バブル好況時代、地方自治体は文化芸術政策の名の下に、競い合ってデラックスな美術館や音楽ホール、博物館などを建設した。ところが今や、いずこも財政状態が芳しくなく、その莫大な維持管理費に四苦八苦している。


 文化芸術が人々の心を豊かにすることはわかる。でも、それだけじゃ、財政は好転しない。「その文化芸術を中核として、一大産業群が形成される」なんて夢のようなことはないものか。そんな夢みたいな話が、出雲(島根県)松江藩の第7代藩主・松平治郷(はるさと、1751〜1818年)である。


 治郷は、一般には号の「不昧」で呼ばれている。その意味は、禅問答で有名な『無関門』の中の「百丈野狐」(ひゃくじょうやこ)の章からとったもので、「昧(くら)まされず」「悟りをひらく」といった意味である。松平不昧は、茶の湯という文化芸術を中核として、見事に「茶の湯産業群」を松江の地に形成した。松平不昧の知名度は、松江市民と茶道の先生だけに限定されているが、実におもしろいお殿様である。


 話は、不昧の父の代、すなわち6代藩主・松平宗衍(むねのぶ)に遡る。その頃の松江藩は極端な財政困窮に陥っていた。宗衍は相当優秀な頭脳の持ち主であったようだ。そのため、藩主親政の改革を行った。宗衍は大胆かつ革新的な構造改革的アイデアを好んだ。銀行らしき機関を創設したり、年貢徴収権を豪農に売却したり……封建体制を逸脱する政策さえ実行した。しかし、結果は無残な失敗。


 江戸の藩庫は空っぽとなり、宗衍が出雲松江へ帰る費用さえないから、ずっと江戸暮らし。それどころか、宗衍が1両を所望しても手元金さえゼロ。小姓が江戸中を駆け回ったが、江戸市中には「松江藩消滅」の噂が蔓延していて、1両どころか1朱さえ貸してくれない。そんな毎日であった。


 この非常事態に松江藩家老の朝日丹波が仕置役に任命される。最初の第一声がすごい。「江戸からアレコレ命令するだけの藩主は、さっさと引退すべきです」と引導を渡したのだ。宗衍は1767年、38歳の働き盛りながら引退する。そして、宗衍の子、17歳の治郷(不昧)が第7代松江藩主に就任する。


 財政立て直しは、もっぱら朝日丹波が取り仕切った。丹波の改革は、封建体制の原則に立ち返ることであった。つまり、百姓から絞れるだけ絞る、というものであった。丹波の子供の手紙に「亡き父(丹波)常々申し居り候は……御国の百姓を絞り候外御座なく候」とある。丹波は実に堂々と百姓から絞り取った。江戸時代の年貢率は、五公五民から六公四民ぐらいであった。それを、あの手この手で七公三民にまでアップしたのだ。


 さらに、領内の商人・豪農からの借金は問答無用で踏み倒す。逆に、藩は貸してある金は絶対に取り立てた。むろん、質素倹約、大リストラ、汚職厳禁は徹底された。


 それでは、新藩主たる松平不昧は何をしていたのか?


 不昧は「過ぎたる勇気」でもって、「過度の失策」をしでかす腕白若様だった。朝日丹波を筆頭とする家臣たちは、「藩政はすべてすっかり家臣に任せ、お殿様は静かにお茶を飲み、黙って座っていてください」という期待を込めて、茶道と禅を勧めた。ところが、凝り性というか、不昧は茶道と禅の虜になってしまった。しかも、どうやら文化芸術の天賦の才があった。あれよあれよという間に、「日本の名著」と言っても過言ではない茶書『贅言』(むだごと)を著す。


 その内容の第一は、「今の茶道は堕落している。茶道の本質、すなわち千利休の茶に戻らなければならない」というもので、いわば当時の茶道界への全面的総批判である。『贅言』の中に、利休の歌が2首引用されている。


 釜一つもてば茶の湯はたるものを よろづの道具好むはかなさ

 茶の湯とはただ湯をわかし茶を立てて 呑むばかりなり本(もと)をしるべし


 そして、茶の本とは「草案のわび茶」であるとしている。


 しかし、20歳そこそこで、わび・さびが本当にわかったのだろうか。そこが天才芸術家なんだろうが、想像するに父・宗衍の行状が関係しているのではなかろうか。宗衍は失望の中、耽美主義・エロティシズムというか、近代小説の谷崎潤一郎、川端康成と似た新感覚の持ち主になっていた。愛妾の背中に花の刺青をさせ、スケスケ単衣でお茶を立てさせて……。となると、父の耽美主義・エロティシズムに反発して、わび・さび美学を強調したのかも知れない。


『贅言』の内容の第二は、茶道と藩政の関係である。「茶道は趣味娯楽の効能だけではない。天下国家を治めるのに大いに役立つ」と記されている。その理由として、次の逸話を持ち出している。


「楚王(そおう)は狩りの趣味に夢中になっていた。部下は『趣味にうつつをぬかしていると、敵に攻め込まれてしまう』と諌めた。楚王は『狩りの趣味によって、勇士・力士・仁士(じんし)の三士を探し出すことができるから、楚の国は安泰』と応えた」


 家臣の勧めで茶道と禅を始めたが、本格的にのめり込んでしまったから、茶道の場合、それなりに金がかかる。松江藩全体が極度の質素倹約を励行中である。それなのに藩主だけが茶道なる贅沢をしていては困ります、とでも嫌味を言われたのであろう。そんな嫌味への反論が「茶道をやっていれば、優秀な人材をみつけることができる」である。


 さらにドカーンと大風呂敷を広げて、「茶の湯の道は国を治める道に通ずる」「茶道は治国の道」と言い切る。凡人にはとてもじゃないが理解しがたい。でも、不昧の天才頭脳は、「茶道=藩政」「藩政=茶道」と悟ってしまったから、「茶道だけをしておればよい」どころか、「茶道をしていれば、自ずから国は立派に治まる」という、まことに茶人藩主に便利な論理が完成してしまった。


 藩主就任から14年の歳月が流れた1781年のある日、朝日丹波は高齢のため仕置役を辞職することになった。その際、丹波は不昧を藩庫へ案内した。丹波が仕置役に就任した時は藩庫には千両箱が1つだけ。しかも、その1箱も半分くらいしか入っていなかった。それから14年、眼前に3万数千両が積み上げられている。丹波としては、自分の実績を不昧に自慢したかったのだろう。


 今まで、「金がない」「ご倹約を」とばかり言われていた不昧は、びっくり仰天。芸術至上主義の天才芸術家という種族は、凡人が想像もしないとんでもない発想をする。千両箱の山を見た不昧の心中に、むらむらと「日本の名物残らず集め候」という大野望が沸き上がった。名物とは茶器、茶道具のお宝のことである。


 10年前は『贅言』で、「道具好むはかなさ」と、大金で茶道具を購入して自慢している茶人を完全批判していたのに……。一応は、個人に秘蔵されている天下の名器を多くの茶人に公開する、災害から天下の名器を保護する、といった合理的目的を謳ったのであるが、さてさて天才の本心は……。


 朝日丹波は、不昧に千両箱の山を見せたことを、「一生の不覚」と後悔したが、後の祭り。天才不昧はせっせと名器収集に乗り出す。1つの名器のために500両、1500両とドンドン支出された。そして、約600個の名器を集めた。


 かくして、松平不昧は茶の湯の第一人者、茶道の大天才として天下に認められた。すると、不昧を中心に多くの人材・物資が渦をなしてきた。


 茶の湯には和菓子は欠かせない。しかし、質素倹約運動の一環として父・宗衍の時代から、「他国より酒肴菓子等取寄の儀無用たるべき事。但し鰹節は制外の事」というお触れがある。となると、必然的に松江の城下には和菓子生産の業が生まれる。いつの頃か、松江は京都・金沢と並ぶ三大和菓子の町に発展した。


 また、江戸時代の茶会は、「二幕四時間構成」となっている。第一幕が懐石料理、第二幕が濃茶・菓子・薄茶である。明治以降は第二幕だけが独立してしまった茶会が多くなったが、江戸時代は茶会といえば懐石料理が絶対にセットされていた。したがって、茶の湯が流行すれば懐石料理が隆盛する。おそらく、宍道湖七珍(しっちん)と呼ばれる宍道湖の魚介類が食材となったことだろう。


 観光案内になってしまうが、松江へ行ったら、出雲そば、鯛めし、ぼてぼて茶の3品は食べてみよう。出雲そばは説明不要。鯛めしは不昧が工夫した一品である。ぼてぼて茶は、でかい茶筅(ちゃせん)で泡立てる茶漬けである。出雲のたたら製鉄の職人の労働食という説、飢饉の非常食として不昧が考案したという説、上流階級の茶の湯に対抗して庶民が創作したという説などがあるが、いずれにしても、不昧の茶の湯の影響が窺い知れる。ぼんやりした観光では見逃すかも知れない。


 陶磁器生産も当然発生する。不昧は途絶えていた楽山窯(らくざんがま)を再興した。蛇足ながら、日本は陶磁器の芸術性においては、ダントツで世界一である。あまりにも身近にありすぎるので、ありがたみが薄いが、日本が誇り得る芸術である。


 

 楚王のもとには三士が集まった。不昧のもとには、「茶の湯産業群」が形成されたのであった。


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。