(1)万葉集
『万葉集』の最初の歌は雄略天皇(第21代、5世紀末在位)のガールハントの長歌です。長歌の形式は、「五七、五七、五七(3回以上五七が続く)……五七、七(最後は七)」となっています。ただし、長歌は字余り・字足らずが多いようです。
籠(こ)もよ み籠(こ)持ち
掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち
この岡に 菜(な)摘(つ)ます児(こ)
家(いへ)告(の)らせ 名(な)告(の)らさね
そらみつ 大和(やまと)の国は
おしなべて 我(われ)こそ居(い)れ
しきなべて 我こそ居(い)ませ
我こそば 告(の)らめ 家をも名をも
(『万葉集』巻1-1)
(訳)籠(かご)よ、きれいな籠を持ち、へらよ、きれいなへらを持ち、この岡で若菜を摘む娘さん。あなたの家を告げてよ、名を告げてよ。
そらみつ(大和にかかる言葉)大和の国は、すべて我が治めている。すみずみまで我が治めている。我に、告げてくれよね、家も名も。
『万葉集』は8世紀後半(奈良時代)に編集されました。当時は、雄略天皇は、日本を統一した特別偉大な天皇と意識されていました。偉大な天皇のガールハントの歌が巻頭の歌とは、みんな、「♬恋をしましょう~、恋をして~♬」、なんて、大らかなんでしょう。
後述します『日本霊異記』でも第1話に「雷をも支配する偉大な天皇」として登場します。
さて、学術的に「雄略天皇は特別偉大な天皇だったのか」に関しては、どうなんでしょうか。簡単に古代史をまとめてみます。日本では、㋐考古学アプローチ、㋑『日本書紀』『古事記』アプローチの2つがあります。戦前までは、『記紀』アプローチでしたが、戦後は考古学アプローチに転換しました。以下は考古学アプローチの大筋です。
➀部族共同体・部族連合
縄文時代は、約2万年前から紀元前10世紀までのようです。狩猟採集を基本としつつも植物の半栽培が行われた。定住で、約50人が1ヵ所に暮らしていた。経験豊富な年長者がリーダーとなります。縄文時代晩期になると、青森県の三内丸山遺跡のように、数百人規模(最大500人)の遺跡も発見されました。集団規模が大きくなれば、単に経験豊富なリーダーではなく、集団を統率する能力を有するリーダーが生まれます。そして、呪術能力が優れているリーダーも生まれます。
②首長制共同体・首長制連合
弥生時代は、紀元前10世紀から紀元後3世紀で、食料生産の本格化から前方後円墳の出現までの時代です。食料生産の中心は水田稲作です。水田開発・収穫・備蓄・分配などで「集団統率型リーダー」が必要です。また、天候予測・雨乞などから「呪術型リーダー」も必要です。弥生時代では、数百人~数千人規模の共同体へと発展しましたから、2種類の共同体リーダーは、大きな力を有します。共同体を運営するため指導管理センターが組織されます。指導管理センターの任務にあたる人(首長)は、一般人よりは上位の人と認識されます。
③初期国家・初期国家連合
3世紀後半から7世紀までを古墳時代と言います。7世紀は飛鳥時代とも称します。税・役人・法などが存在するようになります。当然ながら、首長制共同体と初期国家の区別は、算数と違ってスッキリしません。曖昧グレーです。例えば、『漢書』地理志(1世紀に書かれた)に「楽浪海中に倭人あり。分れて百余国をなす。歳時を以って来たり献見すと云う」とあります。「百余国」と「国」と書かれていますが、その実態は「首長制共同体」なのか「初期国家」なのか、ぼんやりしています。そもそも、国の定義、国のイメージが、曖昧グレーなので、仕方がありません。そうしたグレーの時代が数百年経過したと推測します。
日本列島には、各地に、首長制共同体あるいは初期国家が生まれました。紀元前には、その数は「百余国」もありましたが、徐々に、連合していきます。あまり流行っていませんが、「古代4大王国」なる用語があります。出雲、大和、筑紫(北九州)、吉備(岡山)の4つです。それ以外にも、越、丹波、阿波・讃岐、日向、熊襲、尾張、飛騨高山・関東にも有力な首長制共同体≒初期国家が存在した可能性はあります。
3世紀中葉に、卑弥呼が登場します。彼女の「邪馬台国」が、首長制共同体なのか初期国家なのか、「初期国家」の定義によって、どちらとも言えると思います。卑弥呼の死後、倭国はバラバラの内乱状態になりますから、邪馬台国は「首長制共同体が濃厚な初期国家」だったのでしょう。
ちなみに、卑弥呼の時代を強引に『記紀』に当てはめますと、崇神天皇(第10代)の時代となり、卑弥呼は百襲姫(ももそひめ)になります。百襲姫の墓は、「箸墓古墳」と言われ、巨大な前方後円墳(日本最古)です。「箸墓古墳」を脳裏に浮かべると、強力な権力を有する初期国家の感じを持ちます。
むろん、首長制共同体≒初期国家は、連合が拡大したり、分裂したり、いろいろあったと思います。
言葉を「有力豪族」と言い換えてもよいかも知れません。ぼんやりと、「有力豪族連合」≒「首長制共同体」≒「初期国家」というイメージです。
そうしたなか、4世紀終盤には、かなり整った初期国家が出現したようです。『記紀』では、応神天皇(第15代)の時代です。次の4つが特徴と言えます。
➀「箸墓古墳」(276m)をはるかに凌駕する巨大前方後円墳が出現した。ナンバー1の仁徳天皇陵(525m)、ナンバー2の応神天皇陵(425m)である。
②大土木工事の活発化などがなされた。
③朝鮮半島との交流が活発化(応神の時、高句麗に大敗し、出兵を終結)。
④中国との交流活発化、「倭の五王」の時代が始まる。
しかし、4世紀終盤では、まだまだ、有力豪族の連合という感じが濃厚だったと思われます。それを打破、つまり、有力豪族を力づくで屈服させたのが、雄略天皇であると考えられます。つまり、日本史上、初めて天皇への権力集中を実現したのが雄略天皇で、後世、それが記憶されたのだ。それが、「雄略天皇は特別偉大な天皇だった」の意味と思います。
ただし、雄略の死後、歴代天皇は滅茶滅茶状態となり、弱体化した豪族は、再び強力になった。でも、最初の強力な天皇という記憶は鮮明に残ったのです。『記紀』では、偉大な天皇として崇神・応神・仁徳などがいますが、古代の人にとっても、それらは「お話」だったのでしょう。
(2)日本霊異記
『日本霊異記』は、平安時代初期に書かれた日本初の説話集で、基本的には仏教普及のための善因善果・悪因悪果の説話です。著者の景戒(生没不詳)は行基の弟子です。『日本霊異記』は、上巻35話、中巻42話、下巻39巻の計116話で、その上巻第1話は「雷を捉(とら)へし縁」で、雄略天皇にまつわる話です。第1話の冒頭が雄略天皇と后のセックス・シーンでありまして、読者・話の聴衆の関心を引き付ける仕掛けとなっています。次のような話です。『日本書紀』にも似た話があります。
少子部(ちいさこべ)の栖軽(すがる)は、泊瀬(はつせ、奈良県桜井市初瀬あたり、三輪山の麓)にあった朝倉の宮において雄略天皇に23年間、側近として仕えた。天皇が磐余の宮(いはれ、桜井市中部から橿原市南東部、雄略天皇の別宮)に住んでいた時、天皇と后が大安殿にて婚合(こんごう、男女の交合)している時、栖軽(すがる)は知らずに入ってしまった。天皇は恥じて、婚合を止めた。
ちょうどその時、雷が鳴った。
天皇はセックス・シーンを見られて本能的に「照れくさい」と思ったのでしょう。それを覆い隠すため、栖軽(すがる)に、「おまえは、雷を呼んで来れるか」と腹いせのように難題を浴びせた。
若干の解説。少子部は、小子部とも書かれる。『日本書紀』の「雄略天皇即位6年」に、少子部(=小子部)のことが書いてあります。天皇は、后に桑の葉を摘ませて養蚕を進めようとした。そこで、天皇は栖軽に、蚕を集めるよう命じた。ところが、栖軽は間違えて、嬰児を集めて天皇に献上した。天皇は大笑いして、嬰児を栖軽に与えて「お前が育てろ」と命じられた。それで、栖軽は少子部を名のることになった。
古代に限らず、つい最近まで、人と動物・物体・物理現象の境界は曖昧でした。狐が人になったり、光が人になったり、「擬人化」は頻繁に発生していた。江戸時代初期の画家・俵屋宗達の風神雷神図でも「雷=鬼人」であった。したがって、古代では「雷=鬼人」と思っていても不思議ではない。天皇も栖軽も、雷が鳴ったから、音の方向を探せば、「雷=鬼人」を発見できると、半ば信じていたのだろう。
「日本霊異記」の話に戻ります。
天皇から、「雷を呼んで来れるか」と問われたので、栖軽は「できます」と応えました。天皇は「今から、雷をお迎えしてこい」と命じられました。
栖軽は、赤いかつらをつけ、赤い旗をつけた鉾を持って、馬に乗り、雷が落ちた方向へ走った。雷が落ちたであろう地域に着くと、栖軽は叫んだ。
「天の鳴神よ、天皇からのお呼びであるぞ」
「たとえ雷神であっても、天皇のお呼びを拒否できるものではない」
馬を走らせながら、叫び続けていると、雷が転がっていた。
栖軽は、雷を輿(こし)に乗せて、宮殿に運び、天皇に「雷神を連れて参りました」と申し上げた。
そのとき、連れてきた雷は、一瞬光輝いた。
天皇は、それを見て恐れた。それで、雷を元の場所に返して、沢山の御供え物を捧げた。
数年後、栖軽が亡くなった。天皇は栖軽の無理難題も実行する忠誠心を思い出し、雷を置いた場所を栖軽の墓とした。そこに、「雷を捕らえた栖軽の墓」と書いた碑文を立てた。
その碑文を読んだ雷は、むらむらと憎悪がわき、雷鳴とともに碑文の柱を蹴飛ばした。ところが、雷は柱の裂け目に、挟まって動けなくなってしまった。
天皇は、雷の乱暴を許し、裂け目から助け出し、雷は死を免れた。雷は、七日七夜、放心状態で、その地に留まった。
天皇は、新しい碑文の柱を立てた。碑文は「生きている時だけでなく、死んでからも雷を捕らえた栖軽の墓」と書かれた。
その地が雷の岡と呼ばれるのは、そんなわけである。
この説話から、さまざまなことを汲み取るのですが、「雄略天皇は、雷神をも支配するスゴイ天皇ですよ」ということです。
『日本書紀』には、雄略天皇と雷に関して、まったく別の話が記載されています。
雄略天皇即位7年、天皇は少子部栖軽に言いました。
「朕は、三輪山の神を見たい」
※三輪山は奈良盆地南東にある山で、山そのものがご神体であり、大物主大神が鎮座する神の山である。天武天皇(第40代、在位673~686)が、強力に「天皇⇄天照大神⇄伊勢神宮」のイデオロギーを普及させるまでは、天皇及びその周辺では「三輪山⇄大物主大神」が信仰されていました。そして、『記紀』の他の箇所では、「三輪山⇄大物主大神」は蛇の姿で現れている。
「おまえ(栖軽)の筋力は人並み以上にすごい。おまえが行って捉えてこい」
栖軽は「試しに行って捉えてきましょう」と言った。
栖軽はすぐに三輪山へ登って大蛇を捉えて、天皇に見せました。
天皇は斎戒をしませんでした。斎戒とは、神仏関係のことをする前に心身のけがれを取り除き、心身を清めることです。そのため、大蛇の目は雷のように光輝いた。天皇は恐れ慄いて、自分の目を覆い大蛇を見ずに、宮中に入って隠れました。その大蛇は岡に放たれました。その大蛇に「雷」という名が賜われました。
『日本霊異記』では、雄略天皇は雷を支配するのですが、『日本書紀』では雷を恐れおののきます。なんとなく180度異なる話となっている感じです。考えてみますと、『日本書紀』の雷は、普通の雷ではなく、「三輪山⇄大物主大神⇄大蛇」です。お気軽に「神の姿を見たい」などと神を軽視してはいけませんよ、というお話と思います。それが、伝言ゲームのようになって『日本霊異記』になったのではないでしょうか……。
(3)允恭天皇の皇子・皇女
雄略天皇は允恭天皇(第19代)の第5皇子です。
允恭天皇は、皇子5人と皇女4人をもうけた。
第1皇子は木梨軽皇子で皇太子であったが、第3皇子との皇位継承争いが絡んだ衣通姫(そとおりひめ)との古代史最高の悲恋物語の末、自害した。
第2皇子の境黒彦皇子は、眉輪王(まよわ・の・おおきみ)の変に絡んで、雄略天皇に殺された。
第3皇子の穴穂皇子は、父・允恭天皇の死後、安康天皇(第20代)となる。眉輪王に暗殺される。
第4皇子の八釣白彦皇子も、眉輪王の変に絡んで、雄略天皇に殺された。
第5皇子の大泊瀬稚武皇子が、雄略天皇となる。
4人の皇女の中で、第2皇女は衣通姫として有名であるが、他の3人の皇女は記すべきことはありません。
允恭天皇没後の血みどろのゴタゴタの最初は、衣通姫悲恋物語です。これには、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)は関係していません。
允恭天皇が死去すると、第1皇子の木梨軽皇子(皇太子)と第3皇子の穴穂皇子の間で、皇位継承をめぐって抗争となりました。この抗争には、衣通姫悲恋物語がベースにあります。この悲恋物語に関しては、『昔人の物語』(19)をご参照ください。抗争に敗北した第1皇子・木梨軽皇子は自害し、第3皇子・穴穂皇子が安康天皇となった。
(4)ライバルを皆殺しにして天皇となる
➀大泊瀬皇子(後の雄略天皇)は、安康天皇に申しました。
「自分の妻に、反正天皇(第18代)の皇女たちを与えてほしい」
ところが、皇女たちは、「大泊瀬皇子は乱暴者で怖い。怒ると、朝には生きている人は夕方には殺されてしまう。夕方には生きている人も朝には殺されてしまう。私たちは美人ではありません。加えて、情も劣っています。それゆえ、妻になることはできません」と、拒否しました。
簡単に言えば、大泊瀬皇子は、乱暴な性格のためフラれてしまったのであります。
大泊瀬皇子の乱暴な性格は、随所に登場します。例えば、允恭天皇が崩御した時、新羅から弔問が来た時の話もあります。新羅人が倭語を上手に発音できなかったことが原因なのですが、新羅人が畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)を褒めているのを、それを聞いていた倭国の部民は、新羅人が女性をくどいていると思い込み、さらに、それを聞いた大泊瀬皇子はカッとなって、すぐさま新羅人を拘束し厳しく尋問した。新羅人の弁明は了解されたが、その後、新羅との交流・交易は減少した。
②安康天皇は、大泊瀬皇子を気の毒に思ったのでしょう。安康天皇は、大泊瀬皇子のために、今度は、幡梭皇女(はたび・の・ひめみこ)を娶らせよう考えた。幡梭皇女は大草香皇子の妹です。大草香皇子は仁徳天皇(16)の皇子です。
安康天皇は大草香皇子に言いました。
「幡梭皇女を大泊瀬皇子と結婚させたい」
大草香皇子は安康天皇に言いました。
「私は重病の身です。もし、死ぬと幡梭皇女が身寄りのない人になってしまいます。とても、ありがたいお話です。私の真心の証として、私の宝である押木珠縵(おしき・の・たまかずら)を献上します」
押木珠縵とは、金や玉で飾った美しい冠です。いわば、「結納品」として、押木珠縵を献上することになりました。そして、使者の根使主(ねのおみ)に渡した。
ところが、根使主は、あまりにもすばらしい押木珠縵を見るや、邪念がわき、押木珠縵をネコババする決心をした。それで、根使主は安康天皇に「大草香皇子は天皇の依頼を拒否しました。妹を差し出すわけにはいけません、と私に言いました」と嘘の報告をしたのでした。
安康天皇は、カンカンに怒り兵を差し向け、大草香皇子を殺した。
このとき、大草香皇子に仕えていた難波吉師日香蛟(なにわ・の・きしひかか)と彼の2人の子が、父は皇子の首を抱き、2人の子は皇子の足を持って、叫びました。
「無罪で殺されるとは、なんと悲しいことか。臣下であるから殉死する」
父子3人は自ら首をはねて、皇子の横で死にました。天皇が派遣した兵たちは、「無実だったのだ」と知って、涙を流して悲しみました。
天皇は、反省の気持もあったのでしょう。天皇は、大草香皇子の妻・中蒂姫命(なかし・ひめのみこと)を皇后としました。そして、幡梭皇女を大泊瀬皇子と結婚させました。これにて、一件落着、とはならなかった。まだまだ、悲惨な事件は継続した。
③安康天皇と皇后・中蒂姫命はラブラブとなりました。問題は、中蒂姫命と大草香皇子の間に生まれた幼い眉輪王(まよわ・の・おおきみ)の存在です。眉輪王は中蒂姫命の連れ子として、宮中で育てられた。
幼い眉輪王(6歳)は、養父(安康天皇)と母(中蒂姫命)の会話を盗み聞きして、実父(大草香皇子)が、無実にもかかわらず、安康天皇に殺されたことを知ってしまった。そして、熟睡中の安康天皇を殺害した(安康天皇3年8月9日)。
大泊瀬皇子は、「安康天皇が幼い眉輪王に殺された」と聞いて、驚愕すると同時に、「幼い眉輪王が単独で天皇殺しをするはずがない。バックがいるに違いない」と判断し、2人の兄を疑った。
大泊瀬皇子は自ら兵を率いて、兄の八釣白彦皇子のもとへ行き、詰問した。無言だったので、すぐさま斬り殺した。『古事記』では、生き埋めにしたと残忍性を強調しています。
大泊瀬皇子は眉輪王を即時に殺そうとしたが、一応、取り調べをしました。大泊瀬皇子のもうひとりの兄である境黒彦皇子は、疑われることをひどく恐れて、眉輪王と2人で宮中から脱出して、葛城円(かつらぎつぶら)大臣の屋敷に逃げ込んだ。葛城円は、2人をかくまったが、大泊瀬皇子の兵に包囲された。葛城円は、娘の韓媛(からひめ)と所領(葛城宅七区)を差し出すことで助命嘆願したが、雄略天皇は許さず、葛城円、眉輪王、境黒彦皇子を焼き殺した。誰の骨か不明なので、1つの棺に全部入れてしまった。
なお、葛城氏は、当時、天皇(大王)家と並ぶ大豪族である。大王家は奈良盆地の南東地域、葛城氏は奈良盆地の南西部が根拠地で、応神天皇(第15代)から2つは大連合し、奈良県と大阪府の境である生駒・金剛山地を超えて河内・和泉地域へ進出した。天皇(大王)家の代々の皇后は葛城氏の娘となり、最近の用語では「大王・葛城の両頭政権」となった。しかし、この事件によって、葛城氏は衰退することになった。葛城氏の祖である葛城襲津彦(かつらぎ・そつひこ)に関しては、『昔人の物語(92)』をご参照ください。
④安康天皇は皇太子を指名せずに亡くなったが、次の皇位継承者は、どうやら、履中天皇(第17代)系と内定していたようだ。安康天皇ひとりの考えではなく、葛城氏も含めての順当な了解事であったようだ。しかし、大泊瀬皇子は、一挙に、天下取りの行動に出た。
安康天皇3年10月1日、大泊瀬皇子は、履中天皇の第1皇子である市辺押磐皇子を狩に誘い出し謀殺する。狩に付き従った市辺押磐皇子の部下も皆殺しにして、皇子と同じ穴に埋めて、墓さえ築かせなかった。
市辺押磐皇子の弟である御馬皇子(みまのみこ)は、身の危険を知り、三輪山の大神神社に匿われようとしました。大神神社は治外法権であり、神官一族も有力豪族でした。しかし、途中で大泊瀬皇子の兵に襲撃され、捕らえられて処刑された。
御馬皇子は刑死の直前、井を指して、「この水は百姓のみ飲むことを得む。王者(大王)だけは飲むこと能わじ」と呪の言葉を言い放った。指さした「井」とは何か。それは聖なる三輪山の「井」である。「井」は泉、川の意味もある。
そして、そもそも、三輪山が神聖な理由のひとつは、大和川=初瀬(はつせ)川=泊瀬(はつせ)川の源流が三輪山の奥にあることです。奈良盆地の南東地域は、この川の水が生命線です。
気づかれたと思いますが、「大泊瀬(おおはつせ)皇子」の「泊瀬(はつせ)」は、「泊瀬川」の意味です。なお、泊瀬(はつせ)は「長谷」とも書きます。『古事記』では、「大泊瀬(おおはつせ)皇子」を「大長谷若建命(おおはつせ・わかたけ・の・みこと)」と呼んでいます。奈良の長谷寺は奈良時代に建立されたようですが、「初瀬」にあります。
それで、御馬皇子の呪詛は効き目があったのか。『日本書紀』には、呪詛したことだけが書かれています。『古事記』は記載がありません。呪詛の効き目よりは、大泊瀬皇子は、とんでもない悪人だ、と言いたいのでしょう。
かくして、安康即位3年8月9日、安康天皇が暗殺されてから、3ヵ月間に、大泊瀬皇子はライバルの兄2人、皇位継承本命の履中系皇子2人を殺害し、雄略天皇となった。『日本書紀』の年を単純に計算しますと、雄略天皇は、允恭即位7年(418年)に生まれ、安康即位3年(456年)に即位したので、38歳で即位したことになります。
先回りしますが、雄略天皇は雄略即位23年(479年)に崩御します(61歳)。その後継は、第3皇子・白髪皇子(母は葛城韓媛)と決まっていましたが、星川皇子(母は吉備氏の稚媛)と稚媛(わかひめ)は謀反を実行した。結果は、星川皇子・稚媛は焼き殺され謀反は失敗します。白髪皇子が清寧天皇(第22代)となりました。清寧天皇は子がないまま、即位5年で崩御。
その後継には、雄略天皇が謀殺した市辺押磐皇子の2人の子が発見され、顕宗天皇(けんぞう、第23代)、仁賢天皇(第24代)となった。
ごちゃごちゃしているので、皇統を整理してみます。
仁徳天皇(第16代)の子では、履中天皇(第17代)、反正天皇(第18代)、允恭天皇(第19代)と3代続いた。反正天皇の妃は皇族と縁がないため、その子は天皇の芽はゼロであった。允恭天皇の後は、允恭の子である安康天皇(第20代)となった。その後は、履中天皇の子である市辺押磐皇子とほぼ内定していたが、前述のように雄略天皇(第21代)が謀殺した。雄略天皇の子・清寧天皇(第22代)が崩御し、履中天皇系の市辺押磐皇子の子に皇位が回ったということである。
雄略天皇は市辺押磐皇子・御馬皇子を殺害後、その子らも殺害するつもりだったが、顕宗と仁賢の兄弟は播磨に隠れ住み、身の安全を確保していた。清寧天皇の危篤・崩御で姿を現したようだ。兄弟の姉に、飯豊青皇女がいて、「清寧天皇崩御後、皇位についた、日本初の女帝」という説がある。そもそも、顕宗と仁賢の時代はごちゃごちゃのグレーで、飯豊青皇女についても、いろいろな推測が成り立ちます。面白話にしたければ、飯豊青皇女は抜群の霊力者となります。
そして、仁賢天皇(第24代)の子が、武烈天皇(第25代)である。『日本書紀』では、最悪の残虐非道な天皇として書かれている。その後が、いわば新王朝の出発点・継体天皇(第26代)で、これまたゴチャゴチャです。雄略天皇は、強力な安定政権だったが、その後は弱体混乱政権の連続だった。それゆえ、特別偉大な天皇と意識されたのではなかろうか。
(5)雄略天皇の皇后および妃
安康即位3年11月13日、雄略天皇が即位し、泊瀬(はつせ)の朝倉を宮に定めた。現在の奈良県桜井市の黒崎または岩坂または脇本。桜井市は奈良盆地南東部で三輪山も含む。
大臣には平群真鳥(へぐり・の・まとり)、大連(おおむらじ)には、大伴室屋(おおとも・の・むろや)と物部目(もののべ・の・め)を任じた。
後の話ですが、平群真鳥は実力を激増させ、武烈天皇と権力を争うまでになる。しかし、大伴金村が武烈に味方し、平群氏は消滅する。
雄略即位元年3月3日、天皇は皇后を、幡梭皇女(はたび・の・ひめみこ)とした。前述のように、安康天皇が誤解して殺した大草香皇子の妹です。幡梭皇女の父は仁徳天皇、母は日向髪長媛である。日向髪長媛は、最初、応神天皇が見染めたのであるが、仁徳天皇が横恋慕して妻にした女性です。幡梭皇后はかなり年上だったようで、子は生まれなかった。なお、当時の皇后の地位は、大王と並ぶ力があったようで、雄略にモノが言える唯一の存在であった。
雄略天皇は同月3人の女性を妃とした。
1人目は、葛城円大臣の娘の韓媛(からひめ)です。葛城円大臣は大王家と並ぶ大豪族の首領で、雄略によって殺害された。韓媛を妃とすることによって、葛城氏の不満を抑える意味もあった。2人の間には、白髪皇子(後の清寧天皇)と稚足(わかたらし)姫皇女が生まれた。稚足姫は伊勢神宮の斎宮となった。しかし、斎宮は処女であるべきなのに、男との関係を流言され自殺した。無実であったことが証明されたが、生き返りはしない。
2人目は吉備氏の稚姫(わかひめ)です。即位元年3月に妃にしたと記されていますが、別の箇所では、即位7年の話として、雄略天皇の暴虐振りが記されています。
吉備上道臣田狭(きびの・かみつみち・おみ・たさ)が友に「天下の美人といっても、私の妻である稚姫にかなう女はいない。お白いすら必要ない。すべてを満たす美女だ」と自慢した。それを、遠くで聞いた雄略天皇は、田狭を任那の国司にして、稚姫を娶ってしまった。
この話は、単に、美人の人妻を横取りしたという昼メロではありません。
稚姫の前段は、吉備下道臣前津屋(きびの・しもつみち・おみ・まえつや)の謀反で、吉備前津屋は一族70人が皆殺しになりました。
そして、美人妻をとられた田狭(たさ)は、任那へ行くや新羅と連携して雄略天皇に反乱を企てます(吉備氏の乱、推定463年)。雄略天皇は、田狭・新羅を討つため、田狭の子(弟君)と吉備海部直赤尾(きびの・あまのあたい・あかお)を派遣することにしました。この時、天皇の側の渡来人が、「韓国には私より巧みな技術者が大勢います。呼び寄せて仕えさせましょう」と提案した。それで、彼も同行した。
百済で多くの技術者を集めました。そうこうしている間に、田狭・新羅を討伐する目的はうやむやになってしまいました。田狭の子(弟君)は死んだのか、百済に留まったのか、わかりません。田狭も行方知れずとなりました。百済で集めた多くの技術者達は無事に倭へ到着しました。
ついでながら、百済からの渡来人の件ですが、475年に百済の都漢城が高句麗のため落城し、百済はかろうじて熊津へ移ります。雄陸天皇(推定在位457~479)の時期は、百済弱体時期に相当し、非常に多くの渡来人がやってきました。
稚姫の話に戻ります。
雄略天皇と稚姫の間には、磐城皇子と星川皇子の兄弟が生まれました。星川皇子と稚姫は、雄略天皇崩御直後に乱を起こしたが失敗し焼き殺されました。この乱に際して、吉備氏(岡山が根拠地)は兵を船で派遣したが、到着前に2人の死を知り引き返しました。
3人目は、和珥氏の娘の童女君(おみなぎみ)です。和珥氏は奈良盆地北東部の大豪族です。次のスケベ話が記載されています。
童女君は天皇と一晩寝ただけで妊娠し女の子を産んだ。天皇は一晩だけなので自分の子でないと思っていました。女の子が歩くようになると、皆が「天皇に似ている」という。
天皇は「朕は一晩しか寝ていない。朕の子じゃない」と否定的。
物部目(もののべ・の・め)大連は「では、一晩で何回やったのですか?」と尋ねました。
天皇は「7回、やった」と返事した。
物部目大連は「一晩中、やりまくったのでしたら、妊娠しやすい女性は妊娠するものです」と天皇を諭しました。雄略天皇は自分が話したことに異を唱える者に対しては、容赦なく厳罰を下すタイプなので、物部目大連は、おそらく、精力絶倫で大したものだ、とかなんとかヨイショしながら諭したのでしょう。
天皇は納得して、母を妃とし、女の子を皇女にしました。
こうしてみると、雄略天皇の妃選びは、「大豪族の娘」という明確な方針があったとわかります。
(6)大悪天皇か有徳天皇か
雄略天皇の女性関係の話は、皇后と3人の妃以外にもあります。『日本書紀』に記載されている他の事件も含めて、順に紹介します。分量が多いので、予め要点をあげておきます。
●カッとなって、直ぐに斬り殺したい衝動がわく性質です。
●幡梭皇后は、天皇を上手にコントロールした。
●朝鮮半島と呉(宋)との交流を活発化した。技術ある渡来人を積極的に迎え入れた。渡来人増加の背景には百済の弱体化がありました。
●大豪族の葛城氏・吉備氏・和珥氏などの弱体化に成功。
●雄略天皇には、『日本書紀』では「大悪天皇」と「有徳天皇」の異名があります。どちらが真実に近いのか、まぁ、人間は色々な側面を有しているということでしょう。
それでは、『日本書紀』の記述で関心ある部分のみ取り上げ、要約します。
【百済の池津媛】
即位2年、百済の池津媛(いけつひめ)の話。どうもチンプンカンプンですが、私の推理です。雄略天皇は百済の王女を妃にすべく要請した。百済の返事はOKだったが、実際は部下の女性を着飾って、王女として天皇に差し出した。ところが、その偽王女は石河楯(いしかわ・の・たて)と浮気してしまった。天皇は激怒して、2人を磔にして焼き殺した。
【吉野宮で馬飼を切り殺す】
即位2年、天皇は狩をした。大きな獲物を獲りました。休憩時に天皇は問いました。「狩の楽しみは、ナマスを作って食べることだ。膳夫(かしわで、料理人)が作るのと自分で作るのと、どちらが楽しいか?」(ナマスとは生食材に若干の調味料を加えたもの)。
群臣は誰も答えなかったので、天皇は怒って、傍らにいた馬飼を斬り殺した。そんなささいなことで、ただ傍にいただけで斬り殺された。皆、恐れ慄いた。
皇太后も皇后も、この出来事を聞いて、驚いた。皇太后は、天皇の話から、天皇の真意は、「野外での肉料理宴会には通常の料理人ではなく、肉料理専門家が必要」と知った。それで、皇太后は、さっそく、膳部(かしわでべ)の中から「宍人部」(ししひとべ)を選んだ。宍人部とは、鳥獣の肉料理専門家である。こうして、宍人部ができた。
【大悪天皇】
即位2年、雄略天皇は自分を賢いと考えていた。それで、間違って人を殺すことが多かった。天下は誹謗して言った。「大悪天皇也」
【稚足姫皇女の自殺】
即位3年、稚足(わかたらし)姫皇女は雄略天皇と韓媛の娘。伊勢の斎宮になった。流言飛語のため自殺。誹謗中傷は恐ろしい。
【有徳天皇】
即位4年、雄略天皇は葛城山で狩をした。そこで、葛城山の神である一事主神(ひとことぬし・の・かみ)と遭遇した。2人は仲よく田の周辺で楽しんだ。その様子を見て、百姓ことごとく言った。「有徳天皇也」
【蜻蛉(とんぼ)の歌】
即位4年、虻(あぶ)が天皇の腕を噛んだ。その虻を蜻蛉が食べた。天皇は喜んで、蜻蛉を褒める歌を詠んだ。古代では、トンボを秋津(あきつ)と呼んだ。神武天皇は、日本の国土を「あきつの臀呫(となめ)の如し」(トンボの交尾のような形だ)と語った。雄略天皇の歌も、トンボ=秋津=日本となっている。
【葛城山で、猪に追われた舎人】
即位5年、狩の最中、猪が天皇の舎人(従者)を襲った。舎人(従者)は恐れて木に登って逃げた。猪は天皇を襲った。天皇は猪を踏み殺した。天皇は、弱虫の舎人を斬り殺そうとした。舎人は悲しい歌を詠みました。それを聞いた皇后は、天皇にストップをかけました。
天皇は「皇后は、天皇よりも舎人を心配しているのか」となじった。皇后は「国民は、陛下は狩をして獣を好む、と言っています。それで、いいのですか(獣よりも国民を好んでください)。今、陛下は猪を理由に舎人を斬り殺せば、狼(おおかみ)と変わりありません」と答えた。
天皇・皇后は車に上がって帰った。
天皇は「楽しいかな、人は皆鳥獣を狩る。朕は狩をして、善い言葉を得て帰る」と言いました。
なお、『古事記』では、雄略天皇も木に登って逃げています。
【百済王が弟を倭へ派遣】
即位5年(西暦461年)、百済王の加須利君(=蓋鹵王(がいろおう、在位455~475)は、弟の軍君を倭へ派遣した。前述したように、雄略即位2年に百済は女性を派遣して、かえって百済と倭の関係がこじれてしまったので、今度は、しっかりした人物を派遣して友好関係を発展させようとした。
百済は高句麗の圧力で混沌状態にあり、倭との連携強化は不可欠であった。事実、475年には、高句麗の攻撃によって、百済の王都・漢城は落城し、蓋鹵王は戦死した。そして、百済は南の熊津へ遷都した。
【栖軽(すがる)が間違えて嬰児を集めた】
即位6年のこと。『日本霊異記』の箇所で述べました。
【栖軽(すがる)が雷を捕らえた】
即位7年のこと。これも、『日本霊異記』の箇所で述べました。
【吉備氏の稚姫(わかひめ)を中心に、吉備氏との紛争】
即位7年。雄略天皇の第2妃の箇所で述べました。大豪族・吉備氏の力を弱めたことは確かですが、吉備氏は完全に服従したわけではなかった。
【呉(宋)へ使者を派遣】
即位8年。「倭の五王」の武は、雄略天皇と目されています。雄略天皇は呉へ使者を派遣しました。呉とは、宋の一地域名です。
【宗像神社へ派遣したが、不倫事件】
即位9年、天皇は、使者に采女(うねめ)をつけて宗像三女神を祀らせようとした。宗像三女神は朝鮮半島との海上要路にあり、朝鮮半島・宋との行き来が活発化したので、海上交通の安全祈願です。ところが、祈願の直前に使者が采女を犯した。それを聞いた天皇は、使者を斬り殺した。
【新羅へ侵攻】
即位9年、雄略天皇は兵を送って新羅を攻めた。『日本書紀』には、長々と書いてありますが、勝敗はよくわかりません。
【ガチョウが犬に嚙み殺された】
即位10年、2年前に呉(宋)へ派遣した使者が帰国した。宋から頂いた2匹のガチョウが筑紫で犬に噛み殺された。使者は、白鳥10匹と養鳥人を天皇に献上して許された。
【鳥養部の設置】
即位11年、鳥官の鳥が犬に噛まれて死んだ。天皇は怒って、鳥官の顔に入れ墨をした。信濃国の役人が「1匹の鳥だけで、顔に入れ墨とは、悪い天皇だ」と言った。天皇は、それを聞いて、鳥養部を設立した。
【呉へ再び派遣】
即位12年、天皇は再び、呉(宋)へ使者を派遣した。
【天皇の誤解】
即位12年、天皇は御田(みた)に楼閣の建設を命じた。采女(うねめ)が御田の仕事振りを見上げていたら、転んでしまった。天皇は、御田が采女を犯したと思い、処刑しようとした。そのとき、そばにいた人が、歌を詠んで天皇の誤解を解いて、御田は許された。
【歯田根命(はたね・の・みこと)が采女を犯した】
即位13年、歯田根命が采女を犯した。天皇は物部目大連に殺させようとしました。歯田根命は馬8匹、太刀8口を献上して罪を免れた。
【女裸相撲】
即位13年、手斧で材木を削る名工がいた。天皇はその技術に感心しながらも「失敗はないのか」と問いました。名工は「絶対に失敗しません」と答えた。天皇は、采女を裸にして、ふんどし姿にして相撲をとらせました。名工は、それに見とれて失敗してしまいました。天皇は「朕を畏れず、軽々しく答えたのは、けしからん」と言って、物部に名工の身柄をあずけ野原で処刑することにした。同伴の職人は悲しみ、歌を詠みました。天皇は、その歌を聞いて反省して、処刑を止めさせました。
【呉から帰国】
即位14年、2年前、呉(宋)へ派遣した使者が帰国した。呉の使者とともに多くの技術者を連れてきました。
【根使主の冠】
即位14年、天皇は呉(宋)の使者を根使主(ねのおみ)に接待させました。根使主はすばらしい冠をして使者と食事をしました。あまりにも美麗な冠のため、宮中で評判になりました。天皇も見たくなりました。冠をした根使主は天皇・皇后の前へ呼ばれました。すると、皇后(元は幡梭皇女)が嘆き悲しみ泣き出しました。皇后は言いました。
「この冠は押木珠縵(おしき・の・たまかずら)といって、私の兄(大草香皇子)が安康天皇の命を受けて、私を陛下(雄略天皇)の妻になるための結納品です」
前述したように、根使主は押木珠縵をネコババするため大草香皇子を陥れたのです。連続悲劇の張本人が物的証拠とともに現れたのです。天皇は、すかさず斬り殺そうとしましたが、逃げられました。根使主はかなりの勢力を持っていて、和泉で合戦となったが、結局は敗北して殺された。
【秦の民】
即位15年、秦造(はたのみやつこ)が兎豆麻佐(うつまさ)と呼ばれるようになった。参考までに、秦氏(はたし)は、渡来人の最大集団で、新羅出身です。土木・農業、養蚕・機織りの技術を有していた。第2は、東漢氏(やまとのあやうじ)で、百済出身。文書、製鉄、土器の技術。第3は、西文氏(かわちのふみうじ)で、百済出身。王仁が超有名。文書、算術。
【伊勢の朝日郎を征伐】
即位18年、物部目連らを派遣して、伊勢の朝日郎を征伐した。
【百済と高句麗の情勢】
即位20年(476年)、高句麗の攻勢で百済は完全に追い詰められている、と記載されている。事実、475年には、高句麗の攻撃によって、百済の王都・漢城は落城し、蓋鹵王は戦死した。百済は、かろうじて南の熊津へ移った。
【百済の再興】
即位21年、天皇は百済が敗北したと聞いて、久麻那利(くまなり)を文周王に与えて、百済を再興させた。このように『日本書紀』には書いてありますが、完全に嘘の記事です。
文周王は、熊津を新しい都とした。熊津を万葉仮名で「久麻那利」と書くが、熊津(=久麻那利)は倭の支配下にあったことはなく、「持っていない土地」を与えたとは、単なる虚偽文章です。このことは、『日本書紀』編集者も知っていて、「おそらく誤り。『日本旧記』には、久麻那利は任那の別の村」と書いてあります。なお、「日本旧記」なるものが『記紀』以前に存在していたことはわかりますが、その実態は諸説あるようです。
【白髪皇子が皇太子に】
即位22年、白髪皇子(母は葛城円の娘・韓媛)を皇太子にした。後の清寧天皇(第22代)です。
【浦島太郎】
即位22年。なぜか突然、浦島太郎の話が登場します。竜宮城ではなく蓬莱山に行って終わりになっています。私の推測では、雄略天皇崩御の前奏曲ではないでしょうか。
【百済の情勢】
即位23年(479年)、百済王の文斤王(=三斤王)が亡くなった。昆支王(倭に人質として滞在)の第2子・末多王に、筑紫の兵500人をつけて、百済へ送り、王にした。それが東城王である。そのように『日本書紀』には書いてありますが、これでは、よくわからないので解説しておきます。
漢城陥落(475年)後、文周王が即位し熊津を都とした。しかし、文周王(在位475~477)は百済の実力貴族・解仇によって、477年に暗殺された。そして、13歳の三斤王(在位477~479)が即位した。解仇は反乱を起こしたが失敗し殺された。三斤王は在位3年目で亡くなった。そして、東城王(在位479~501)が即位した。『三国史記』には、即位にあたって『日本書紀』の記載のようなことは書いてありません。ともかくも、東城王によって、百済の復興が本格化した。しかし、東城王の晩年は贅沢三昧となり、暗殺された。
大雑把に見れば、百済の弱体化、倭の影響力増大です。倭の女性数人が、百済の王族の妃になっています。即位23年は百済からの貢物も多かった。
【天皇が重症】
即位23年7月、天皇は重症となった。
【天皇が崩御】
即位23年8月7日崩御。遺言が語られています。
【星川皇子と稚姫の反乱】
即位23年、雄略崩御の直後、星川皇子と母の稚姫は、反乱を起こす。しかし、失敗して焼き殺されました。
ぼんやり思うのですが、大人向け漫画雑誌は、セックスと暴力が山盛りです。『記紀』もそんな感じです。昔も今も大差なし、ということか……。
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太田哲二(おおたてつじ) 中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を9期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』など著書多数。近著は『やっとわかった!「年金+給与」の賢いもらい方』(中央経済社)。