●掃き出される生はリベラルな優生主義
前回に続いて、法哲学者の桜井徹の『リベラル優生主義と正義』(2007年刊)をテキストに、優生思想に関する新たな潮流をみていく。
リベラル優生主義は、これまでの一元的な優生思想に対するネガティブな評価の「常識化」に一定の対立軸を目指すように私には見える。現状の生殖医療の急激で鋭角的な進歩に対して、「善い生」を子孫に伝えるためにそれを活用することが、「生命倫理」に反するのかという問いかけが大前提としてある。
「不幸な子どもの生まれない運動」という70年代の運動が、障害者側からの異議申し立てにあったことは歴史に示されているが、多元的に価値観を認め、「善い生」を「心身的」に求めることも否定されるべきなのかという問いが、「リベラル優生主義」サイドからは問われているということを確認することができる。
それは技術の革新が、実は優生主義から離れずに、「ネガティブな状態」そのものを掃き出してしまうという理念と、離れるわけにはいかないという宿命性を受け取ることができるのである。「善い生」を求めることが理想的であって何が悪いのか、と。
一方でこれまでの優性主義批判が一元的かという問いかけもあるかもしれない。19世紀から20世紀にかけてゴールトンらが、生物学的研究の成果として確立していった経緯、その後のナチの優生主義政策、日本における「優生保護法」という名の障害者差別、米国における人種差別政策の達成の難しさなど、優生主義的課題は実は物語だけ見れば多元的であり、実はその物語の中に包含されるさまざまな思想のグラデーションも複雑である。
しかし、リベラル優生主義側から示される一元性は、本質的に優生主義批判が圧倒的に正義によって語られるという原理主義のことだろうと見当はつく。生殖医療や健康寿命延伸などの技術は、それらが最初に基盤とした生物学から分かれ、工学的な進歩も背景にしている。いや、生物学的というよりその道具はAIに代表される数学的、物理学的進歩を背景とし、その進歩は実は人の「善い生」をもたらすための開発であり、研究であったことが広く市民に認知されるようになってきた。
それは現在だ。リベラル優生主義は、多元的に、例えば「生まれついての障害」を拒み、健康寿命を延ばして人々の生産性を確保するなどの「効用」さえ、反優生主義の立場から否定されるべきかという問いであり、これまでの優生主義とはまったく別の顔を持つ新たな「優生主義」というべきかもしれないのだ。桜井はこうした理念をまとめるように以下のように語っている。
リベラル優生主義の理論的意義は、単に優生主義が抱える過去の暗い歴史との連想によって決定されるべきではなく、それ自身の具体的なメリットとデメリットに基づいて評価され、批判されるべきである。そして、そのようにしてなされた評価に基づいて、生殖細胞系列への遺伝子操作技術の研究が推進されるべきか否かが、公共的に決定されなければならない。今後、遺伝子テクノロジーが人間の福利に与え得る影響力が甚大であるだけに、ますますそうである。
●擁護するのか制約するのか
桜井はこうした論考をしているが、正確にはリベラル優生主義の紹介者であって、優生主義に関する正否については判断を下していない。リベラル優生主義を擁護するのか、それとも制約するのか、そのどちらにも関心があるという研究者的スタンスについては明確に宣言している。その立場をここで確認しておこう。
私は、「生命の操作」、「生命の選別」、「神を演ずる」、「人間の尊厳」、そして「優生学」といったイメージを掻き立てやすいフレーズに訴えることによって、新たな生殖技術の反道徳性――規範からの逸脱――を暴くという議論の立て方には、以前から物足りなさを覚えていた。私はむしろ、新たな生殖技術の導入が倫理的に許容できないということを説得的に主張するためには、いかなる「害悪」がいかなる「利益」を凌駕するのかという点に関する合理的根拠を、もっと具体的に提示することが必要なのではないかと感じていた。
本質的には桜井も同書で語っているが、科学自体が優生学的かそうでないかを決定するわけではない。人間の「善い生」を目的にした科学をどのように評価し、実用するかは国の意思決定機関、つまり国民が決めることであり、それが政策的にレビューされる段階で反道徳的か、優生主義的か、多元的な評価が可能かを議論し、判定することができる。
●置き去りされる「定性的理解」
私は、こうしたリベラル優生主義をみていくなかで、やはり政策評価の段階での議論が大事なのではないかと考える。哲学者の資料渉猟的な立脚点は私にはないが、技術の革新が社会に適用されるなかで、反道徳的か優生主義的かの判断は、過去に起こった差別的な事例の検証を通じた総合的な解釈と了解点を探り出すこと、それを踏まえて、現在から将来のメリット、デメリットの網羅的な点検が要るのだと思う。
それでも、いかなる害悪がいかなる利益を超えるか、という点では、私にはリベラルな優生主義というものに肯定的でいることができない。それ以前の課題が山積する。
端的に言えば、人間の行動や行為に関する社会的規範はいまだに創られている途上である。その象徴とも言えるのが、パターナリズムとあらゆる差別の温存と構造化、そしてそれが岩盤化している世界の中で、優生主義をリベラルに評価する基盤があると言えるだろうか。端的に、世界で現在起こっている原理主義的な思想を背景にした「戦争」「紛争」というものが、背後に家父長的な道徳観を背負っていることは誰の目にも明らかだ。
加えて、優生主義の基本は「みんな同じ」という定量的な尺度が使えるが、それを否定することは「定性的」な理解を求めることである。技術開発によって、多元的に優生主義を捉え直すというのは、もともと多元的であった「定性」に対する豊かな想像力と本質的な理解を必要とする。
『心的外傷と回復』を書いた精神科医のジュディス・ハーマンは、トラウマを与える、与えられる背景――戦争、レイプ、近親姦、児童虐待――には暴力が不可避的に介在することにもっと強い関心を求めている。それは、優生主義的な問題とは一線を画すが、しかしながら弱者を差別的に暴力で従わせる、貶める、傷つけるという意味では、優生学的なアプローチで論じられてもいい濃厚な関係性がある。しばしば優生学的な政策が暴力(戦争)と結びつくことで、それは説明できると思う。
ハーマンは、「青年が戦争の被害者となることに異議を唱える、女性と小児を見下し、男性に服従して当然とする見解に反対する流れの中で、心的外傷の体系的・組織的研究ははじめて正しいとされるようになる」と主張している。きわめて政治的であり、イデオロギーそのものであり、フェミニズムがハーマンの圧倒的な論考の基礎になっている。言うまでもなく、それは優生主義を源としている、人間社会の実相でもある。
男性優位社会をそのままにして、「善い生」のための多元的な優生主義のありように対する理解が必要なのだろうかと思う。生産性を理由にした男性優位の優性主義は、中国の一人っ子政策の歪な結果をもたらしている。「善い生」は、「掃き出される生」の問題を解決していると言えるのだろうか。一人っ子政策ではほとんどが女の子に「掃き出された生」を強いた。(幸)