●何かを破壊すべきか


 前回、前々回に続いて、法哲学者の桜井徹の『リベラル優生主義と正義』(2007年刊)をテキストに、優生思想に関する新たな潮流と、それに関する違和のようなものを書き出していきたい。


 リベラル優生主義については、近年の生殖医療の進展を見据えた新しい時代の、「善い生」を子孫に伝えるための活用が、「生命倫理」に反するのかという問いかけがあること、その前提として、「善い生」をも認める多元的理解があってもいいのではないかという主張に見えることを伝えた。


 しかし、私はその行きつく先が、技術のポジティブな革新を前提としても、実は優生主義の本質からから離れられずに、「ネガティブな状態」そのものを掃き出してよいのかとの疑問を示した。ただ断っておくと、桜井のスタンスが私の疑問と対立しているわけではないことも伝えた。その主張をもう一度確認しておく。


 私は、「生命の操作」、「生命の選別」、「神を演ずる」、「人間の尊厳」、そして「優生学」といったイメージを掻き立てやすいフレーズに訴えることによって、新たな生殖技術の反道徳性――規範からの逸脱――を暴くという議論の立て方には、以前から物足りなさを覚えていた。私はむしろ、新たな生殖技術の導入が倫理的に許容できないということを説得的に主張するためには、いかなる「害悪」がいかなる「利益」を凌駕するのかという点に関する合理的根拠を、もっと具体的に提示することが必要なのではないかと感じていた。

 

●「親ガチャ」論は何を意味するのか


 この問いかけは非常に重要だと思う。例えば、あくまで精神論的であり、社会学的であり、経済学的でもあるが、最近、若者たちの一部に自らを否定的に捉え、運命的な物語に換骨奪胎し、厭世的な気分を増幅させる「親ガチャ」論があるが、その対抗軸にあるのが「善き生」という物語であり、それは「親ガチャ」の世界から実は「親」を無にする論理が背景にある。


「新たな生殖技術の導入が倫理的に許容」できるのか、できないのか、するのかしないのかは、この場合、まさに「親」に付託される問題であるが、「親ガチャ」論はそこを超えて、ある意味、壮大なSF的ともいえる思想にほかならない。時代を飛び越えているというよりは、こうした論理が出てくる背景が、実は若者の貧困や屈折、諦観がより巨大化していく中で、「とってつけたかのような、やけくそ気味の論理」として出てきた皮肉を感じ取る。


 それはつまり、身体的な障害の有無とか、容姿に対する偏見とか、勉強する(できる)環境の有無の問題ではなく、無責任に「善き生」を考えてもらえないで生まれてきた子どもたちの諦念であり、優生主義とは違う次元で生まれた概念かもしれない。しかし、それでも行きつく先、あるいはそれまでの道程で支配しているのは「優生主義」であり、「親ガチャ」論の出自は「優生主義」であるとしか思えない。


 もう少し丁寧に考えれば、道徳性や規範からの逸脱を許さないで、あるいは許されないでできる現在の生殖技術の進歩に対する婉曲な異議申し立てであるとも受け取れるが、それはある意味、技術進歩の問題ではなく、「善き生」は技術だけでなく多元的な環境要素をカオス的に含むことを知らしめるのであり、そのこと自体が「優生主義批判」の新たなロジック転換点を指し示しているともいえる。


 一方で、遺伝子研究によって「老化」や感染症対策が前進することを「善き生」に対する後退的な論理で否定できるのかという課題もある。なにしろ、こうした論理、討論というものは次から次に新たなテーマを噴出させ、あちこちから批判や新理論や推論が生まれてくるというややこしい性格を持っている。リベラル優生主義をめぐっては、「自然が人間改造を許すのか」という議論も生まれている。例えば、老化や感染症の一定の克服が、実は自然に対する超越的な挑戦だとなると、議論の方向性は変わる。


 優生主義批判の根底にあるのは「差別」であり、差別は自然が作り出したものではなく人間の思惟であるが、それは基本的に「自然」に根ざしているという立場をとれば、自然破壊も許されるということになる。人類は優生主義を壊滅させるために、そこまでの腹が括れるのか。


●AIにはどのような哲学で対峙するか


 私の単純なものの考え方でいえば、世界にはリベラル優生主義を唱えるよりも先に解決すべき課題がたくさんある。実際、現在でも解決できていない「差別」はそこら中にあるのだ。それなのに、「リベラル優生主義」「善き生」といった棒高跳びのような議論が出てくることに、やはり単純に違和を感じてしまう。


 さらに、こうしたリベラル優生主義を超える医療倫理の壁について、何だか易々とロジカルを無視して飛び越えていく新たな「シン医療倫理」として、そこをも超える思想の出現の予兆も感じる。医療を含めた各様のテクノロジーはざっくりと「人新世」という言葉の台頭で、現在の地点に関する認識、意味合いの収斂が行われている時代だと私は認識している。そして、それを一気にまとめ上げる存在としてAIがある。


 医療におけるAIの存在は、その技術の支点や補助線的な扱いで現在は論議が進んでおり、医療倫理としてのAIをどのように議論すべきか、は今後に委ねられている印象はするのだが、それでもその一端が語られ始めていることは知っておきたい。


 医療界がAIに無関心でいられるわけはないが、昨年4月に東京で開かれた第31回日本医学会総会の記念企画では、AIに関する討論が行われている。


 19年の第30回から31回の間に、新型コロナ感染症が世界中で猖獗を極めた。それだけに23年の総会は感染症がキーワードになるのかと思いきや、テーマは「ビッグデータが拓く未来の医学と医療~豊かな人生100年時代を求めて~」だった。少し脱線すれば、まるまる新型コロナで消費されてきたほぼ4年間の医療世界で起こったこと、新たな知見、将来への布石などなど、医学会総会で総括すべきテーマは山積していたのではないかと考えるのだが、医療人の関心は「ビッグデータ」に向けられた。


 背景にAIが存在することは自明であり、決してポジティブな観測だけではないAIが持つ倫理的な側面にも人々、とりわけ医療人の関心は強いものと思えた(だが、私には違和感が強い)。


 なお、この討論に関してはその後に編集された書籍を参考にしていることを断っておきたい。


●AIに倫理違反を監視させる


 討論では、虎の門病院の門脇孝院長が、先進的テクノロジーを使って医療を行う医療者、特に先端医学・医療研究開発に取り組む研究者は今までよりも社会に向けて発信する義務があると提言しつつ、「私はAIがヒトを超えることはほぼあり得ないと思っている」と告げている。むろん単純な話ではなく、「人間には感情や倫理観も含めて、多様な側面があって奥が深く非情に豊かなものです。私たちは常に人間とはどういうものかを考え、考え抜いて深く広く理解する不断の努力を続けていく必要がある」と述べている。


 討論出席者に共通しているのは、AIに関しては「思うよりもずっと早く発展している」という思いだろう。この予感は大事にしなくてはならないのだが、その意味では、門脇氏が提言している患者と医療者の「共同意思決定」という医療倫理を含めた新たなプロセスが必要で、そこにAIを入れさせない仕組みが要るだろう。もっと言えば、AIに倫理違反を監視させる意味づけも要る。リベラル優生主義が哲学的な装いで韜晦することについて、どのようにプログラミングするかも含めて、「AIがヒトを超えない」人智を形成しなければならない。かなりの正念場であると私は思う。(幸)