遠い昔、全国紙の社会部記者をしていたにもかかわらず、私は殺人事件のニュース判断に自信がない。どんな事件を大ニュースと捉え、どんな事件を受け流すか。もちろん、被害者がひとりの事件に比べれば、2人、3人と多いほうが大事件なのはわかっている。家庭内や酒席でのケンカから人を殺めてしまったり、暴力団の抗争で犠牲者が出たりする「背景に深みのない殺人」がベタ記事で終わりがちなことも、経験上理解する。ただ、スケールや猟奇性でよほど明白な事案でない限り、週刊誌やワイドショーで1~2週騒ぐか騒がないか、その微妙な線引きは、正直よくわからずにいる。


 今週の『週刊文春』『週刊新潮』は両誌とも、上野の飲食店夫婦が殺害され、栃木県那須町の川原でその遺体が焼かれ見つかった事件をトップで扱っている。タイトルはそれぞれ「宝島夫妻 長女の内縁夫を暴発させた上納金圧力と米国の次女」(文春)、「『那須焼損遺体事件』首謀者は『宝島さん妻』のパシリだった 『娘の内縁夫』が暴発させた憎悪」(新潮)。この事件が注目されるのは、2人の遺体がまず中途半端な「燃えかけ」の状態で見つかった異常性。そして、直後に出頭した容疑者が、事件の首謀者でも末端の実行犯でもない「つなぎ役の男」だったことによる「推理・想像の余地」にあるのだろう。


 ところが両誌発売日の3日前、事件全体の首謀者として、被害者夫婦を支える仕事上の部下、夫婦の娘の内縁の夫でもある関根誠端という容疑者を当局が逮捕。被害者と家族同然の人間関係の中で起きた事件、という構図が概ね明らかになった。文春記事の書き出しは、取材記者がとある人物から「犯人は関根です」という証言を引き出す描写から始まっている。その取材はまさに関根容疑者の逮捕とほぼ同時刻。取材班が独力で手に入れた重要証言が「幻のスクープ」に終わった悔しさが行間に滲んでいる。


 文春、新潮とも、容疑者には仕事上のボスだった夫婦への恨みがあったという背景を書いていて、その内容にさほど違いはない。逮捕者の順番がたまたま「謎解き風」の関心を引き寄せたが、いざ全体像がわかれば、金銭欲と処遇への不満という「ありがちな動機」による殺人だったわけである。そうなるともう「事件ニュース音痴」の私は「関心の持ちどころ」を見失ってしまうのだが、一般の読者はどうなのだろう。より詳細な当事者間の関係を今後も続報で知りたがるのだろうか。


『週刊文春』の書評欄「文春図書館」にはここ数日、一部のSNSで議論を呼ぶ新刊『明日、ぼくは店の棚からヘイト本を外せるのだろうか』(福嶋聡氏著)を取り上げた。ジュンク堂書店員の著者は、いわゆるヘイト本に批判的立場だが、この手の本を書店から排除して人目から隠しても、人々の差別感情を撲滅する根本的解決にはならないとして、むしろ両論を議論の対象とする「書店=言論のアリーナ(闘技場)」論を主張する。つまり、ヘイト本は今後も店に並べていく立場だ。


 しかし、リベラル系のSNSを見る限り、この「アリーナ論」は総スカンだ。私も(この本は未読だが)拒絶反応を抱く。外国人や障碍者、性的マイノリティーなどの人々にヘイトが蔓延する現状を私は憂慮する。個人的に「差別されている側」全般に寄り添うのかと言えば、必ずしもそうではない。つまり、内心の思いはケースバイケース、さまざまあるのだがそれはそれ、「多数派の側」にいることを笠を着て、公然とヘイトを撒き散らす輩には例外なく嫌悪が湧くのである。たとえ内心好ましく思ってない対象でも、そこに弱い者いじめ的な攻撃する連中には、耐え難い「心根の卑しさ」を感じるのだ。「内心の感情」がどうであれ、世の中には公然とやっていいことと悪いことがある。たとえ表層的な対処であれ、それを排除することで世の中はだいぶマシになる。書店の商品陳列もそのひとつだと私は思っている。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)、『国権と島と涙』(朝日新聞出版)など。最新刊に、沖縄移民120年の歴史を追った『還流する魂: 世界のウチナーンチュ120年の物語』(岩波書店)がある。