●サブリミナルメッセージ

寿命は遺伝子で決まる』を書いたシャロン・モアレムは、「生物学的男性のレンズを通してだけ女性を考察する。そんな調査研究をしてはならない」と語っているが、それは生物学的に2つの性が違うことを、医療現場や医療スタッフが念頭に置く必要を要請していることにとどまっている印象は避けられない。


 その文脈では、医科学が性差を無視してきたとも受け取られかねないが、実は医科学は2つの性に関して科学的なアプローチを重ねてきた歴史は存在する。それも非常に積極的に。だが、その科学的態度は、性の違いがあることを根拠に父権的主義的な「役割分担」を肯定することの証明に重点が置かれてきた。重点というより、その役割に対する「科学的根拠」を提供してきたというべきかもしれない。


 その意味では、モアレムの告発を言葉から受ける印象を盾に逆読みをしてはならない。モアレムを含めて、医科学を今日的にアップデートしている医療者は主流になりかけていることを、保守層の医療者たちはまだ気が付いていないか、気が付かないフリをしている。


 性差は、アップデートされた今日的言葉で理解をすれば、科学的には「その違いに対する理解を深め」、社会的には「利益も不利益も同等」なのである。


 つまり、70年代のウーマンリブ的なフェミニスト運動に対して、21世紀以降のフェミニズムの潮流は本質的に、科学が証明してきた「役割分担」を科学的に無効にする動きが底流に存在する。「産むか産まないかは女が決める」といった性に基づいた政治的なスローガンを解体して、なぜ2つの性があり、その性が科学的根拠のもとでどのような役割を果たすかを、社会的構造の中で解きほぐし、再編する試みと並走するのが現代のフェミニズムである。


 夫婦別姓の要求やクオータ制導入の動きはきわめて率直な社会運動であり、前向きにとらえるべき課題ではあるが、そのことだけ、つまり「男女平等」といった焦げ臭い立脚点だけで主張する時代ではなく、性の違いに関する旧来の科学的根拠自体を壊すことから始めなければならないという前提を置き、理解を進めなければならない。女性も男性もそれをわからなければならない。また実際の話、「違い」自体を議論する問題ではない。


●ステレオタイプの形成


 この理解を進めるために有用な雑読は、英国の社会学者マリーケ・ビッグが著した『性差別の医学史』である。


 ビッグは「ホルモンを解放せよ」と題した章で、女性に開かれた医学の可能性は、女性の身体に関するジェンダー化された前提である「男性に支配される側」だという概念によって妨げられてきたという。そしてそれは医学研究の「基礎」になっていると。少し詳しくみてみよう。


 男女の生殖系の違いは長い間、女性を抑圧する生物学的根拠としての役割を果たしてきた。これまでずっと、こうした医学研究は男女の社会的役割をはっきりと区別するためにその成果を封じられ、明確に性的役割を補強する結果になるようにデザインされてきた。


 その結果、男女の生物学的な違いには、単に医療分野において前提とみなされるだけでなく、男女に与えられた役割に関する「科学的な」エビデンスを提供するための医学研究と、当然ながらそれが既定の結論につながるといったことを通じて、世の中のステレオタイプを形成することとなった。


 性の違い、とくに身体的な性の違いを、私のように専門家でもない一般人が「科学的に」理解する方法を、旧来の第2次性徴的理解からスタートすると、やがてパターナリズム的な性差の「感覚的な」誤謬につなげていくリスクに戸惑う破目に陥る。ビッグが言う「性的役割を補強する結果になるようなデザイン」は、「感覚的な」認識に落とし込まされ、そこから出発してしまう。典型的には、「できる」「できない」の罠だ。


 男性にできて女性にできないことの列挙は医学的研究を「デザインした」ものである。またあらかじめ知らされるデザインもある。子どもを産む性であることを、女性は幼い時から植えつけられる。「産むことができる」性は、「自由に生きることはできない」という性でもあることがインプットされる。性教育は、デザインされた性科学が基本なのではないかとビッグは疑問を挟んでいる。「違い」を知ることが、できる、できないにつながり、女性は将来こうあるべきだというサブリミナルメッセージではないかと、ビッグは疑っている。往々にして「産む性」であることのメッセージを少女時代に受け取り、女性の大半は「それによって尊重される」ことを無意識のうちに受け取り、それによって社会に同調するように訓練される。


●性にこだわらない世界


 男性に目を向ければどうだろうか。第2次性徴で「精通」を経験すれば、教育の現場ではそれが否応なく男性であることを認識するよう訓練を受ける。同時に、一方の性を保護する役割も教えられる。「訓練」はやがて、戦争への準備も加わるだろうし、労働の主役としての役割も学ぶ。「できる」ことばかりを学ぶ。「できる」の能動性に対して、「できない」の受動性は、教育の現場で医科学の成果として、疑問も生まずに正当化されるのだ。


 私は男性だが、年齢的には教育の現場で性教育を科目として受けた世代ではない。それでは自らの性を何で学び、何を刷り込まれたのだろうか、つまりサブリミナルメッセージは何だったのかを考えてみると、実はあまり明確な記憶はないのである。


 これはどういうことだろうかと思い返すと、男性の性的成長と学習はかなり抽象的なもの(精通は多くは夢を伴う)であり、女性の生理という明確で見えやすい具体性を伴わない。「それによって尊重される」という気付きはないのである。そのため、社会性というその後の身に付きやすい「訓練」で性差別を知っていくのだと思える。圧倒的な差別性への感受性は、「生理」という科学的根拠がないために、抽象的な世間との同調で培われる。


 7歳から12歳まで、私は祖父とその娘である母と、妹の4人家族で暮らした。祖父は私にいろんなことを教えたが、男としてかくあるべきといった話を聞いたことはなかった。彼は過去、軍人で第1次大戦には海軍の兵としてドイツ軍と地中海で戦っている。明治生まれとしては背が高く、頑健な体をしていたが、娘とその子どもの孫との暮らしでは経歴はおくびにも出さず、温和に日々を過ごした。また自分のことはすべて自分でした。家事をすることについてもこだわりがなかった。


 兵隊時代は楽しかったらしく、祖母と新婚時代を過ごした台湾での暮らしをよく語った。端々に祖母を心から愛していたらしい言葉が滲んで、少年の私にもそれは伝わった。貧しい暮らしだったが、私の人生の中ではもっとも穏やかで楽しく優しい日々の記憶だ。


 12歳の終わりに父母が和解して都会に移り、祖父との生活は終わったが、同居を再開した父には労働組合の専従として活動家だった前歴がある。なのに「男として、男たるもの」で始まる話が好きで、手柄話や自慢話が多く、私は父との暮らしが疎ましかった。


 明治に生まれ、軍人だった祖父と、労組活動家あがりの父の、私の中にある対照的な人物像の違いは、私の成長に大きな影響を与えたことは否定できない。そこにあるのは人間としての生き方と、男としての生き方の違いがあると私は今になって気付いている。


 そして、「男性性」が生きるよりどころだった父の抑圧的で窮屈な人生観に対して、人間として生きた祖父の自由という平野の広さに憧れる。そして「軍人」という男性性の中で、祖父がどうしてその捉われから脱したのかを考え始めている。祖父が自由に生きたのは、性による自らのアイデンティティーの束縛から、いつか抜け出たのではないかと。(幸)