自分のことで言えば、若い頃のほうが「人を見る目」に自信があったように思う。初対面の相手でもある程度やり取りをすれば、猜疑心が強そうだとか、マウントを取りたがる性格に見えるとか、それなりに人物像が浮かび上がり、かなりの確率でその見立ては当たるものだという自負を持っていた。しかし、最近はダメである。とくに好意的な第一印象を持った相手から、のちのち嫌な顔が見えてくる体験が増えてきた気がする。


 ジャニーズ新社長になった東山紀之氏に対しては、好悪いずれの感情もとくになく、強いて言えば「生真面目そう」という表面的な印象を持っていただけだ。ところが、今回のジャニーズ騒動をきっかけに、かつて出たジャニーズ出身者の暴露本に、若かりし日の東山氏が後輩らに傍若無人な態度をとっていたとする記述があったことを知る。執筆者の被害妄想的な記述かもしれないし、青少年期にありがちな悪ふざけ、愚かな言動を50代になった人物の「本質的な人格」としてしまうのにも、いささか抵抗がある。


 ただ、このところの週刊誌報道では、こういった氏の「裏の顔」に言及する記事が目立つ。今週の週刊文春『東山紀之“森光子への噓”ロンドンの五つ星ホテルで森光子とスイートに泊まったヒガシ。だが陰では「あのババアへのプレゼントは……」』という記事もそのひとつだ。メリー喜多川・元社長や森光子氏、ジャニー喜多川氏といった庇護者に対しては従順な顔を見せるものの、かたやジャニーズの後輩には真逆の顔を見せるという氏の二面性について書かれている。


 ところが、週刊現代に載る連載コラム『それがどうした 男たちの流儀』で、作家の伊集院静氏は真逆の人物評をする。先の会見での質疑をテーマにして「マスコミは恥を知れ、恥を!」と激烈な見出しのエッセイを書いたのだ。若き日の東山氏によるセクハラ疑惑に関しては、「彼は断じてそういう男ではない」。東山氏は事務所随一の男気・気骨のある人物で、それに匹敵し得るのは長瀬智也氏か木村拓哉氏くらい、中居正広氏などは「ただの二流タレント」に過ぎないと言い、松本潤氏や櫻井翔氏のこともこき下ろしている(後者の人々には、とんだとばっちりだ)。にもかかわらず、この激烈な文章で、そう信じるに至った根拠はほとんど示されない。「私は人間を見る目だけは持ち合わせているつもりだ」。その一点で伊集院氏はバサバサと人を評するのだ。


 70代の老作家がかくも自身の「眼力」を絶対視する。私にはとてもマネできない芸当だ。正直、今回の文章の「危うさ」を見る限り、氏のこれまでの人生で、他者を「見誤ったこと」は無数にあったように感じられる。そういった事実はみな「なかったこと」にしているのか(それともなかなか想像しにくいが、氏の人物評は過去、百発百中だったのか)。そもそも本質的な人格など、私には断定しかねるが……。よほど決定的な出来事がない限り、そう保留するしかないというのが、私が60余年の人生で得た「人物評」についての結論だが、人それぞれ、齢を重ね到達する境地にも、さまざまな違いがあるようだ。


 週刊文春『岸田五人の女をドリルする!』、週刊新潮『質より量⁉ 岸田総理「女性水増し内閣」の水没危機』という記事で、両誌は今回入閣した5人の女性大臣の「人物評」を試みている。「政治とカネ」にまつわること、男女関係をめぐるエピソード、周囲の人たちへの接し方等々、内容はさまざまだが、これといってインパクトある「秘話」は見当たらない。ただひとつ気になるのは、週刊新潮の特集にひとりだけ、上川陽子・外相への論評がないことだ。5大臣のうち4人だけを評した記事になっている。おそらく、彼女と編集部(編集長?)の間には何らかの「友好関係」がある。「親しき仲にもスキャンダル」というのは週刊文春の元名物編集長のモットーだが、新潮のほうは特定の相手への忖度をこのようにときどきやる。そういうところがある。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)、『国権と島と涙』(朝日新聞出版)など。最新刊に、沖縄移民120年の歴史を追った『還流する魂: 世界のウチナーンチュ120年の物語』(岩波書店)がある。