(1)葛の葉(くずのは)
安倍晴明(921~1005)は平安時代の陰陽師である。晩年は、当時の陰陽師のナンバー1になったが、彼の子孫はパッとしなかったので、安倍晴明の存在自体忘れ去られようとしていた。ところが、数百年後、ものすごい超能力者として復活していった。最も有名なのが、安倍晴明の出生物語です。彼の母の名前は「葛の葉」で、実は、キツネであった。この物語は、江戸時代には歌舞伎や人形浄瑠璃にもなり、非常に多くのバリエーションがあるので、私流に要約します。
村上天皇(第62代、在位946~967)の時代のことである。
河内国の石川悪右衛門は、妻の病気を治すため、兄の陰陽師・蘆屋道満(あしや・どうまん)に占ってもらった。その回答は、和泉国の信太(しのだ)の森(現在の大阪府和泉市)に住む野狐の肝を必要とする、というものであった。そして、悪右衛門は狐狩りに向かった。
摂津国安倍野(現在の大阪市阿部野区)に住む安倍保名(やすな)が信太明神にお参りに行った。そこで、悪右衛門の狩人集団が狐を追いつめている現場に遭遇した。安倍保名は、その狐を助けたが、保名自身が深手を負って悪右衛門に殺されそうになった。
そこに、悪右衛門が檀家をしている和尚が登場して、「殺生はよろしくない」と諭し、保名を助ける。実は、この和尚は狐が化けたものであった。
ある日、保名のもとへ女性が訪れて、一緒に暮らすようになる。2人は結婚して、子をもうける。名を「童子丸」という。
童子丸が7歳のとき、安倍保名は、妻の正体が信太の森で助けた狐であることを知ってしまった。妻は、「稲荷大明神の仰せで、人の姿となり子をもうけました」と告白した。そして、次の和歌を残して去っていった。
恋しくば 尋ね来て見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉
「うらみ」の意味は、「恨む」という意味もありますが、「心残り」「悲しみ」「嘆き」の意味もあります。また、葛の別名は「裏見草」(うらみくさ)です。葛の葉の裏側は白い毛のため白く見えます。葉が大きいので風が吹くと白い裏側が見えます。つまり、「裏側が見える草」という意味です。和歌の「うらみ」は、「裏見」と「恨み」が掛詞になっています。むろん、「恨まないで」という意味を暗示しています。
童子丸は母を追いかけますが、母は狐の姿になって、去っていった。
安倍保名と童子丸は、信太の森へ出かけます。妻が現れ、黄金の箱と水晶の玉を受け取り、別れます。
安倍保名は、悪右衛門と蘆屋道満のため非道にも殺されてしまう。
童子丸が安倍晴明です。安倍晴明は、母から頂いた遺宝で、天皇の病気を治し、陰陽頭となる。さらに、蘆屋道満との占い勝負に勝ち、悪右衛門・蘆屋道満の悪事を暴き敵討ちを果たします。そして、安倍晴明は天文博士となりました。
この物語は、室町時代に生み出されたもので、『鶴女房』『鶴の恩返し』をヒントに創作されたものと推測されています。そして、この物語は大ヒットし、とりわけ、「恋しくば~」の和歌は超有名になりました。この物語の誕生・大ヒットの社会的背景は、いろいろ解説されています。
下級芸能者は「賤民」とされていたが、本能的に「賤民」からの脱出を思っていたのだろう。幸福な結婚をしても素性がバレて離婚せざるを得ないという不条理に異議を忍ばせているのです。また、下級芸能人の中には声聞師(しょうもじ)、いわば呪術的要素を有する雑芸人が存在し、彼等は平安時代の陰陽師の流れをくむと自称していた。これも、自分たちは、「賤民ではない」との主張であろう。
そうした漠然とした社会的背景よりも、現実問題として、お互いが惚れ合っても、素性・身分の差別で結婚できない、結婚しても素性・身分が発覚して別れなければならない、ということが身近に多くあった。別れても、「恋しくば~」の歌に涙を流したのです。
蘆屋道満に関して一言。通常は、道摩法師と言います。まんざら架空の人物ではなく、安倍晴明と同時期、「非官人の陰陽師」として活躍していたようだ。「葛の葉」物語だけでなく、安倍晴明のいろいろな物語で悪役として登場している。不思議なことに、蘆屋道満(=道摩法師)は、各地で拝まれているようだ。蘆屋道満は安倍晴明の超能力よりはやや劣るが、ナンバー2超能力者と意識されていたのだろうか……。
どうも、かなり深い意味がありそうなのです。記号で「セーマン」と「ドーマン」があります。「セーマン」は、星型正五角形で、世界的に魔除けとして流行っています。一筆書きで書きます。五芒星ともいわれます。「セ―マン」の記号は、「安倍晴明判紋」と同じです。「せいめい紋」→「セーめいもん」→「セーマン」ということらしい。
「ドーマン」は「道満」です。記号は、格子状の九字紋です。日本独自です。横に5線、縦に4線です。忍術では、両手なり片手で空中に九字を切ります。九字は、流派によって異なりますが、「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」が最も流行っています。主に、密教から出発したと思われますが、民間では「九字を切る」という魔除け手法が普及しました。最近では、アニメの影響ですが、素人が「九字を切る」ことをするそうです。そもそも秘法なので、素人がアニメの真似をするのは、いかがなものでしょうか……。
「セーマン」と「ドーマン」は、本来別々のものでしょうが、なぜか「セーマンドーマン」と合体して使用されることがあります。海女は「セーマンドーマン」を水中衣服・道具など至るところに描きました。
余談ですが、葛(くず)について。万葉集にも多く読まれています。万葉歌人の山上憶良は「秋の七草」として詠みました。さらに、能の大ヒット作品『定家』でも、葛が主役です。藤原定家については、「昔人の物語(102)」を参照ください。
葛は、つる性の多年草で、つるは巻きつく性質を持っています。花は、夏から秋に咲きます。
葛は食用にも薬用にもなります。とりわけ、根は、デンプンを取り出した「葛粉」として活用され、あるいは、根を乾燥させて生薬「葛根」(かっこん)として風邪の初期に用いられる「葛根湯」の原料となります。
葛のつるは、繊維の原料となり、古代から江戸時代に至るまで衣服の原料になった。また、壁紙の原料にもなった。さらに、籠の材料ともなった。現代では、民芸品で若干使用されているだけです。
葛は、美しいだけでなく、捨てるところがない有用植物でした。
「恋しくば~」の和歌で、「葛」が出てくれば、聞く者は、美しい、有用、そして、「からみつく、抱き合う」というエロテックな想像をします。「葛の葉」は理想的な女性のイメージをもたらします。
(2)一条戻橋伝説
安倍晴明の伝説では、一条戻橋伝説も有名です。
平安京の内裏から右(西側)を右京と言う。京の北から東西の道路が一条大路、二条大路……八条大路、九条大路となる。一条戻橋は、一条大路と南北に流れる堀川にかかる橋である。左京(内裏から見て左。地図では東側)にあり。内裏の東方向にある。平安時代中期には、右京は寂れて荒地化しましたが、一条戻橋の周辺(左京の北部)は、通常の地域です。
「戻橋」の不思議話は、『撰集抄』の話が最初です。この橋のところで死人が生き返った、あの世からこの世に「戻った」ということです。以来、この橋は、パワースポットになり、不思議話が続々生まれました。『撰集抄』は鎌倉時代初期の作者不詳の仏教説話集です。
『源平盛衰記』は、『平家物語』を大幅に脚色したもので、史料価値は薄いが面白いお話がドッサリです。その『源平盛衰記』第十巻に安倍晴明が出てきます。次は、その要約です。
高倉天皇(第80代、在位1168~1180)の中宮・建礼門院が出産の時、二位殿(建礼門院の母)は、お産が順調でないのを心配して、一条堀河戻橋の東に牛車を止めて、橋占いをした。そしたら、14~15歳の童(わらべ)が12人、西から東へ走りながら、手を打って、声を揃えて、「榻(しじ、牛車の道具)は国王榻、八重の塩路の波の寄榻」と、4~5回歌って橋を渡り、東へ向かって飛ぶように消え去った。
二位殿は帰って、時忠大納言に、何の意味か尋ねた。時忠大納言は「波の寄榻が何のことかわかりませんが、国王榻となれば、生まれる子は王子でございます。まことに、目出度き御占いでございます」と答えた。安徳天皇は8歳にして壇ノ浦の海に沈み給ひたので、「八重の塩路の波の寄榻」とは、そのことでした。
一条戻橋について。昔、安倍晴明が天文の淵源を極めて、十二神将を使っていた。しかし、安倍晴明の妻が十二神将の顔を怖がったので、一条戻橋の下に十二神将を隠し置いた。そして、必要なときだけ、召し使った。こうして、吉凶の橋占いをすると、必ず、式神が人の口に移って善悪を示すという。12人の童とは、安倍晴明が隠した十二神将の化現である。
妻が「十二神将の顔が怖い」について。通常、薬師如来を守護するのが十二神将です。奈良の新薬師寺の十二神将の像を見ると、間違いなく憤怒の形相です。ただし、この十二神将は、薬師如来の守護者なので、安倍晴明の子分になるわけがない。だから、安倍晴明の子分である十二神将とは、薬師如来の十二神将ではなく、それとはまったく別者で、「式神」と呼ばれるものです。安倍晴明たち陰陽師は、さかんに式神を使役する。普段は「式札」(しきふだ)という和紙の札ですが、呪文によって人や鳥獣に変身する。
一条戻橋の面白い伝説は他にもありますが、安倍晴明と関係がないので省略します。『源平盛衰記』は鎌倉時代の13世紀に書かれたものですから、その頃には、安倍晴明の超能力話が成立していたのでしょう。
安倍晴明の超能力話は他にも沢山ありますが、2つだけでお終いとします。私の個人的感想ですが、「葛の葉」物語が、一番いいお話です。昨今は、小説・ドラマ・アニメなどの人気キャラとして頻繁に登場しています。フィクション・空想物語でも、あんなにも頻繁に登場していると信じてしまう人が出てくるかもしれませんね。あくまでも、フィクションとして楽しんでください。
(3)陰陽師の仕事
894年、遣唐使廃止により、陰陽道も日本独自で歩まなければならなくなった。そして、まず、賀茂忠行(かものただゆき、?~969?)が、従来の陰陽道に、道教・密教・修験道などの呪術を大幅に取り入れ、天皇・公卿の支持を獲得し、陰陽寮の権限を掌握した。その方針は、息子の賀茂保憲(かものやすのり、917~977)に伝授された。賀茂保憲は陰陽道のうち、暦道を長男・賀茂光栄(みつよし、939~1015)に譲り、天文道を弟子の安倍晴明に譲った。かくして、2大陰陽宗家が生まれた。安倍晴明は、保憲の死後、トップに立つべく、なりふり構わず行動し、トップになった。
安倍晴明の死後は、陰陽道安倍家は内紛などでパッとしなくなり、陰陽道といえば賀茂家となった。それで、安倍家の子孫は安倍家挽回のため、初代・安倍晴明の大PR作戦をとった。その成果が、前述した、『源平盛衰記』であり、あるいは、『大鏡』『今昔物語』『宇治拾遺物語』『十訓抄』『古事談』に安倍晴明の超能力物語が登場するようになった。
それでは、安倍晴明の実像はどんなものだろうか? たぶん、そんなにビックリ面白い話はない、と思うのだが、調べてみました。
陰陽師は、官吏(公務員)の陰陽師と非官吏の陰陽師に分かれます。官吏陰陽師は陰陽寮という役所の官吏で数は少数です。非官吏陰陽師の数は不明ですがピンからキリまで相当数いたでしょう。
陰陽寮は、
統括部門として、陰陽頭(1人)及び陰陽助(1名)・陰陽允(1名)・陰陽大属(1名)・陰陽少属(1名)です。
陰陽部門として、陰陽師(6人)・陰陽博士(1人)です。
暦部門として、暦博士=暦の作成(1人)です。
天文部門として、天文博士=天体観測・気象観測(1人)です。
漏剋(ろうこく)部門として、漏剋博士(2人)です。漏剋とは水時計です。
以上の人数は、正規官吏数で、非正規の部下がそれぞれの部門に10~20人いたと思われます。
そして、注意してほしいのは、厳密に言えば、「陰陽師」は前述のように6人だけの役職名ですが、当時は、陰陽寮の正規・非正規の者、さらに、民間の者まで含めて陰陽師と言われていました。
それで、陰陽師は何をしていたのでしょうか。吉凶の「占い」です。その前提として、「凶日」があります。現代でも、「仏滅に葬式をしない」というわけですが、平安時代はやたらと「凶日」が多いのです。百鬼夜行日は、1月・2月は子(ね)の日で夜間外出は禁止です。ただし、特別の呪文を唱えながらであれば大丈夫ということです。
千忌日は鍼灸はダメ、下食日は入浴はダメ、狼藉日は仏事はダメ……、とにかく多く、毎日、なにかしらの「凶日」であった。その日の時刻でも良し悪しがあります。さらに、平安時代は方角の吉凶にもこだわっていた。複雑すぎるので、それらを管理するのが陰陽師の基礎任務である。
それに加えて、時々は、日時・方位に関係のない占いもあった。さらには、雨乞い等の呪術をした。物語では、陰陽師=呪術師となっていますが、それは話を面白くするためで、実際の仕事は、毎日の日時・方位の管理です。地味ですねぇ~。地味じゃ面白くないですねぇ~。
(4)安倍晴明は実際は何をしたか
921年、誕生。先祖は、あれやこれや諸説ある。生誕地も諸説ある。子供の頃、何をしていたかも不明。つまり、上級貴族(一位~三位)の出身ではない。
少し解説をします。
上級貴族(一位~三位)は、約30人です。中級貴族(四位・五位)は約900人です。
貴族とは律令では、五位以上を言いますが、「正六位上」は「貴族にとても近い」ということで、事実上、「下級貴族」と見なされた。下級貴族(正六位上)は約4000人です。位階の名称自体は、「正六位上」よりも下があるのですが、平安時代中期には誰にも付与されませんでした。
ということで、貴族総数が約5000人、その扶養家族が3人として、貴族は約2万人となります。日本の総人口は約700万人です。したがって、総人口の0.2~0.3%が貴族ということになります。
安倍晴明の最高位階は「従四位下」です。四位は4ランクあり、「正四位上」「正四位下」「従四位上」「従四位下」となっています。中級貴族は「四位・五位」ですから、「中級貴族の上」です。ヤマカンで、年収10億円というイメージです。
960年、内裏で火災。この火災で、霊剣2振が焼失。村上天皇は、陰陽師の賀茂保憲に複製を命じた。剣の複製ですから、剣そのものは鍛冶屋が造りますが、霊剣にするため鍛冶屋の傍らで陰陽師が呪文を唱えるわけです。このとき、安倍晴明は、まだ、「天文得業生」という学生であった。
967年、陰陽師に就任(47歳)。これ以前は、天文博士の指導を受ける学生「天文得業生」である。
972年、天文博士に就任(53歳)。
977年、賀茂保憲が死去。
986年、陰陽師の筆頭者(陰陽道第一者)となる(66歳)。
この頃、安倍晴明は、960年の霊剣2振の複製の件を、自分の手柄話としてさかんに吹聴する。村上天皇も賀茂保憲も関係者は全員死んでいる。嘘をついてもバレないと思っていたのだろう。実際、バレなかった。しかし、21世紀になってバレた。安倍晴明は自分の出世のため平然と嘘をつける人物なのです。
1004年6月20日、藤原道長の『御堂関白記』には、安倍晴明から「滅門日なので、仏像をつくるのはよろしくない」と忠告されたので、仏像つくりを止めた、と記されている。滅門日の詳細はわからないのですが、一家一門が滅ぶという「凶日」です。安倍晴明は独裁者・道長の身近にいて吉凶をアドバイスする地位にいたことがわかります。
1004年7月14日の『御堂関白記』には、安倍晴明は雨乞の呪術「五龍祭」で雨を降らせ、一条天皇から褒美をいただいたことが記されています。安倍晴明は間違いなく、トップ陰陽師になっていることがわかります。なお、雨乞の「五龍祭」は、平安時代、たびたび実施されており、安倍晴明の特別呪術ではありません。
安倍晴明が新規開発した呪術は、2つある。「反閇」(へんばい)と「泰山府君祭」という呪術である。「反閇」(へんばい)は、新居入居の際の儀礼呪術である。「泰山府君祭」は、延命益算・消災度厄の呪術である。新しい呪術なので、貴族の間で流行した。なお、泰山府君は中国の古代神で、仏教では閻魔大王です。
安倍晴明は晩年とはいえ、陰陽師のトップに立った。そして、そのトップの立場を確固たるものにして、自分の2人の息子に継承させたかったのだろう。
くどいようですが、安倍晴明の実像は、後世の人が作り上げた超能力者とは、まったく異なります。でも、フィクションの超能力者・安倍晴明の方が断然楽しいなぁ~。
1005年、死去(85歳)。間違いなく長寿です。当時の平均寿命は50~55歳です。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。