ありふれた病気でありながらコロナ禍前の日本では、あまり意識されていなかった病気が感染症だろう。高齢者のインフルエンザは別にしても、水虫、ものもらい、水疱瘡など、近年の日本で身近な感染症は、生命の危機を感じさせるものではなかった。


 しかし、コロナ禍以降、マスクの着用が広がったり、手指消毒の習慣が根付いたりと、感染症を意識する人が増えた。一般の人々のウイルスや細菌への関心も確実に高まった。


 そんな人々が興味を持ちそうなのが、『ウイルス学者さん、うちの国ヤバいので来てください。』。コロナ禍でクラスター対策班にも加わった著者が、世界の感染症対策の現場を記した1冊だ。


 著者は臨床、公衆衛生、国際保健の分野でマルチな活動をしてきた医師。本書もそのキャリアを生かして書かれているが、実体験に基づくだけにエピソードはどれも生々しい。開発途上国での感染症対策での実録、著者の研究者・専門家としてのキャリアの作り方、新型コロナ禍における日本のクラスター対策の3つの観点から読んでいった。


 開発途上国での医療は、日本に住んでいると意識しないところに配慮が必要になるようだ。


 今日の日本では、地域ごとの風習やしきたりはだいぶ薄れてきたが、開発途上国などでは、遺体を抱擁するなど、まだまだ伝統的な習慣や作法が残っていることも多い。感染症の流行地域などでは、こうした風習が感染を広げてしまうこともある。


 先進国から来た医療チームが、科学的な根拠をもって指示を出しても、宗主国に虐げられてきた地域では、不信感から簡単に受け入れられないこともある。だからこそ〈現地のひとびとの風習やしきたりを理解して介入していくためにも、文化人類学者や宗教学者といった人文社会系の専門家が感染症流行の現場で果たす役割は大きい〉のだという。


 研究などの目的があったとしても、現地の医療レベルを超える診療を提供するのはいいこととは限らない。〈研究に参加しなかったひとや研究の対象とならなかったひとたちが明らかに不利〉になったりするからだ。


 医療のレベルも国によってさまざま。防護服や注射針の使いまわしなど、先進国の医療ではNGなことも、開発途上国の医療供給体制を見ればあまり強くは否定できないこともある。医療の提供主体は現地の人であることを考慮しつつ、落としどころを探していく仕事の難易度は高い。


 著者は研究者としての〈「データを解析したい」という下心〉も理解してもらいつつ、何度も呼んでもらえるような関係づくりができたようだ。場数を踏んできた著者の力量もさることながら、現地の人たちへの配慮も行き届いていたのだろう。


■キャリアの裏側「不合格の履歴書」


〈「迷ったら変化のあるほうに進む」をモットーに生きてきた〉というだけに、著者の研究者・専門家としてのキャリアはなかなかアグレッシブだ。詳細は本書を読んでいただきたいが、注目したのはコラムの〈僕のアカデミック・キャリア〉。


 研究者としても多くの大学を渡り歩くが、サブタイトルに〈不合格の履歴書〉とあるように、コラムには不合格も含めた応募の履歴、「公募戦線」の経験が生々しく描かれている。通常、研究者のプロフィール欄には、過去の勤務実績が書かれるだけだ。将来、研究者を目指す人にとっては、キャリアパスの裏側を垣間見ることができる貴重な資料でもある。


 新型コロナ禍におけるクラスター対策では、電話やファックスなどアナログな手段による患者情報の収集やデータに関心が薄い人々の存在があらためて明かされる。


 新型コロナ級の感染症対策になると、専門家から公的機関、現場まで、さまざまな人々が関与するが、なかには〈「数理モデルなんてわけのわからんものを、私は参考にしない」と明言するひとも専門家会議にはいた〉という。コロナ禍でオンラインの感染者報告システムが完成しているが、5類感染症に移行してからも〈せっせとFAXで感染者数を報告している〉定点医療機関も一部にあるとか。


 そもそも、感染症に備えるという意味では、〈日本はパンデミックに対抗するためのあらゆる面で資源も人材も不足していた〉。本書によれば、感染者数理モデルを扱える人の数は、日本は数十人程度しかいない、公的機関で疫学調査や解析を担当するのは20人程度。次なる新興感染症の危機を考えると、少し不安になってきた。


「うちの国ヤバい」のは、実は日本なのかもしれない。(鎌)


<書籍データ>

ウイルス学者さん、うちの国ヤバいので来てください。

古瀬祐気著(中公新書ラクレ924円)