5月31日は世界禁煙デー、31日から6月6日までは禁煙週間だという。東京五輪に向け、さまざまな喫煙規制が強化される可能性も指摘されている。そんなわけで今週の週刊新潮は《「世界禁煙デー」が火をつける 喫煙弾圧は正義か》という記事を載せた。言ってみれば、愛煙家たちの泣き言特集である。
この件では、私も喫煙者として、愚痴り出すと止まらなくなる。世の趨勢は分煙の徹底より、喫煙者に圧力をかける方向に進んでいる。「吸うのは勝手だが、他人に迷惑はかけるな」。それが原則のはずなのに、喫煙所は減る一方。煙が漏れ出して不快なら、完全防備の喫煙所を増やせばいいだけだ。過去何十年、喫煙者はそれだけの税金を納めている。
そもそも私のような世代がニコチン中毒になったのは、JTが専売公社だった時代。明らかに国家の責任である。麻薬の蔓延にたとえるなら、末端の中毒患者より、売人や元締めのほうが重罪のはずだ。誰かひとりくらい、「こんな私に誰がした」と国家賠償請求訴訟でも起こさないものか、と思うほどである。
喫煙所を徐々に減らせば、喫煙者は自然と減る——。そんなやり口は、公衆便所を減らして、尿意・便意をコントロールしろ、というくらい、野蛮な話である。私だって禁煙できるならしたい。だが、それができない現実を「意志薄弱」「自己責任」などと非難されると、猛烈に怒りが湧く。
新潮の記事では、作曲家のすぎやまこういち氏が「世界で初めて禁煙運動を展開したのはアドルフ・ヒトラーだ。禁煙運動は全体主義の走り」と言い、宗教家の山折哲雄氏は、禁煙運動家の横暴さをヘイトスピーチにたとえた。漫画家の黒鉄ヒロシ氏は五輪に便乗した禁煙の“押し売り”は「欧米列強の植民地化政策に唯々諾々と従うようなもの」だという。何にせよ、みな負け犬の遠吠えである。
週刊ポストでは、須田慎一郎氏が長らく《「美しい分煙社会」の作り方》という連載を続けている。今週で第46回。北陸新幹線新駅の分煙状況を視察したり、受動喫煙防止対策条例を準備する北海道美唄市を訪ねたり、こちらは大まじめにきめ細かく実例をチェックしつつ、“より良い分煙”のあり方への検討を重ねている。
いつもは読み飛ばす連載だったので、改めてバックナンバーをたどると、こんな一文があった。いち早く路上喫煙禁止条例を定めている東京・千代田区担当者の言葉だ。「ルールを定めて監視という現場での対症療法的なやり方だけではなく、未然の防止策をどう働きかけていくかが重要」。
は? 何ですと? 思わず頭に血が上った。何年も前の話だが、私は千代田区の“老人監視団”に喫煙所からわずか路上にはみ出したがために取り締まられ、罰金を巻き上げられている。降り立った駅周辺に喫煙所が見当たらず、やっとのことで見つけた雑居ビル駐車場内にある喫煙コーナーであったが、ビルの関係者でないことに遠慮して、1〜2歩離れた場所にいただけだ。人通りの全くない裏通り。だからこそ、区役所のゲシュタポ軍団は何百メートルも離れた遠方から、私を捕捉したのである。
私は怒りを押し殺し、駅からずっと喫煙所を探し歩いたこと、駅周辺だったら、どこに喫煙所があったのか、と質問した。だがゲシュタポの面々はみな、首を傾げるだけ。知らなければ指導も誘導もできるはずがない。「未然の防止策」ですと? 臆面もなくそんなセリフを吐けるとは、肺がきれいなだけでなく、さぞ強靭な心臓をお持ちなのでしょうね。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町:フクシマ曝心地の「心の声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。