仕組みを整えました」。出版関係者でこの説明を額面通り受け止める人がいるとは思えない。「交通費・宿泊費等の取材費を未だにきちんと払うほぼ唯一の雑誌」として、ライターの信頼を集めてきた文春さえ、ついにこんなキャンペーンを始めた――。ほとんどの業界人はそう捉えるだろう。雑誌ジャーナリズムの困窮もいよいよここまで来てしまったと。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)、『国権と島と涙』(朝日新聞出版)など。最新刊に、沖縄移民120年の歴史を追った『還流する魂: 世界のウチナーンチュ120年の物語』(岩波書店)がある。