『医薬経済』本誌の2023年12月1日号から、「健康保険はじめて物語」という連載を始めました。


 「いつでも、どこでも、だれでも」という標語に象徴されるように、日本の医療制度はフリーアクセス制で、被保険者証を見せれば、全国どこでも医療を受けられます。これは、この国で暮らすすべての人に、なんらかの公的な医療保険に加入することを義務づけた国民皆保険制度のおかげです。


 でも、皆保険制度が実現する前は、誰もが簡単に医療にアクセスできたわけではありません。


 1956(昭和31)年3月末時点の公的医療保険の未適用者は約3000万人。当時の人口の3分の1にあたる人が、公的医療保険の網の目からこぼれ落ちていたのです。


 公的医療保険に加入できない人々は、病気やケガをしても医療費の負担が大きく、簡単に病院や診療所にかかることができませんでした。その結果、病気やケガが長引いて、仕事ができなくなり、貧困に陥るという悪循環が繰り返されました。そうした悪循環を断ち切るためにつくられたのが国民皆保険制度です。


 でも、日本の国民皆保険制度は一朝一夕にできたわけではありません。ひとつの制度をつくる過程には、医療者、行政、事業所、患者など、さまざまな立場の人が対話を重ね、少しずつ制度を充実させてきたという積み重ねがあります。


 本誌では、制度がつくられた当時の行政資料や新聞記事などから、制度創設の経緯、時代背景などを調べ、公的医療保険にまつわる「はじめて」を紐解いています。当時の資料を読んでいると、「へー、こんなことがあったのか」と興味深い記述が多いのですが、紙幅の関係で紹介できないこともあります。


 そこで、こちらのコラムでは、本誌では伝えきれなかった「こぼれ話」を紹介していきたいと思っています。


 連載の第1~3回では、日本初の被保険者証の概要とともに、1927(昭和2)年に労働者のための健康保険がスタートした時代背景をお伝えしました。


 健康保険法は、日本初の労働者のための公的な医療保険について定めた法律で、1922(大正11)年3月25日に成立。法案が公表されてから5カ月、国会での審議期間はわずか13日間というスピード可決でした。


 紛糾することなく、すんなり成立したのは、労働者の福祉を全面に打ち出し、当時、急増していた労働争議を減らすことを目的とした法律だったからという説明がされています。もちろん、その説明も一理ありますが、健康保険は日本初の社会保険で、ドイツの疾病保険を参考にしてつくられました。審議した国会議員たちとっては、海のものとも山のものとも分からない代物で、その全貌を掴めなかったため、反対のしようがなかったのかもしれません。


 そのせいか、実際に施行されるまでには長い時間を要することになりました。途中、関東大震災が起きて審議が中断したこともありますが、制度の具体的な内容が明らかになってくると、各所から不満の声があがるようになったのです。


 健康保険は、原則的に事業主と労働者の双方が保険料を出し合って、保険給付を行う仕組みです。その負担のあり方を巡って、労資は噛み合わない主張を繰り返しました。そして、健康保険法の施行が近づくと、全国各地で「健康保険法反対ストライキ」が行われるようになったのです。反対運動は、日に日に激しさを増し、とうとう労働者による立てこもり事件まで勃発しました。


 『東京朝日新聞』(1926〔大正15〕年11月29日付)が、

浅野セメント 遂に総罷業

健康保険問題から 四百名立てこもる」

という見出しとともに、東京深川区清住町(当時)にあった浅野セメントで、健康保険法をめぐってゼネラルストライキが行われたことを報じています。


 同社の職工たちは、かねてより保険料を会社負担とすることや、保険組合を職工と会社の協議の上でつくることなどを交渉していたものの、会社側から回答が得られなかったため、1926年11月28日午前7時から、同社の職工400名(うち女工30名)全員でゼネストに突入。次の要求を行いました。


1. 賃金1割値上げ

2.健康保険組合は職工と合議のうえでつくること

3.保険給付は、その事項と金額を多くすること

4.危険防止の設備

5.負傷の際はすぐに便宜を計ること

6.年2回定期昇給

7.職務貯金は各個人の通帳に改めること


 こうした要求を行った職工たちによるゼネストは、「今後各方面の労働者間にも一般的輿論として喚起さるべき模様で警視庁労働係ではこの紛争に多大の注目を払って居る」とされています。


 世間からも注目されていた浅野セメントの健康保険法反対ストライキでしたが、会社側の圧力に屈した労働者が徐々に争議運動から脱落していき、その要求が通ることはありませんでした。


 現在では、勤務中や通勤途中の事故などで被った病気やケガに関しては、労働者災害補償保険(労災保険)で救済され、保険料も全額事業主負担となっています。でも、当時は、工場法でカバーされていた労働災害も健康保険からの給付となるなど、他の制度との整合性がとれておらず、これも労資が対立する一因となりました。


 法律の制定から100年たった今では、公的な医療保険は、この国で暮らす人々の健康を守るために、なくてはならない制度となっています。でも、制度が始まる前は労働者の激しいストライキが行われただけではなく、事業主、医師会からも制度の運用を懸念する声があがり、逆風が吹き荒れるなかでの船出だったのです。


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早川幸子(はやかわ ゆきこ)

文筆家。1968年、千葉県生まれ。明治大学卒。会社員、編集プロダクション勤務を経て、1999年にフリーライターに。公的な健康保険や診療報酬、民間保険など、身の回りの医療費の問題を、新聞やマネー誌、ネットサイトなどに寄稿。ダイヤモンドオンラインで「知らないと損する!医療費の裏ワザと落とし穴」を連載中。おもな著書に「読むだけで200万円節約できる!医療費と医療保険&介護保険のトクする裏ワザ30」(ダイヤモンド社)など。2016年10月、東京から茨城県の石岡市八郷地区に移住。フリーライターを続けながら、庭で野菜作りを行い、「半農半ライター」生活を送っている。