●まだ人類は差別から脱皮できない


 前回、医療倫理、生命倫理に関しては、AIの関与を避けて通れないとの医学界の認識的関与をベースに、患者と医療者の「共同意思決定」という医療倫理を含めた新たなプロセスが必要だということを提言する医師を中心とする見解があることを紹介した。基本的には、その「共同意思決定」にはAIを入れさせない仕組みが要ることに私は言及した。もっと積極的に考えれば、AIに倫理違反を監視させる意味づけも要るかもしれない。


 リベラル優生主義(という新たな思惟)が哲学的な装いで韜晦することについて、どのようにプログラミングするかも含めて、医療倫理、生命倫理については「AIがヒトを超えることはない」人智を形成しなければならない。それはかなりの正念場であると私は思う。しかし、それ以前に解消しておく問題も多い。このままでは優生主義や差別の実相を取り残したままAIのアルゴリズムに飲み込まれる。


 むろん、こうした考え方、主張は洗練されたものではない。私の単純なものの考え方で、世界にはリベラル優生主義を唱えるよりも先に解決すべき課題がたくさんあると言いたいだけなのだ。実際、現在でも解決できていない優生主義を支える「差別」はそこら中にある。それなのに「リベラル優生主義」「善き生」といった棒高跳びのような議論が出てくるのに、単純に違和を感じる、と繰り返している。そして、その棒高跳びの棒はグラスファイバーより強靭でしなやかなAIだろうとカンづけている。たぶん間違いない。


●AIによって普遍化される優生主義


 前回から触れているAIに関する討論については、昨年4月の日本医学会総会でのディスカッションをまとめた『医の倫理』を参照した。同書は、最後に執筆者も含めた5人の医学医療関係者による座談会も行っており、それも少し参考にすると、宮田麻理子東京女子医大教授は、環境問題、AI、情報化の問題はすべての科学に共通し、そのなかに「私たちは組み込まれていく」との前提を了解しながらも、AI研究の進捗に警戒も示している。「もしかすると神経科学の基礎研究より先に、AIがアルゴリズムで共感、悲しみ、喜び、痛みなどを定義し、ロボットに搭載する時代が来るのではないかという危機感があります」。医療関係者などがAIに乗っ取られないためには、「感情」などといった人間の感性を医療の側面性ではなく、主題にしなければならないという議論をよく聞くが、宮田の発言はそれも飛び越えられることが予感されている。


 AIのアルゴリズムはそれほど軽視できないものだろうが、宮田の発言には、さらにロボットが人間と同じようなことができてしまうと。人間社会が変容してくるとの予感を示しつつ、その兆候のひとつとして、オンラインでのコミュニケーションの副作用を強調している。特に子どもたちが慣れてくると、脳の認知機能自体が変わってくるおそれも指摘される。アルゴリズムに差別や優生思想が織り込まれてしまえば、つまり医療は人間の営みとして、差別も優生思想も「普遍性」を獲得する。


 反論もある。門脇孝・虎の門病院長は、先進的テクノロジーを使って医療を行う医療者、特に先端医学・医療研究開発に取り組む研究者は今までよりも社会に向けて発信する義務があると提言しつつ、「私はAIがヒトを超えることはほぼあり得ないと思っている」と告げている。むろん単純な話ではなく、「人間には感情や倫理観も含めて、多様な側面があって奥が深く非情に豊かなものです。私たちは常に人間とはどういうものかを考え、考え抜いて深く広く理解する不断の努力を続けていく必要がある」と述べている。


 ただし、この座談会の出席者には、AIに関して「思うよりもずっと早く発展している」(山内敏正東京大学教授)という思いが共通しているように見受けられる。医療倫理の確保、優生主義の排除という視点では、その焦燥こそ共有すべき問題なのだ。


●差別の在り処と認知を進めたコロナ禍


 医療のAI導入が進むなかで、もっとも警戒すべきなのは、性や年齢、経済力などに関する差別をどのように排除するかだが、すでにAIとは無関係に年齢差別や経済的差別は議論が一方的な展開を見せている。本質的に、医療行為中の判断のなかに「差別性」をどう扱うかが実は過大にはなっていたのだが、コロナ禍によってそれは一気に噴出した。不足する人工呼吸器の患者優先度について、年齢差別は許容された。この考えは、高騰する一部抗がん剤の使用をめぐる現場判断でも、経験則として容認され始めてもいる。


 日本だけではない。コロナ禍から焦点化し、灯りが点いたことで、この判断(差別の承認)は世界的な潮流ともなっている。がん専門医の國頭英夫(ペンネーム里見清一)は連載する週刊新潮のエッセイで、昨年12月に米国臨床腫瘍学会が「抗腫瘍薬不足への倫理的ガイダンス」を発表したことを紹介している。安価になった抗がん剤が、安価になったゆえに製薬会社の製造意欲を萎えさせたという背景があり、問題の根は単純ではないが、「医療判断」に差別的判断を求められる可能性は縮小するどころか、コロナ禍を契機に拡大しているという状況もみえる。


●集団ヒステリーという思い込み


 しかし、こうした年齢差別、経済的差別が表面化する以前から、あまりナーバスに意識されずに差別的医療判断が温存されてきたケースもある。性差別だ。


 心因性疾患は女性の疾患のなかで差別的に扱われることが多い。「集団ヒステリー」という症状名は、現実に女性特有のものだとの認識が一般化しているのは否めない。『眠りつづける少女たち』の著者スザンヌ・オサリバンは同書で、スウェーデンの難民家庭の少女たちに広まった「あきらめ症候群」、ニカラグアにいまでも起こる幻視や憑依を症状とする「グリシシクニス」、カザフスタンの旧鉱山地の「眠り病」、コロンビアの女子学生たちに集団発生した「解離性発作」など、「患者」が若い女性であることに共通性がみられる疾患を安易に「女性特有の集団ヒステリー」とカテゴライズすることに批判的だ。


「集団ヒステリーは、私たちが心身症や機能障害について考えたり論じたりする際の間違ったありかたを集めて拡大したような概念だといえよう。その診断は、当然のことのように男性には適用されず、若い女性の戯画として使われる」、「集団発生が起こり、少女が気絶するたびに、何世紀も前の魔女裁判やフロイト流のヒステリーの解釈を呼び起こすような真似を今こそ止めるべきだ」。


 特にオサリバンのレポートで知らされるスウェーデンの難民少女の「眠り病」は、その発症過程にすでに政治的、民族的、人種的差別が内包されている。そこにその内因性疾患を「集団ヒステリー」という差別的な医療判断が追い打ちをかけているという構造は、優生主義が、歴史的にも現在でも何の問題もなかった、ないかのようにふるまっていることを証明するものだ。オサリバンも、「あきらめ症候群の子どもたちは、文化・社会的な影響を身体化している」と結論付けている。


●性差への無関心が呼び込む性差別


 医療に性差別的な実態が蔓延っていることを告発しているのは『寿命は遺伝子で決まる』の著者、シャロン・モアレム。モアレムは、基本的な事実だとして、女性は男性より長生きで、免疫系は強力で、スタミナがあり、発達障害を発症する可能性が低く、多彩な色で世界を見ている、全般的に見てがんとの闘いをうまく切り抜ける、要するに人生のどの段階においても女性のほうが強い、と前提を述べている。その証拠となるいくつかの事例を語ってもいるが、医療の進展過程では女性の特異性について検証されることはなく、その状態のままで多くの医療が供給されていることを知らせている。


 すでにモアレムらなどの論文で、世界的に大きなテーマとして認識が進み始めてはいるが、医薬品開発や検査技術に関する性差への無意識、無配慮に関する弊害と、そこに起因する医療における性差別への鈍感さは、医療者の常識になっているとは思えない。


 睡眠導入剤の薬物動態に関する性差は、多くの医薬品開発が前臨床段階からオス、治験でも男性中心に行われてきたことを示しているとモアレムは語る。投薬の前段階である「診断」でもそのエビデンスの多くが男性診療例から導かれたものだ。外傷性脳損傷では女性の症状ほど複雑で深刻な事態が想定されること、腎臓移植における免疫応答のリスクの多さは男性と比較にならないなど、医薬品の効能効果と安全性、自己免疫疾患リスクなど、健康に伴う多様なファクターで性差はいくつもある。


 ここまで述べてきたように、性差、年齢、経済の要素に伴う医療的差別は未だに解消されていないものが多い。優生主義から脱皮したかのような議論が進める段階ではない。(了)