ウエブメディア『東洋経済オンライン』で1日に配信された「『週刊誌を訴える』芸能人続出が暗示する“臨界点”」という記事が興味深かった。木村隆志というコラムニストの記事。松本人志氏や伊東純也氏の問題で、週刊誌と「書かれる側」の対立が過去になく先鋭化する中で、2月27日にはデヴィ夫人が昨年に出た記事で名誉を棄損されたとして『週刊文春』を刑事告訴、翌日には元ドリフ・仲本工事さんの妻・三代純歌さんが『週刊新潮』『女性自身』『週刊女性』3誌の版元を相手取り、名誉棄損による損害賠償を求めて提訴した。いずれも過去、事実とは異なる記事を書かれたとして、雑誌や版元の責任を問う動きだ。
木村氏の記事は、最近のこうした動きのほか、松本氏vs.文春の問題で、東国原英夫氏や橋下徹氏、木下博勝氏、せいや氏ら過去に文春との訴訟を経験した著名人がさかんに持論を発信し、一方で元文春編集長の木俣正剛氏や元『週刊現代』編集長・元木昌彦氏のような週刊誌サイドの人々の記事も出て、議論が「ヒートアップ」する状況に着目する。そして「書かれる側」の反撃がここまで激化した背景に、ネット世論の追い風があると指摘する。
雑誌社の事情も知る木村氏は、紙の雑誌が衰退を続けるなか、各誌ともオンライン版の収益に軸足を移し、そのことがPV(ページビュー)を稼ぎやすい芸能人スキャンダル報道の過激化につながっているとして、このままでは雑誌記者の側も摩耗・疲弊して、書かれる側と書く側双方が「心身を病んでしまう」リスクに直面する、と警鐘を鳴らしている。
私のように芸能取材にノータッチ、社会派のテーマだけで記者活動をしてきた立場から言えば、週刊誌ジャーナリズムは昔から「硬軟2本立て」だった。たとえば文春にも、硬派・社会派を追う記者と、芸能ネタを追う記者がいて、前者には立花隆氏の「田中角栄金脈研究」(『月刊文藝春秋』)や有田芳生氏らの統一教会追及のような、時に新聞報道をも凌駕した実績がある。しかし一方で、硬派ネタは手間暇がかかる割に雑誌の売上げに直結せず、収益の面では芸能人・著名人ネタが屋台骨を支えてきた実情もある。
今後「芸能人スキャンダル報道」に訴訟リスクがどんどん高まれば「硬軟2本立て」のスタイルは継続困難になるだろう。そして真っ先にそのあおりを受けるのは、「硬軟」の「硬」のほうだ。労多くして売上げやPV稼ぎに役立たない硬派の「取材モノ」はこれまで以上にやりにくくなってしまう。新聞やテレビの「報道機関」が忖度報道で去勢されてしまったなか、雑誌報道まで牙を失うのは社会的な損失である。かたや芸能人・著名人のニュースはウエブ記事ではなお一層「花形」であり続ける。ただし、独自取材によるスキャンダル追及に誰も手を出さなくなれば、テレビでの発言やSNSをただ垂れ流すだけ、手間もコストもかけずに済み、訴えられるリスクもない「コタツ記事」だらけになるだろう。
今週の『週刊文春』の「松本問題『私はこう考える③』」という記事で、元日刊スポーツ社長の三浦基裕氏が「スポーツ紙のコタツ記事が恥ずかしすぎる」と古巣の現状を嘆いている。結局のところ、「文春砲」などのスキャンダル報道が近年、すさまじい爆発力を持つに至ったのは、他メディアが後追いばかりになったことと、SNSやネットニュース・コメント欄の情報拡散力によるもので、「書かれた側の被害」という点で考えると、これら「後追い組の無責任な報道」の影響も決して見逃せない。なにせオリジナルの記事よりもコタツ記事のほうが10倍も20倍も多いのである。松本氏問題で雑誌批判をする東国原氏らにしたところで、ある種コタツ記事同様の「便乗商法」と言えなくもない。自らは何も調べもせず視聴率・PVを稼ごうとするメディア・個人に比べれば、訴訟リスクを背負ったうえ、足を使って記事を書く週刊誌記者のほうが、私にはまだ健全に見える。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)、『国権と島と涙』(朝日新聞出版)など。最新刊に、沖縄移民120年の歴史を追った『還流する魂: 世界のウチナーンチュ120年の物語』(岩波書店)がある。