●「リベラル優生主義」とは何か


 これまでの医療倫理に関するシリーズでは、基本的に優生主義はネガティブなものであり、否定されるべきだというスタンスを取り続けてきた。「不幸な子どもの生まれない運動」といった主張に象徴される本質的な差別感情が、医療技術、とくに生殖医療の進歩で変形し、正義の仮面を被ることが多くなったこと、そしてそれが実に巧妙に社会の中で常識化し、同調圧力を与えることになってきたことを私は実感する。


 一方で、私は、こうした考え方が、自分も含めて優生主義を嫌悪する人々には、原理主義的な装いもまとっているのではないかとの疑いも持っている。反優生主義はすべて正義なのか。


 現実に硬直した、あるいは原理主義化した動きを抑制するように、ある種、部分改変的に修正する思想も2000年を超えてから顕著になり始めている。そのひとつが「リベラル優生主義」ではないかと思う。リベラル優生主義とは何か。ここでは複数回にわたって、法哲学者の桜井徹の『リベラル優生主義と正義』(2007年刊)をテキストに、この新たな潮流をみていきたい。


 桜井はこの本の序章冒頭で、いきなり以下のような口上で語り出している。


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 親が自らの自発的選択により、遺伝子テクノロジーを用いて、生まれ来る自分の子どものためにその遺伝子を設計・操作することは果たして道徳的に許されないことであろうか。過去の優生思想が、20世紀前半に国家権力の主導によってなされた数多の残虐な人権蹂躙との結びつきのゆえに汚名を免れないとしたら、個人の選択によって追求される現代の新たな優生主義もまた、同じ暗い刻印を押されなければならないのであろうか。

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 実際、著者自身も語っているが、自由や平等、公正といったポジティブな印象の強い「リベラル」と、反知性的で差別的な「優生主義」とが合体したタイトルは、関心はひかれるものの、私は当初、少し身構える気持ちも与えられた。


●頑強に残る差別の構造


 前回、哲学者、永澤護の『汎優生主義のリミット』を読んだが、彼は自分が他人より生きるに値するかとの問いを前提に、その価値軸に沿って、「無意識の階層化が社会的過程」となっている状況を示している。この論は私には「常に存在する優生思想」というものに見える。そのことは前回でも書いたが、この優生主義が無意識化されて社会に存在するということの是非は消化された議論があるとは現状では言えないと思う。


 そこでみると「リベラル優生主義」は、実はそのこと自体を掬い取っているのではないか、という問われ方をしていると考えることもできる。


 ここで私は、優生主義、新優生主義、汎優生主義、そしてリベラル優生主義に関して自分なりの考え方を示してみたい。人種的差別、性差別、能力的差別、年齢差別などが差別の形態として、ある意味わかりやすい時代は理念的にはすでに過去のものだと言ってもいいのだが、現実にはどの差別も社会構造の中では頑強な岩盤が残っている。


 さらに、20世紀の後半には、こうした優生主義に根差すような差別が理念的には葬られたとしても、「不幸な子どもの生まれない運動」や、図らずもウーマンリブで露呈した性差別と身体障碍者差別との衝突、聴覚障碍者に対する報酬カット是認判決など、よくよく考えれば優生主義の理念的理解を超えてなお、親優生主義と呼ばれる数々の差別の構造が機能している。


 そして、汎優生主義とリベラル優生主義(根っ子はかなり近いと私は感じる)の台頭、その声出し根拠は「遺伝子技術」とその応用のひとつ「生殖医療」の選択の断面から生まれてきている。


 ただし、前回読んだ永瀬の本では、「現在、生活習慣病などに関わる遺伝子(肥満遺伝子など)」に言及する言説が目立つ。「ここで母体血清マーカーの遺伝子検査が、不特定多数を対象とする対象とするマススクリーニング方式として注目される。この検査により、あらゆる個人を遺伝的リスクに従って選別することが可能となる。


 我々は個人、カップルの選択による遺伝性疾患の診断、治療、予防を推進する思想と実践の総体を『新優生主義』と呼ぶ。この『新優生主義』の潮流が、『汎優生主義』へと深化を遂げていく」と述べており、新優生主義も遺伝的リスクによる選別だとしている。


「不幸な子どもの生まれない運動」はその根拠を見ていけば、永瀬の指摘どおりで、私の20世紀後半の話は、遺伝子技術の到来がそのベースとして存在していたのであって、少し割り切りすぎているかもしれない。


 しかし、私が主張したいのは「優生主義」は否定されるという前提は、理念だけでなく肌に沁みた常識として成立していなければならないということである。そして、人が生きる場所ではそこここでぶつかる理念と常識を乗り越えていく知恵を紡ぎ出す時代に入っているのだと思う。「リベラル優生主義」という言葉、ネーミングに感じる一種の危惧、リスクを私は軽視しない。


「いじめ」の実態はほとんど暴力なのだが、いじめという言葉で柔軟化される。「万引き」は「窃盗」なのに犯罪の匂いが消されている。そういった弱弱しいが、素人的な言葉の受け止めから私が「リベラル優生主義」を読む動機となったことは鮮明にしておきたい。


●優生主義は過去の暗さの遺物か


 リベラル優生主義の原理について、著者の桜井は、かつての優生主義が一元的だったが、今では「多元的」な優生主義が論じられているという。多元性があるということは「選択」があるということなのかもしれない。これからの世界では人生の選択は遺伝子技術も包含した多元性がある、ということだろうか。個人の選択、判断が優先されるということもリベラルのひとつであり、つまりは「リベラル」という言葉自体が多元的ニュアンスを肯定していることだろう。


 人生は健康でよりよいものでなければならない。出生前診断でその逆が想定されるなら、その選択は個人的判断に委ねてもいいのではないか、そうしたロジックが成立しているらしい世界に私たちは立っている、ようなのだ。


 桜井はエイガーやブキャナンらの論を借りながら、「善き生」という形が、新たな優生主義では理念となるとする。ナチスや20世紀の優性思想が「優れた人間」のみをめざしたのに対し、親が子どもに遺伝子治療や遺伝子操作による改良を求めるかどうかは、「原則として親の自発性に委ねられる」と。つまり、それぞれが思い描く「善き生」のために使われる生殖技術などを指すようにみえる。その個の判断まで優生主義否定のへの正義や原理によって葬られてもよいのか、という問いはなかなかな説得力であり、私は思わず立ち止まってしまった。


 つまり出生は、「偶然」から「選択」の世界に入り、多元主義的価値観をどのように規制するのか、しないのかという世界に私たちは入り込んだと考えてよさそうなのだ。


 さらに、治療と改良というテーマも同書序章には示される。遺伝子工学による老化のコントロールは「治療」なのか「改良」なのか、現在はその境目が混沌としてきた。若返りに関する技術による補正、ないしは修正は高齢によってもたらされる疾病の進行を遅らせ、効果的に制圧できるかもしれない。


 この本の著者は、「リベラル優生主義の理論的意義は、単に優生主義が抱える過去の暗い歴史との連想によって決定されるべきではなく、それ自身のメリットとデメリットに基づいて評価され、批判されるべきである」と語る。そして、個々の遺伝子操作技術が進められるべきか否かは公共的に決定されなければならないとしている。実際、そういうことは可能なのだろうか。その技術がめざしていることそのものが、優生主義的な動機から出発しているという危惧はないのだろうか。(幸)