●ジェンダー主義に後れをとる医科学
雑読を進めていくと、現状の「科学とフェミニズム」、あるいは、新たな局面ごと(夫婦別姓問題や待遇差別など)のフェミニズムに基づくレボリューションが起き始めていることを実感する。
NHKの連続ドラマ、いわゆる朝ドラの4月からの主人公は日本で初めて女性として弁護士になった人がモデルだというが、伊藤沙莉演じるヒロインが、男たちや母親の発する父権主義的な物言いにいちいち疑問の表情を浮かべるのが定番。ドラマでの主人公は、今のところ、疑問を投げるだけで、周辺と折り合おうという努力を重ねている。
しかし、男装ながら父権主義に真っ向から立ち向かう同級生に、厳しい批判を投げつけられてもいる。ドラマは現在進行中時点で戦前の話だが、この構図はどこか戦後のフェミニズム・ムーブメントをなぞる匂いがする。声高に正面から父権主義的な発言、姿勢、態度を批判するだけの時代と、そこから構造的に改革を求めるために、父権主義の専横や横暴が導いた具体的なネガティブなエビデンスを重ねて、説得力とともにフェミニズム的改革を志向する現況の違いを浮かび上がらせる。
前回はそうした流れ、エビデンスを重ねる状況のなかで、科学と世界が混ざり合う哲学の世界でも告発的な見解が存在していることを紹介した。哲学史・倫理学者の高井ゆと里はいくつかの自らの体験をまとめつつ、「性別は、哲学研究と関係があり続けた」と断乎としたメッセージを伝え、そのうえで、「フェミニスト哲学」といった研究分野が生まれ始めていることに「違う」と異議申し立てを挟んでいる。それは「根本的に間違って」おり、それは「研究」ではなく「苦労」でしかないと切り捨てている。
●先行する哲学のジェンダー論
私のような半端な雑読フーテンは、「フェミニスト哲学」そのものを高井のエッセイを読むまで知らなかった。なので実際、高井がフェミニスト哲学「研究」なるもの自体が「根本的に間違っている」と断じている根拠についても知らないのであるが、とはいえ「それは違う、根本的に間違っている」という叫びのような厳しい異議申し立てについては関心を持たざるを得ない。
では、「フェミニスト哲学」とは何だ。素人としては『世界』4月号で、「男性たちは、本当に哲学をしてきたのか? フェミニスト哲学が問うていること」というタイトルの小手川正二郎の論文がテキストになる。小手川は、哲学の概念分析手法を用いてジェンダーにまつわる諸概念(ジェンダー、性自認、性的モノ化)を分析し、広範な社会的問題(性差別など)を哲学的に論じることなどを総称して、一般に「フェミニスト哲学」と呼ぶ、と解説しているが、哲学そのものに疎い私にはこの程度の「概念解説」を理解するのが精いっぱいだ。
だが、直観として「広範囲での取り組みを総称して」の、「フェミニスト哲学」ということに対して、高井の嫌悪感が生まれているのではないかとも思える。違うかもしれない。研究ではなく「苦労」だというのもわかるような気がする。私の身勝手な解釈はたいへん無責任だということは自覚しつつ。
小手川は戦後のフェミニスト哲学の端緒を、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』に求めている。ボーヴォワールはこの冒頭で、「女性とは何か」との問いから出発して、男性はハナッからこういう本を書く動機などありえず、書かなければならない性の存在を知っているのか、知らないだろうと発している。私の意訳は乱暴だとは思うが、しかしそういうことだと納得したほうが話は早い。男性であるなら、自分たちがどんな世界にいるかを書く必要はなかったでしょうが、というシンプルな問いかけだと。
私は「フェミニスト哲学」の出発を、男性が思想から具体的な制度設計までの構造を「ごく自然に」男性中心に考える「身に着け方」への問い、疑いであると思う。シスジェンダーの男性は、「人間として」物語を考えるが、それは実はどこまで行っても男性であって人間ではないよねって。要は、ジェンダーバランスが必要などと飛ぶ前に、身体として男性そのものを公認する本質から見直すということ。
ただ、私はジェンダーバランスを意識した動きを否定はしない。欧州を中心に忘れられた女性美術家の作品を掘り起こす動きが活発化していることを、私は3月12日付朝日新聞で知った。「芸術の歴史をジェンダーに平等な形に書き換える」というリール美術館(フランス)学芸員の目標は正しいとか正しくないとかの話ではなく、ごく当然のありようである。
●死の訪れは平等ではない
こうして考えると、哲学や美術という世界で進む「ジェンダー主義」が、科学である医学、それを社会適用する医療が少し遅れをとっている印象が強まる。哲学では男性主義、父権主義が「男性の身体的」根源性であることに言及している。その身体性に「ジェンダー」の認識を真っ先に持つべき医科学が、今でもほとんどの場面で男性の標準を「人間の標準」として当てはめることに躊躇をしていない。
『寿命は遺伝子で決まる』を書いたシャロン・モアレムは、医科学が男性を標準として考えてきたことをわかりやすく説明している。
モアレムは基本的な事実だとして、女性は男性より長生きで、免疫系は強力で、発達障害を発症する可能性が低く、多彩な色で世界を見ている、全般的にみてがんとの闘いをうまく切り抜ける、要するに人生のどの段階においても女性のほうが強い、と述べて、「なぜなのか」と問う。現状で私たちが知っていることは「女性のほうが長命」であるという統計学的な知識だけだ。そこから私のような一般人は、何かそこには生物学的というか科学的な根拠があることを想像しているだけである。
モアレムは、男性と女性の染色体の違いに関心を向け、「遺伝子レベルの選択肢と細胞の協力作業、XY男性はこの両方を欠いているために病気になり、さまざまな厳しい状況に苦しむことになる。女性は多少のことでは揺るがない遺伝的素質を持っているので、男性ほどにはこういった病気になることはない。遺伝的素質のおかげで、女性は遺伝子レベルで格段に優れた選択ができるのである」と述べている。
詳細に触れるのは避けるが、モアレムは女性がX染色体を2本持っているとして、男性との大きな違いは、もう1本余分な染色体によって得られる多様性とスタミナこそが、女性に生存の優位性を与えているという。
「厳しい状況に陥っても、女性はX染色体を2本持っているおかげで平均的な男性よりも耐えて打ち勝つことができるし、健康に生きていくこともできる。世界中どこで生まれようと、どんな境遇にあろうと関係ない。もし、過去から学べることがあるとしたら、それは、同じ困難にぶち当たっても死は男女平等には訪れない、ということだろう」
●男性のレンズだけでの医療
そしてモアレムは、著書の後半で、医科学の性差への無意識に関して課題を整理している。こうした認識はモアレムが最初ではないが、それでも現状は、多くの創薬研究者、製薬企業、臨床医などの関係者が意識を統合している段階ではない。例えば、彼が指摘している睡眠導入剤の薬物動態に関する性差は、多くの医薬品開発が前臨床段階からオス、治験でも男性中心に行われてきたことを示すものであり、投薬の前段階である「診断」でもその多くが男性診療例から根拠が導かれたものだ。
このような科学からの発信は、女性特有の疾患メカニズムを明確にするだけでなく、ジェンダー視点も重要になることを示唆するものだ。例えば、女性の前立腺がんの可能性はゼロではない。外傷性脳損傷では女性の症状ほど複雑で深刻な事態が想定されること、腎臓移植における免疫応答のリスク、自己免疫疾患リスクの多さは男性と比較にならない、なども臨床の現場で共有されているとは言えない。
「女性の健康の奥深くまでとことん追究するには、研究対象とする女性を増やし、女性と男性の研究結果を有効に比較する方法を見つけなければならない。(中略)女性の病気を治療したり調査したりする際には、新しい視点で得られた知見をただちに取り入れることも必要だ。医学研究でいえば、生物学的男性のレンズを通してだけ女性を考察する。そんな調査研究をしてはならない」と彼は言う。
こうした前提に立ちながら、次回から、医学の性差別の歴史を見ていこう。(幸)