(1)端麗(きらぎら)しく


 約20年前、「女系天皇を認めるべきか否か」が、大問題になった。でも、秋篠宮親王と同妃紀子の間に男子(悠仁親王)が誕生して、関心が薄れてしまった。「女系天皇」と「女性天皇」は意味が違うが、どうやら、女性天皇の出現は当分ないみたい。


 現代のことは、さておいて、日本初の女帝は第33代推古天皇(554〜628、在位592〜628)である。「日本初」と書いたが、正確には「最初の確実な女帝」と書くべきだろう。「日本初の女帝候補者」は、かなりいるのだ。邪馬台国の卑弥呼や壱与(台与)、伝説的猛将の神功皇后、あるいは、第22代清寧天皇のあと摂政となった飯豊皇女などである。


 なにせ古代史は、基本的によくわからないのだ。だから、天照大神を実在の「日本初の女帝」と大真面目に論じても、多くのファンを獲得するであろう。むしろ、地味な考古学的事実よりも空想をダイナミックに展開したほうが、おもしろくなる。おもしろければ、流行るものだ。


 女性を容姿で評価する意図は毛頭ないが……とは言いつつも、やっぱり容姿について。


 日本書記に「姿色(みかほ)端麗しく」とあるから、間違いなく美女である。女帝だから御世辞の表現、と疑う人も大勢いるでしょうが、そうではありません。日本書記に登場する女帝の皇極天皇や持統天皇には、美女を連想させる賛辞の言葉がひとつもないことから、間違いなく美女と断定できるのであります。


 それで「端麗しく」とは、どの程度の美女なのだろうか。別の個所の用例を参考にしてみよう。第26代継体天皇の父は「端麗しく」と評判の高い振媛を妃にするために、わざわざ遠い他国の福井県まで使者を派遣してラブコールした。つまり、国内どころか他国へも噂が広がるくらいの美女を形容する場合に「端麗しく」は使われている。もうメチャクチャすご〜い美女の形容詞なのだ。


 写真集ならば、「超美女でございます」だけでOKとなるが、お話となると、それだけではつまらない。絶世の美女なるがゆえに、色恋が絡んだドキドキ物語がないことには面白くない。心配御無用。ちゃんと、ものすごいドキドキ物語がありますから。


(2)未亡人、危機一髪


 彼女の父は第29代欽明天皇、母は新興豪族である蘇我氏の娘である。そして、若さピチピチの18歳で第30代敏達天皇(538〜585、在位572〜585)の何番目かの妃になるが、1〜2年後に皇后が逝去され、彼女が皇后につく。2人の間には2男5女の7人の子供が誕生したのだからラブラブ夫婦であった。ところが、敏達天皇が病死、31歳にして美貌の未亡人。これはもう、何かが起こりそう。


 当時の皇位継承には明確なルールなどない。敏達天皇には母の違う皇子があちこちにいるし、さらに敏達天皇の異母兄弟もいる。彼ら全員に皇位継承権がある。何をもって次期皇位は決定されるのか……先帝の遺言や未亡人の意思も尊重されたが、基本的に実力皇子、有力豪族の談合で決まる。


 この時期の2大有力豪族は、仏教反対の守旧派物部氏と仏教推進の新興蘇我氏であった。少々注釈を加えておきますが、蘇我氏の仏教推進といっても、外国にいらっしゃった八百万の神々の一柱、あるいは蘇我氏の氏神様レベルの認識であり、あえて言うならば、金ピカの美しい仏像に感激している程度で、とうてい仏教の真理を理解できていなかった。


 多くの皇位継承者の中から、とりあえず、ワンポイント・リリーフで病弱な用明天皇が即位した。記紀では即位したことになっているが、正式な即位ではない、とする学説も多いくらいで、いずれにしても用明天皇の実権はゼロ。問題は次だ。


 睨み合い、探り合いが連日連夜続く。最初に、穴穂部皇子が行動に出た。彼の皇位継承は可能性が低いと見られていた。そこで、一発ウルトラ大逆転を仕掛けた。すなわち、喪に伏しているキラギラしい未亡人を「奸(おか)さむ」と企てたのである。レイプしてしまえば未亡人はこちらの言いなり、未亡人を味方につければ、自分に皇位が……。色と欲の一挙両得作戦に出た。嘘みたいな話だが、どうも昔々の男は、こうしたことに積極果敢であったようだ。


 そして実行に移った。美貌の未亡人、あわや落花狼藉、ジャジャジャ、ジャーン。しかし、未亡人の親衛隊長が格好よく登場して未遂となる。穴穂部皇子は逆恨みで親衛隊長を殺害。そうこうしていたら用明天皇病死。事態は一気に、「穴穂部皇子・物部氏連合」と「未亡人・蘇我氏連合」との大合戦と相成る。大量の血が流され(戦死者1000人前後か)、未亡人・蘇我氏連合が勝利し、物部氏は壊滅した。


 この合戦では、厩戸皇子(聖徳太子)の活躍も特筆されるが、説明省略。この乱は、「丁未の乱」とか「物部守屋の変」とか言われている。一般的には、仏教を巡っての宗教戦争という説明が多いようだが、基本的には、権力争いである。なんにしても、崇峻天皇(第32代、在位587〜592)が即位した。


(3)黄金時代を築く


 これにて平和到来と思ったら、それが大間違い。物部氏滅亡後、今や巨大豪族に発展した蘇我氏と崇峻天皇が対立してしまった。その結果、なんと崇峻天皇が暗殺されてしまう。黒幕が蘇我氏のボスである蘇我馬子であるとわかっていても、誰ひとり表立って追及しない。だが、天皇暗殺の異常事態である。蘇我氏と反蘇我氏の間に不穏な空気が蔓延していく。


 未亡人は悩み考えた。夫の敏達天皇が亡くなって7年間、その歳月は動乱の日々であった。まだまだ、流血は続くのか?


 一応、皇位継承の有力候補者は3人と目されていた。用明天皇の子の聖徳太子、敏達天皇と推古の子である竹田皇子、敏達天皇と先妻の子である押坂皇子(34代天皇舒明天皇の父)である。しかし、誰が即位しようと、蘇我馬子の「イイナリ天皇」にならなければ、またまた大量の血の雨が降りかねない。


 異常事態の中、38歳ながら未だ容色衰えぬ美貌の未亡人は悩んだ。


「平和はなぜ来ないのか?」


「何もしないで黙っていると、男どもは談合を繰り返し、結局は流血の大合戦になってしまうかも……」


「わが最愛の竹田皇子も殺戮の騒乱に巻き込まれてしまうかも……」


 夫の敏達天皇が亡くなってから7年間、未亡人は不本意ながらも大動乱の渦中、しかも中心にいた。そして、そのことが、「レイプしてしまえば、言いなりになりそうな美貌の未亡人」を「女傑」に変身させていた。彼女は昔の彼女ではなかった。


 かくして、暗殺事件の1ヵ月後、電光石火の早業で、未亡人自らが天皇に即位してしまった(592年)。日本初の女帝・推古天皇の誕生である。


「未亡人パワー」とか「後家のがんばり」とか……そんな程度の決断ではない。とにもかくにも、先例なき女帝の誕生である。日本だけでなく、中国にも朝鮮にも女帝の先例はないのだ。


 ちなみに、朝鮮半島では新羅の第27代善徳王(在位632〜647)が最初の女帝であり、中国では唐の則天武后が実子を皇帝の地位から引きずりおろし、自ら即位して則天大聖皇帝(在位680〜705)となったのが最初である。


 古代のほとんどの文化は中国や朝鮮から日本列島に流れ込んだが、唯一例外、日本が朝鮮・中国へ輸出した文化とは「女帝」なる制度である。つまり、推古女帝の誕生とは、日本のみならず東アジアに「女帝の時代」を築いたわけで、その意味からも、推古の決断は画期的であった。


 なぜ、未亡人の決断がすんなり容認されたのか?


 いろんな説がある。


➀シャーマン説


 かつては、推古女帝は卑弥呼と同列に解説された。


②中継ワンポイント・リリーフ説


 女帝の中には、確かに「中継ぎ天皇」もいたかも知れないが、それだけでは説明できない。


③世代内継承説


 古代の皇位継承は「親から子へ、子から孫へ」ではなく、むしろ「兄弟姉妹のたらい回し」のほうが通常であるとの説明もある。古代の皇室系図を眺めると、そんな気もしないではないが、要は結果論に過ぎない。


④天皇暗殺異常事態説


 これは、中継ワンポイント・リリーフ説と類似している。


⑤豪族パワーバランス説


 蘇我氏と反蘇我氏のパワーバランスに女帝誕生の原因を求める。


⑥聖徳太子天皇即位阻止説


 聖徳太子が大好きな人に好まれる説


⑦最大実力説


 私は単純明快に「最大実力説」が、無理のない説明ではないかと思う。


 当時は正妻と妾の差は、さほど意味を持っていなかったのだが、皇室だけは急速に皇后と他の妃とが区別されるようになった。その理由は、皇后の財産権が確立していったからである。天皇の領地は、徐々に「朝廷という政府機関の領地」と「皇室という家」に分化され、さらに「〇〇皇子の領地」というように分化されていった。この過程で「△△皇后の領地」が確立していった。


 推古は結婚以前にも、全国各地にそれなりの領地を有していたが、推古が皇后になった時、初めて「私部」(きさいべ)という皇后専用の領地が設けられた。「私部」という新制度ができるくらいであるから、皇后の領地は中途半端ではなかったはずだ。さらに、皇太后として用明天皇、崇峻天皇の上に君臨していたから、推古の領地は大きく膨張したと思われる。


 当時の最大豪族は蘇我馬子であるが、推古の経済基盤は、それを上回っていた可能性がある。推古は、「天皇の正妻、皇太后」という圧倒的権威と同時に「独立した超有力豪族」という側面を併せ持ち、実質的に最大実力者になっていたのだ。


 推古は「最大実力者が天皇に」という極めて当然な結論に達したのである。


 かくして、推古女帝は、IQ抜群の聖徳太子と海千山千の蘇我馬子の2人を巧みに操り、36年間の平和・平穏な輝かしい「女帝の治世」を築いた。古事記は推古女帝でおしまいとなっている。つまり黄金時代で物語を終えている。女帝の成功、女帝が築いた黄金時代の事実は朝鮮・中国へも伝わり、前述したように東アジアに広まった。


 なお、推古女帝の遺言は「わがために墓を建てて、厚く葬ることなかれ。ただ竹田皇子の墓に葬るべし」であった。なんと平和で愛情に満ちた言葉ではないか。  


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。