●無意識の差別性


 医の倫理を勉強することは、実はかなり広範囲な読書を必要とする。人と人の間で作られる関係性の上で社会が構造化され、それらの中でいくつもの対立や協調や好悪や憤懣や絶望や希望が生まれる。それらの要因はしばしばヒエラルキーの存在から生まれるものであり、優越性や怨嗟の源となる。「医の倫理」はそんな逃げ場のない社会の属性を超えて、人々の健康と希望と幸福をもたらすことが要求される。それがたとえ死にゆく者への行為だとしても、苦痛からの解放と心の平安をもたらすものとして機能しなければならない。


 そう考えると、「医の倫理」とは人間社会の中にある多様な倫理観を包摂しつつ、それを医療行為という現象に限定的に対応しなければならないということになる。医の倫理自体が、高齢社会と経済の視点、「不幸な子どもの生まれない運動」が象徴するように、潜在しているようで実は堂々と水面上にある障害者差別、それすら考えなくていいようにする生命倫理の恥ずかしげもない一部研究者たちの振舞い、などなどの新たに生まれてくるいくつもの難題に取り組まなければならない。現状は、実は、それらのことごとくに翻弄されている。


 このシリーズでは、ここから生命倫理や優生思想に関する読書を中心に、医の倫理につながる新たな倫理観や哲学や思潮について観察していきたい。


●汎優生主義という新たな社会的過程


 1回目の読書は、社会人類学を専門とする宮永國子が編んだ『グローバル化とパラドックス』から、永澤護の『汎優生主義のリミット』である。永澤の専門は哲学だと同書の紹介にある。


 永澤は「はじめに」で、こう語っている。「本論は『この私は他人より、生存に値するか』という価値軸に沿って、我々一人ひとりが際限なく階層序列化されていく社会的過程を論じる。それは『汎優生主義』という新たな社会的過程である」。永澤は汎優生主義について、「無意識」をベースにした「無意識的信念」として説明している。


 例えば3つの質問、①これからは子どもの遺伝子を変えることができるかもしれないので難病などに罹らないようにできる、②さらに進めてカップルの希望に応じて子どもをつくる世界が来るかもしれない、③生みたい子どもだけを生むことができる(要約筆者)――に回答する際の「我々自身の無意識」が汎優生主義だと仮定する。


 3つの質問は基本的に「遺伝子の改変」が自由であるか、あるいはそれに対してフリーアクセスできるという前提がある。そこには「人の属性」がすでに序列化されているということを「無意識」に受け入れているという前提につながっている。なかなか厄介だが、「無意識」とか、「属性の序列化」などというと、それらはついに「常に存在する優生思想」というものに変わって見えてくる。


 例えば、ネガティブな人の属性(ネガティブと言った時点ですでに優生主義的な無意識が発生しているが)は、それが予防できない遺伝子改変的技術がまだ開発されていなくても、いつかは予防できるという序列化を先取りする。わかりやすく言えば、もう少し後に生まれて来れば何とかなったかもしれないといったような評価の生まれる余地といったようなもの。今一度、永澤論を引用する。


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現在、生活習慣病などに関わる遺伝子(肥満遺伝子など)に言及する言説が目立つ。ここで母体血清マーカーの遺伝子検査が、不特定多数を対象とする対象とするマススクリーニング方式として注目される。この検査により、あらゆる個人を遺伝的リスクにしたがって選別することが可能となる。

我々は個人、カップルの選択による遺伝性疾患の診断、治療、予防を推進する思想と実践の総体を『新優生主義』と呼ぶ。この『新優生主義』の潮流が、『汎優生主義』へと深化を遂げていくことになる。

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●社会的装置はDB化


 基本的には永澤論の主旨は、汎優生主義自体はイデオロギーであり、「信念」にすぎないが、それが競争社会の中でのランク付けされる価値基準として機能すれば、不良な遺伝子の除去や改変という強烈な結果を生む、ということである。その論にしたがって彼は、個別遺伝子のデータベース(DB)化が、汎優生主義に従った社会的装置になり得るだろうと予測している。彼の言うDBは、承認欲求につながる様々の装置の中核であり、嗜好までもを切り取る無意識の具体化と言った意味を持つ。


 永澤のこうした汎優生主義の概略に沿って展開される「リミット」論はそれぞれに示唆的ではあるが、医療という世界を対象にしてみると、エピローグで語られるQOLに関する考察が、私には強い関心を引いた。


 永澤は、遺伝性疾患の診断・検査、治療、予防を母体血中細胞や受精卵の段階で行うことは、問題のある者をリストから除外することにつながるとする。自己が無意識に問われ続ける「私は生存に値するか」あるいは、他者の誰かが「生存に値するか」、まさに汎優生主義の渦中で具体的に選択を迫られる話となる。その信念を一元的尺度として先取りしているのがQOLだという。


 現在時点で、「テクノロジーによるQOL向上は正当化できる」ということがその信念に置き換えられていると永澤は語り、遺伝子の改変によるQOLの向上が正当化できる限り、そのこと自体が無意識的信念の明示化だという。


●QOLに対する論点の違い


 QOLがいわば汎優生主義の証左、いわば具体的にすでに医療社会の中で、生きているという自覚は医療関係者にも患者にもないはずだが、実はそれが無意識としての信念を体言化しているとの指摘は重要だと思える。むろん、哲学者にとって基本論は哲学的言説に過ぎないかもれないが、現実的に医療行為や看護・介護の指標として使われているQOLは指摘されてみると、実はそうした優生主義的な論理に取り込まれやすいリスクもあるかもしれない、と思わされる。


 QOLに関して、医療者の立場からそうした優生主義的な匂いを感じ取っていると見られる主張を述べる本もある。


 國頭英夫の『誰も考えようとしなかった癌の医療経済』ではQOLについて、主観的評価に過ぎないということを基本として、「QOL指標は変則型の丁半ばくちで決められる。(中略)そもそもQOLは患者本人の主観的評価なのだから、気分の問題となっても仕方がない。(中略)慣れてしまえば客観的に何の改善がなくてもQOLは上がる」という。この筆者は客観的だと思われているQOL評価が、実は主観的であることを主張しているが、その根底に「生存する価値があるかどうか」の無意識的差別感からみれば、患者の主観が客観にすり替わるロジックを見抜いているのではないかと思える。


 実際、その後の展開で國頭は、米国ではQOLをもとに治療の優先順位を決めるべきではないというのが大方のコンセンサスであり、身障者の人たちが差別されるという懸念はもっともだと判じたうえで、「QOLは人間の価値とは無関係」だと言い切っている。國頭は、QOLをベースとする治療評価指標QALYにも強い疑問を呈し、「1人1QALY」の価値はみな同じなのかとも発している。20歳の若者も、80歳の高齢者も1年の価値は同じなのかと問う。


 そうすると、ここでは汎優生主義の象徴としてのQOL批判とはかなり様相の違った「差別」の構造があぶり出されてくる。1QALY批判は、医療現場での「年齢差別」を肯定する論拠となる。年齢によって「生存する値」を無意識に感じる優生主義的な色合いは許容されるのだろうかという問いが現れるのだ。「質調整生存年」つまりQALYの指標は、汎優生主義批判の立場からも、医療経済的側面でも批判は避けられない。


 つまり、優生主義は総体的には許容しにくいものだが、「いつまで生きるか」という問いには絶対的ではないという側面を私たちは読書によって知る。(幸)