●科学を標的にする新たなステージ
コロナ禍の2020年から2023年頃までに、医学医療関連のダイバーシティ的な図書を読む機会が増えた。読書姿勢の好みの問題といわれればそれまでだが、しかし風向きは確実に違う。どうやら医学関連の世界でもジェンダーバイアスに対する正視や、フェミニズム的観点から医学を含めた科学を見直す動きが急ピッチで進み始めているような印象を強く受ける。時代の流れ、ではあるが、奔流。侮ることは許されない。
私は活字が好きだが、系統だって何かを読み込むのは苦手。行き当たりばったり、手の届くところにあれば何でも読んでしまう雑読フーテンである。読書時の姿勢も6割くらいは寝そべりだ。
そんな私でも、このところの私の雑読分野に前述したようなフェミニンな風(今度は流れではなく風)が吹いているのを実感しているのである。そよ風ではない。かなりの強風。それも科学を中心にした専門分野に特徴的に感じられる。むろん、問題が問題だけに、それも読者の私が男だということで、自覚的には礫(つぶて)さえ感じる肌触りだ。痛い。私は科学者ではないし、矢面に立たされているわけではないが、胸が痛むのを否定することができない。心地よくはないし、科学者でもないが読んだことは記しておきたい。
ことに、このところの雑読で目にするフェミニズム的思潮は、戦後、60年代あたりからスタートした第2期フェミニズム運動が、「産む、産まないは女性の自由」などを旗印にしたウーマンリブの政治的プロパガンダが象徴するように、ムーブメント的であり、あるいは70年代の全共闘的な密度の粗さがあったのに対して、緻密で構造的な形をとって、よりリアリティを強めている。実際にはより政治的なスローガンとして機能していることにも気づかされる。
●敵は「白人男性」スタンダード
第2期フェミニズムのスタートに粗さがあったと思うのは、これもまったくの外野席に座っている家父長制オヤジの戯言だと思われても仕方がないのだが、例えば、「産む、産まないは女性の自由」が、障害者差別につながっているという当事者たちの厳しい批判にあって、「そうではない」メッセージをどう発したのかが明確にはなっていないことが私の印象の中にあるからだ。
蹉跌とまでは言わないが、父権主義、いわゆるパターナリズムとしての「敵」を攻撃するために、パターナリズムの一方のスローガンとして機能してきた優生主義の批判を負う羽目になったことは確かである。矛盾はあった。
その意味では現在の、主に科学の世界におけるフェミニズム的反撃は、欧米が中心だとはいえ、科学の研究の場面、成果物の運用、それによる利益分配に関して、「父権主義」と大雑把に括るよりも、「白人男性主義」をスタンダードに捉えることでより具体的な像が結べるようになり、優生主義的な色合いは消えた。「白人男性」を敵とみなすことによって、人種的、経済的なバイアスまで、そのウィングを広げることができている。
主として(現在では)白人女性が叫ぶ「告発」は、その多くが、「父権主義」を支持する女性、アフリカ系アメリカ人、ヒスパニックを含む南米系有色人種、アジア系人種にまで適用できる汎用性を持つものであり、それ自体がかつてなかった政治的メッセージとして機能しているのだ。
ヒラリー・クリントンが2015年の米大統領選でドナルド・トランプに敗れたとき、「ガラスの天井」を破れなかったと語ったが、私の雑読の中での現在進行中の追体験では、ガラスの天井はもうすぐ割れてしまうという印象がある。
相手のトランプが絵に描いたような「父権主義=白人男性主義」者のような印象があることも、クリントンの言葉にリアリティを持たせたが、ジェンダーバイアスに対する戦いは実際には、懐古的なフェミニズムから脱却しつつある。ガラスの天井を破ればよいと考えているだけだは埒が明かない時代に入ってきた。
●男たちは振り返ってみよ
ジェンダーバイアスそのものに対する「気づき」を活字にしたものを目にする機会はかつてないほどだ。その「気づき」は、知らなかった、わからなかったというより一歩前に進んで、男性側の「否認」の感情をこじ開ける方向性を確かにし始めている。
例えば、3月11日付朝日新聞夕刊に、「男子が散らかした本 片づけたのは大半が女子」という見出しの記事が載っている。東京都内の小学校教諭がジェンダー平等を低学年の子どもたちに教えるために話す実例だそうだが、その不公平の記憶が私にはない。しかし、実態はその教諭からみないと見えなかった。自身の振り返りを含めて。
この教諭は同性愛者であり、そのために受けた家族からの差別なども記事で触れられているが、ジェンダー平等の話と性自認差別との話がつながっていく過程は記事として成功していない。しかし、低年齢期から男女の役割分担が作られているという視点は重要だ。女子に片づけを押しやっていた「不公平」の記憶は私にはないが、私が否定してしまうことには無理がある。記憶がないからだ。できれば当時のクラスメートの女子に聞いてみたい。そんなふうに、かつて低学年男子だった男性たちに思わせる、振り返らせる必然は、大きい。知らんけど、では済まぬ。
●追い出された哲学の世界
科学とは親戚だと私が考えている哲学の世界でも、性差別の状況はまことに厳しいものがあることを、私は眠る前の布団の中でのぬくぬくとした雑読で知った。哲学史・倫理学者の高井ゆと里は『ちくま』3月号で、哲学研究の環境では男性ばかりで女性がいない、のは、「ちがう、いないのではない。追い出されたのだ」と語っている。
その「排除」が凄まじい。「男性しか出てこない哲学史を学ばされ」、「女性蔑視的なコミュニケーション様式を横目に」、「男性の院生たちが作る情報ネットワークからはじかれ」、「学会で年配の男性研究者から威圧され」、「公募において職能を見くびられ」てきた。
「性別は、哲学研究と関係があり続けた」と高井は括る。そのうえで、「フェミニスト哲学」といった研究分野が生まれ始めていることに「違う」と異議申し立てをはさむ。それは「根本的に間違って」おり、それは研究ではなく「苦労」でしかないと。私は布団の中でこれを読んで、当然のことながら眠れなくなった。どこかに「本は読む」が、「片づけない」性のほうに自分が属していることを自覚させられたのである。
私は学者ではないが、一応、医療医薬系専門誌の編集に携わってきた。同僚や部下に女性はかなりの数がいたけれど、どこかに排除の心理は有していたような実感を現在は自覚している。具体的に記憶しているのは、同じ取材チームにいた部下2人が恋仲となり、私に結婚の報告をしたときのこと。私が上長にその報告を上げると、彼は「女の子のほうを辞めさせるか、配置転換するしかない」といきなり言った。辞めさせることはできない、配置転換も慎重に考えるべきだと私は一応言ったが、そのときにはすでに女性のほうを「どうするか」ばかりに気持ちが行った。
上長に検討時間を求めて数日後、私は彼らに「配置転換ではなく、ひとりを担当替えする」ことを告げた。彼らは激しく抵抗し、そして一緒に社を去ってしまった。当時は、周囲への配慮を彼らに求めているといった言い訳が私にはあった。しかし、よく思い出してみれば、彼らがどんな仕事をしたいか、どのように働きたいかを知ろうともしていなかった。2人の意志、意欲、理想といったものを私は排除した。
●危機感を共有する意識
そうして自らを考えると、小学校低学年の頃から私には一定の「父権主義」が身についていたことを改めて思い起こす。例えば、父方の祖母は勝気な性格で働き者だったが、祖父が大手船会社のサラーリーマンを定年退職して、まったく働かなくなってからは、祖父に怒ってばかりいた。健康な祖父があまりゆとりのない暮らしの中でのんびりと釣りばかりしているのは、孫からみても奇異ではあったが、祖母が怒鳴り散らすと祖父は「ヒステリーだから病気だ」と相手にしなかった。何だかそれで納得してしまったのは事実だ。
また、50年ほど前によくいわれた若い女性の「起立性低血圧」は、当時「いい女アピール」だと私は揶揄していた。最近では、片づけることが苦手な若い女性が「発達障害」と診断されて安心するという精神科医の本を読んで、若い女性の「心因性」があまり変わっていないとの印象を二度押しされたように思った。
根底にある女性への思い込みのようなものは、ほとんど変わっていなかったことが追認できる。根本にあるのは「女性」に対する男の画一的で強固な認識だ。パターナリズムのおかしさは理屈では理解できても、生理的にインプットされた「記号的認識」を変換するのは難しい。変えなくてはならないが、険しい作業だ。
『眠りつづける少女たち』の著者、スザンヌ・オサリバンは、スウェーデンの難民家庭の少女たちに広まった「あきらめ症候群」、ニカラグアにいまでも起こる幻視や憑依を症状とする「グリシシクニス」、カザフスタンの旧鉱山地の「眠り病」、コロンビアの女子学生たちに集団発生した「解離性発作」、米国北東部の地方都市で起きた女子高生たちを襲った「ル・ロイ事件」など、「患者」が若い女性に共通性のある疾患を、「集団ヒステリー」とか、「集団心因性疾患」と呼ぶことに異議を示し、「集団社会性疾患」だという。
よくよく考えていくと、女性たちのこうした生理的(にみえる)現象は、「危機感の共有」だったり、悲観の全面的な引き受けだったりするような気がする。彼女たちは善意で存在している。
集団ヒステリーとして片づける粗暴さに私たち男性は立ち止まって気が付き、うなだれる、しかないかもしれない。今、目の前に「読んだ本くらいアンタたちも片づけなさいよッ」とにらみつけるクラスメート女子が立ち現れている。(幸)