年初ということもあり「未来の医療を考えるネタ集めに」と、手に取ったのが『希望の分子生物学』。分子生物学とは、〈分子生物学はDNA、RNA、タンパク質などの分子が生命現象にどのように関与しているかを明らかにすることを目的とする領域〉だ。ベストセラーとなった福岡伸一氏の著書、『生物と無生物のあいだ』あたりから、一般にも耳にするようになってきた。


 本書は序盤の第1章~第2章で生物学の基礎や歴史的な発明や発見を解説している。新書らしく平易に書かれていて、「生物学の基本から学びたい」という読者に優しいつくりだ。中盤以降は近年~将来の動向を記したうえで、分子生物学の発展が描く地球環境や食料、医療の未来予想図を論じている。


 これからの医療・医薬の発展との関連が特に大きいのは、〈第3章 ここまで来た驚異の21世紀生物学〉と〈第6章 創薬や治療法の未来〉。なかでも注目したのは、従来の医療を大きく変える可能性がある幹細胞関連と、画期的新薬の主戦場となっているバイオ医薬品関連の情報だ。


 幹細胞関連では、iPS細胞やES細胞は広く知られているが、UC-MSC(臍帯間葉系幹細胞)と呼ばれる幹細胞も注目されている。


 臍帯(さいたい)とは要は「へその緒」だが、ここには幹細胞が豊富に含まれていて、UC-MSCは採取にあたっての倫理的な問題がない(ここは大きい)うえ、〈免疫系の攻撃対象になりづらいこともわかっています〉という。


 幹細胞関連の技術が実用化の段階に入れば、幹細胞関連の治療を行うクリニックや関連サービスを提供する企業など、新しい産業や雇用を生み出す部分でも期待ができそうだ。


 バイオ医薬品関連では、コロナ禍でmRNAワクチンの実用化が一気に前倒しされた印象だが、この分野に関して注目したのは〈ナノボディ〉。すでに〈ラクダ科の動物が持つ特殊な構造の抗体が医療や科学研究において重要なツールとして利用され始めています〉という。


 詳しくは本書を参照していただきたいが(図解がわかりやすい)、抗原結合領域が小さくまとまっていて、〈安定性が高く〉、〈伝統的な抗体がアクセスできない領域にまで届く〉。また一種類のタンパク質だけで構成されるため、〈人為的な構造予測が従来の抗体よりもはるかに容易〉といいことずくめだ。大きく育った抗体関連の医療の進化は続く。


■進化するドラッグデリバリー


 薬関連では、狙った標的に着実に薬を届けるドラッグデリバリーの新技術も紹介されている。抗体医薬品をはじめ特定の場所に届く薬といえば、「注射」をイメージしていたが、「エクソソーム」と呼ばれる袋状の構造体は、〈特殊な処理を加えることによって口から摂取することが有効になるという報告もあります〉。精度や有効性の向上もさることながら、患者の負担を下げるという意味でも変化がありそうだ。


 昨年大ブレイクした生成AIの影響で、注目度が急上昇したAIは、創薬でもさまざまな分野で活用が始まっている。標的分子の特定、ターゲットに作用する化合物の予測といったところはしばしば語られるところだが、本書では臨床試験のデザイン、上市後の安全性の評価など、もっと広範囲でAIが使われることを予見している。将来的には費用対効果など、医療経済分野での活用も現実味を帯びてくるのかもしれない。


 新しい技術の社会実装までの時間軸は気になるところだが、一方で費用面はどうなっていくのだろうか?という疑念がわいた。昨今登場するバイオ医薬品は、少し前の世代とは別次元の価格帯になっていて医療費を高騰させている。


 本書に、ヒトゲノムの読み取りに要した費用が、1990年代初頭の見積もり数兆円→2003年の完了時のコストは約4000億円→2010年頃に1億円程度、〈間もなく10万円を下回ろうとする勢い〉と劇的に低下した模様がつづられている。新しい医療技術についても同様の「超価格破壊」を期待したいところだ。


 もうひとつ、気になったのは倫理面。現状では〈遺伝子編集の使用、プライバシー、バイオセキュリティ、環境への影響など、生物学が導く未来の世界を考える上で重要なトピックに関する公開議論〉や法律などの規制が、科学技術の進歩に追い付いていない。


 なお、本書には医療・医薬以外にも、分子生物学が食品や地球環境へ貢献する項目についても言及している。本書を読めば、昨今さけては通れなくなったSDGs(持続可能な開発目標)の目標の多くは、分子生物学と関係していることがよくわかる。社会課題を考えるうえでの「頭の体操」として読むのもおススメだ。

 

 細胞が適切に機能したり分裂したりする能力を失うことを〈セネセンス〉と呼ぶらしい。加齢のせいか、体力の低下とともに脳細胞のセネセンスを感じる場面も増えてきた。本書に〈神経ネットワークの一部を元通りにすることはほぼ不可能〉という悲しい現実を突きつけられたが、失われつつある細胞をフル活用して、今年は「働かないオジサン」「使えないおっさん」呼ばれないよう、何とか抗いたいものである。(鎌)


<書籍データ>

希望の分子生物学

黒田裕樹著(NHK出版新書1,023円)