(1)日本史最大の謎
継体天皇(第26代)の生没は、一応は、450年(允恭即位39年)~531年3月10日(継体即位25年2月7日)となっています。在位は、一応は、507年3月3日(継体即位元年2月4日)~531年3月10日(継体即位25年2月7日)です。生没年月日も在位年月日も、「一応」で、「?」付です。
第1代天皇~第25代天皇で、「確実」に存在が認められているのは、雄略天皇(第21代)ぐらいではなかろうか。「ほぼ確実」には、仁徳(第16代)、允恭(第19代)、安康(第20代)となります。他は、「たぶん存在したかも」「存在していない可能性が大」「フィクション」というレベルです。
継体天皇(第26代)が重要なのは、その系統が現在の天皇に至っていることです。むろん、神武天皇(第1代)から皇統は繋がっていると信じている人もいますが、多くは「昔、昔の大昔のことは、よくわからないものだ。でも、継体天皇(第26代)からは、微細な点はともかくとして、現天皇(第126代)まで繋がっている」と考えられています。
ということは、武烈天皇(第25代)と継体天皇(第26代)の間には、「断絶」があると考えられているからです。ただし、「断絶」の意味がアヤフヤで、「完全断絶」から「不完全断絶」まで、いろいろです。
戦前までは、「断絶」はタブーでした。戦後の1950年代になって、続々と「継体王朝新王朝説」が発表された。その後、学会では、甲論乙駁である。
そんなことで、「おとぎ話」の日本史ではなく史実の日本史を考える場合、継体天皇が最重要なのであります。でも、謎だらけです。
(2)応神天皇五世の孫(ひこ)
「断絶」の最大根拠は、応神天皇(第15代)から継体(第26代)の中間に「4代」あることです。
『古事記』の武烈天皇(第25代)の箇所に、現代訳で、次のようにあります。
「応神天皇(第15代)五世の孫(ひこ)、袁本杼命(をほど・の・みこと)を近淡海国より上り座さしめて、手白髪命(たしらのか・の・みこと)に合(めあわ)せて、天の下を授け奉りき」
また、『古事記』の継体天皇(第26代)の箇所でも、「応神天皇五世の孫(ひこ)」とあります。
まず、この「五世の孫(ひこ)」の意味を説明します。現代では、例えば、ブラジルやハワイへの移民の場合、移民した本人が「1世」、その子が「2世」、孫(まご)が「3世」となります。しかし、『古事記』『日本書紀』などの古代では、子が「1世」、孫(まご)が「2世」となっています。
次に「五世の孫(ひこ)」の「孫(ひこ)」のことです。「孫」の意味は、①親一子一孫」という意味、②「血筋を引く子孫」という意味があります。「五世の孫(ひこ)」の「孫(ひこ)」は②の意味です。つまり、「五世~五世の子~五世の孫」という「7世」ではなく、「五世という血筋を引く者」という意味です。
従って、「応神天皇五世の孫(ひこ)」とは、応神天皇→子(1世)→孫(2世)→曾孫(ひこ・ひまご、3世)→玄孫(げんそん・やしゃご、4世)→来孫(らいそん、5世)ということで、継体天皇は、応神天皇の来孫(らいそん、5世)ということです。つまり、応神と継体の中間には「4代」存在する、という意味です。
なお、「近淡海国」とは、近江国(琵琶湖の周辺地域)のことです。古代では、近江国を「淡海(あはうみ)国」「近淡海(ちかつあはうみ)国」「近水海」と記載されています。
『日本書紀』では、どう書かれているか。
『日本書紀』の継体天皇の最初の部分に、次のように書かれています。
「応神天皇五世の孫、彦主人王(ひこうし・の・おほきみ)の子です。母は、振媛(ふるひめ)です。振媛は垂仁天皇(第11代)七世の孫です」
『古事記』『日本書紀』では、単に「継体天皇は応神天皇五世」とあるだけで、「中間4代」の名前が書かれていません。誰しも「こりゃ、変だ!」「奇妙すぎる!」と思う。
ところが、次第に『釈日本紀』の巻13の「上宮記曰、一云」に書かれてある継体天皇の系譜が注目されるようになった。『釈日本紀』は、鎌倉時代末期に、卜部兼方が著した『日本書紀』の注釈書である。『釈日本紀』には、『上宮記』『風土記』『古語拾遺』など、現在では散逸した資料が随所に登場している。
『上宮記』は、『古事記』『日本書紀』よりも古い歴史書で、基本的内容は聖徳太子の事柄と言われています。『上宮記』そのものは散逸してしまったが、『釈日本紀』などで、その一部が引用されています。そこに、応神天皇~継体天皇の系譜が書かれているのです。
「上宮記曰、一曰」のエキス部分は、次のとおりです。
応神天皇(第15代)
1世……若野毛二俣王(わかぬけふたまた・の・みこ)
2世……大郎子(おほいらつこ、一名、意富々等王(おほほどの・の・みこ))
3世……乎非王(をひ・の・みこ)
4世……汗斯王(うし・の・みこ、彦主人王)
5世……継体天皇(第26代)
ただし、「上宮記曰、一曰」は漢文で漢字がズラズラと書いてあるので、どう読み取るか、複数の学説があります。
また、『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』では、次のように別の名前(文字)になっています。
応神天皇(第15代)
1世……集総別皇子(はやぶさわけ・の・みこ=隼別皇子)……『記紀』では、仁徳天皇(第16代)と女性を巡って対立し、さらには謀反の野心を露わにした。そのため、殺された。
2世……大男迹王(をほど・の・おおきみ)……この名は『日本書紀』では継体天皇の諱(いみな)となっています。
3世……私斐王
4世……彦主人王
5世……継体天皇(第26代)
どうやら、昔から「中間4代」は混乱していたようです。
まぁ、とにかく、応神と継体の「中間4代」の名前の真偽は別にして、存在していたようです。
『日本書紀』に「中間4代」の名を記さなかったのは、なぜでしょうか。『日本書紀』は、全30巻ですが、別途、系図1巻がありました。その系図1巻は紛失しました。その系図1巻に「中間4代」が書いてあるから、本文では省略したのだろう、と言われています。むろん、父系はアヤフヤだから省略したのだろう、という説もあります。
継体天皇にとって重要なのは女系です。先に『古事記』の「近淡海国より上り座さしめて、手白髪命(たしらのか・の・みこと)に合(めあわ)せて、天の下を授け奉りき」を紹介しましたが、要するに、「天皇血脈が直近の手白髪命(仁賢天皇の皇女)と結婚させて、天皇とした」ということです。単刀直入に言えば、「父系の系譜がアヤフヤでも、妻系はしっかりしているから問題なし」です。
近年、天皇制をめぐって「男系だ、女系だ」「女性天皇の是非」が議論されていますが、そもそも現天皇の最初である継体は、「女系もOK」「入り婿OK」という感じで天皇になったと思われます。
なお、応神天皇は、『記紀』によって異なりますが、皇后・妃が8~10人、子供が19~27人となっています。ということは、「応神天皇五世」の男子総数は百人を超えるのではないかしら……。
(3)57歳まで越前国三国に
『日本書紀』に記されている即位までの経過を辿ってみます。
父の彦主人王(=汗斯王)は、近江国高嶋郡三尾(琵琶湖の西岸地域)に住んでいた。三国(越前国の一部、現在は福井県)坂中井(福井県の石川県側地域)に住む振媛(ふるひめ)の噂を聞きました。「容姿がきらぎらしくて、はなはだうるわしき色有り」という噂です。「きらぎらしい」とは、超超超美人で、この修飾語が登場するのは衣通姫(そとおりひめ)、推古天皇、それと、公式に仏教が伝来した時にもたらされた仏像のお顔ぐらいと思います。衣通姫は古代天皇史で最高の悲恋物語ヒロインです。
彦主人王は使者を出し、絶世の美女である振媛を迎え入れて妃としました。そして、継体を産みました。450年(允恭即位39年)です。
継体の誕生直後、父の彦主人王が亡くなりました。美貌の若き未亡人となった振媛は、我が子を連れて越前の三国に帰りました。
念のため書いておきますが、振媛は越前三国の豪族の娘です。
若干、面倒な用語解説を。まず、三尾氏について。三尾氏は、近江・越前・加賀・能登にまたがる豪族です。越前の三尾氏は、三国を根拠地としていたので、後年、三国氏と呼ばれるようになった。ということは、彦主人王は近江の三尾氏であり、振媛は越前三国の三尾氏となります。2人の家系図は不明ですが、同じ三尾氏のようです。
そして、五十余年の歳月が流れます。
その間、未亡人がどうしていたのか、何も書いてありません。セレブで若き美貌の未亡人ですから、いろいろあったろうな……。
余談ですが、越前国三国の名所は、断崖絶壁の東尋坊(とうじんぼう)です。自殺の名所として知られています。東尋坊の伝説は、色恋話でとても面白いのですが、振媛とは無関係なので省略します。
『日本書紀』には、次のことが書いてあるだけです。継体は立派な壮年になりました。士を愛で、賢(さかしき)に礼を払い、心は豊かでした。これだけです。
越前三国で何をどうしていたのか、越前三国にずっと居たのか、たまには近江にも行ったのか……さっぱりわかりません。『日本書紀』の別の箇所に、継体天皇の妃と子の一覧が記載されています。それによると、即位以前にも、多くの子をもうけていたことがわかります。
そのことは後述しますが、「あっ」と言う間に五十余年が経過し、継体は57歳になりました。
そこに、突然、一大事発生。
506年(武烈即位8年)12月8日、武烈天皇が崩御した。子がないまま、また後継者を決めないまま崩御した。
大連(おおむらじ)の大伴金村は、「まさに今絶えて継嗣(みつぎ)絶(た)ゆべし。天下は何(いづれ)の所にか心を繋(か)けむ。古より今に至るまで、禍(わざわい)これより起こる」と言って、新天皇を決めようとする。
候補者は、非常に多かったと思われます。直系どころか、「直系に近い者」もいない。だから、「直系に遠い者」でもいいじゃないか、ということになりました。『日本書紀』では、「妙簡枝孫」とあります。枝孫から妙に簡す、つまり、枝からさらに別れた枝の中から非常に用心して選ぶ、幹(みき)たる直系がいない、直系に近い枝もいないので「枝孫」から探す、ということです。候補者は、多数いたことが推測されます。とは言っても、血筋があっても非力な者は無視されたことでしょう。
第1候補は、仲哀天皇5世の倭彦王(やまとひこ・の・おおきみ)です。大臣・大連で一致しました。むろん反対論もあったでしょうが、それは一切書かれていません。仲哀天皇(第14代)の皇后は神功皇后です。応神天皇(第15代)の父・母です。仲哀天皇の実在性は極めて低いとされています。倭彦王については『古事記』には記載がありません。また、倭彦王の系譜も不明です。
ともかくも『日本書紀』では、丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市、京都市の西)に住む倭彦王を新天皇にすべく、輿(こし)で迎えに行きました。輿の周りは武器を持った兵士が囲んでいました。倭彦王は遠くから、この一行を眺め、自分を殺しにきたと錯覚して、山谷に隠れて行方不明になってしまった。
なぜ、倭彦王は自分を殺しにきたと錯覚したのでしょうか。
当時の皇位継承とは、「血まみれ権力闘争」、即位しても「名ばかり天皇」、即位しても「殺されてしまう天皇」というのが実情でした。
遡れば、雄略天皇(第21代)は、兄2人・いとこ2人を殺害して天皇になった。雄略天皇が没すると、後継の清寧天皇(第22代)と吉備氏の稚姫(わかひめ)・星川皇子の乱です。清寧天皇の後は顕宗天皇(けんぞう、第23代)・仁賢天皇(第24代)ですが、この2人の兄弟は、雄略天皇に殺された皇子の子で、雄略に殺されるかもしれないと隠れ住んでいました。武烈天皇(第25代)は、大臣の平群真鳥を大伴金村の兵によって殺害して即位した。要するに、皇位継承とは、「血まみれ」が普通であった。
さらに言えば、雄略天皇は実在性が明確であるが、清寧(22代)・顕宗(23代)・仁賢(24代)・武烈(25代)は実在性が低く、実在していたとしても政治実権は、大連の大伴氏と物部氏、大臣の平群氏など大豪族が握っていた。要するに、22~25代は存在していたとしても、大豪族に逆らえば殺される「名ばかり天皇」であった。
「日本最初の女帝かも」と言われる飯豊青皇女も、そうした混沌時代なので、「名ばかり天皇」になったかも知れない。そんなことを承知している倭彦王は、「天皇という美味しい称号」は、「火中の栗」に他ならず、「火中のおいしい栗」を拾うことは大火傷間違いなし、と考えたのであろう。
(4)8人の妃
第2候補が、継体であった。前述したように「応神天皇5世」の男子総数は100人を超えていると推測しますが、大臣・大連は一致して継体を選んだ。理由は、継体は越前を中心に近江・加賀・能登にまたがる大豪族だったからでしょう。どうやら大伴金村が主導したようです。むろん反対論もあったはずですが、それは一切書かれていません。
ともかく決まったので、507年正月6日、越前国三国へ迎えに行った。籠の周りは武器を持った兵が取り囲んでいたが、継体は自然体で出迎え、大物の貫禄を示した。継体は用心深い人物で、使者の表向き口上だけでは、即位要請を受けませんでした。身分の低い「河内馬飼の荒籠(あらこ)」に、使節団の下級随員の言動を探らせました。下級随員の言葉からも、天皇即位要請は疑問の余地がない、裏のない話と判断した。
そして、507年2月4日、樟葉宮(くすは・の・みや)で即位した。樟葉宮の所在地は大阪府枚方(ひらかた)市楠葉です。大阪市の北東で京都市に近い場所です。大連に大伴金村と物部麁鹿火(もののべ・の・あらかひ)、大臣に許勢男人(=巨勢、こせ・の・おひと)とした。この人事はそれまでと同じです。巨勢氏は、現在の奈良県御所市(奈良盆地南部)の豪族です。
即位して、すぐの継体即位1年(507年)3月5日、手白香皇女(たしらか・の・ひめみこ)を皇后としました。『日本書紀』では「手白香皇女」ですが、『古事記』では「手白髪命」の文字です。
手白香皇女は仁賢天皇(第24代)の皇女です。継体天皇(第26代)は天皇血脈が非常に薄い(応神5世)ので、仁賢天皇の皇女である手白香皇女を皇后にすることが、天皇即位の絶対条件でした。継体天皇と手白香皇后の間に、継体即位3年(509年)に皇子が誕生し、その皇子が欽明天皇(第29代、在位539~571、生没509~571)です。
継体天皇(第26代)と欽明天皇(第29代)の間の2代、すなわち、安閑天皇(第27代)・宣化天皇(第28代)は、単純に推理すれば「中継ぎ」ですが、難しい問題のようです。一説では「欽明」と「安閑・宣化」の内戦です。
継体即位1年3月14日、皇后を決めてから、すぐさま8人の女性を妃としました。つまり、継体は即位以前に8人の妻がいる、とてもリッチな豪族だったのです。リッチな要因は、複数考えられます。
①6世紀頃の越前は日本ナンバーワンの「米どころ」であった。
②越前は「塩どころ」でもあった。これに関しては、武烈天皇(25代)即位に際しての、平群氏皆殺しが絡んでいる。武烈は、平群氏の若者との恋争いで敗れ、その恨みで、大伴金村の協力を得て平群氏を皆殺しにした。平群氏のトップ・平群真鳥は、死に際して、各地の塩に呪いをかけた。しかし、角鹿海(つぬが・の・うみ、福井県敦賀)の塩だけは呪いをかけ損なった。それゆえ、天皇家は敦賀の塩は食することができるが、他の塩は禁止となった。敦賀の塩とは、敦賀湾だけでなく越前国(福井県)全体を意味するだろう。越前の製塩業者はいわば独占販売権を得たのも同然で、その流通を握る越前の有力者はボロ儲け。
何と申しましょうか、屁理屈ならば、武烈の失恋が、塩に絡んで継体即位に繋がるのでありました。
③越前の三国・敦賀は、日本海・琵琶湖さらには朝鮮半島との海上交通の拠点である。朝鮮半島から日本列島へ来る場合、天候等順調であれば北九州が一番だが、少しでも不順であれば対馬海流で流され能登半島方向へ向かってしまう。そこが、敦賀港、三国港である。文化・技術の伝達はヤマトよりも早い地域である。
そんな、あれやこれやで、越前の豪族とは、必然的に大豪族となり、すご~くリッチになります。そして影響力を確実にするため、各地の有力者の娘を妻にします。8人の妻を探ると、ボンヤリながら継体の輪郭が分かってきます。
第1の妃は、尾張目子媛(おわり・の・めのこ・ひめ)です。2人の子がいて、2人とも天皇になりました。
安閑天皇(第27代、在位531~536、生没466?~536)
宣化天皇(第28代、在位536~539、生没467?~539)
尾張目子媛は、尾張氏です。尾張氏は『日本書紀』の天火明命(あめのほあかり・の・みこと)が祖です。天火明命は、『古事記』ではニニギの兄、『日本書紀』ではニニギの子です。尾張氏は、大和、美濃、飛騨、そして日本武尊の頃には拠点を尾張の熱田(現在の名古屋市の熱田神宮)に移していた。
尾張氏の媛が越前国三国の継体の妃ということは、尾張氏は広範囲に影響力を持つ豪族である証拠となります。はっきり言えば、尾張氏は当時、ものすごい大豪族であったのだ。その大豪族と継体は強固に連携していたと言える。越前・近江の大豪族と尾張の大豪族が手を組んでいたのです。
それから、宣化天皇の皇女・石姫皇女は欽明天皇の皇后となり、敏達天皇(第30代)を産んでいる。継体・欽明・敏達が現在の皇統の源流なので、尾張氏の血脈は源流において大きな役割を果たしたと言えます。尾張は、信長・秀吉だけじゃないぞぉ~。
第2の妃は、三尾角折君の妹の稚子媛(わかこひめ)です。越前の三尾氏ですから、継体の母・振媛と同族と思われます。大郎皇子と出雲皇女を産みました。
第3の妃は、坂田大跨王(さかた・の・おおまた・の・おおきみ)の娘の広媛(ひろひめ)です。坂田大跨王は、おそらく近江国北部(琵琶湖の北)の人と思われます。3人の娘を産みました。神前皇女、茨田皇女、馬来田皇女です。
第4の妃は、息長真手王の娘の麻績娘子です。息長氏は、おそらく近江国北部(琵琶湖の北)を拠点とする豪族です。荳角皇女(ささげ・の・にめみこ)を産みました。
第5の妃は、茨田連小望の娘の関媛(せきひめ)です。茨田連小望は河内の人のようです。また、先に述べました「河内馬飼の荒籠(あらこ)」は、その名のとおり河内の人です。樟葉宮は河内に近い。継体は河内と深い関係を有していたのである。3人の娘を産みました。茨田大娘皇女(まむた・の・おおいらつめ・の・ひめみこ)、白坂活目姫皇女(しらさかいくめ・ひめ・の・みこと)、小野稚郎皇女(おの・の・わかいらつめ・の・ひめみこ)です。
第6の妃は、三尾君堅楲(みお・の・きみかたひ)の娘の倭媛(やまとひめ)です。第2妃と同じく、越前の三尾氏です。2人の皇子と2人の皇女を産みました。大娘子皇女(おおいらつめ・の・ひめみこ)、椀子皇子(まろこ・の・みこ、三国公の祖)、耳皇子(みみ・の・みこ)、赤姫皇女(あかひめ・の・ひめみこ)です。
第7の妃は、和珥臣河内(わに・の・おみ・かふち)の娘の荑媛(はえひめ)です。和珥氏は奈良盆地北東部の豪族です。ただし、その出身は近江の和迩(わに)で現在の滋賀県大津市(琵琶湖の南西部)でした。1人の皇子と2人の皇女を産みました。稚綾姫皇女(わかやひめ・の・みこ)、円娘皇女(つぶら・の・いらつめ・のみこ)、厚皇子(あつ・の・みこ)です。
第8の妃は、根王(ね・の・おおきみ)の娘の広媛(ひろひめ)です。2人の皇子を産みました。免皇子(うさぎ・の・みこ)は酒人公の祖先となった。中皇子(なかつ・の・みこ)は坂田公の祖先となった。酒人公・坂田公から類推すると根王は越前の人です。
8人の妃の出身地をまとめますと、尾張が1人、越前が3人、近江北が2人、河内が1人、奈良盆地北部(近江に近い)が1人となります。
なお、『古事記』では、皇后と妃6人となっています。『日本書紀』の第5妃と第8妃は書いてありません。また、第3妃の広媛(ひろひめ)は黒比売(くろひめ)となっていて、子も4人です。
なぜ、8人の妃を紹介したのか。継体天皇の即位前の活動範囲が推測されるからです。越前と近江が中心ですが、どうやら近江の南部に近い河内や山城、さらには尾張にも深い関係があったのである。
8人の妃から、継体は「越前・近江及びその周辺」を支配する大豪族の長であることが確実です。倭は、中央主権ではなく「有力豪族達の緩やかなお付き合い連合体」です。
奈良盆地南部を中心とする豪族が連合体の座長、すなわち天皇という役回りだったのですが、奈良盆地南部が混乱してしまった。そこに、「越前・近江及びその周辺」の大豪族たる継体が登場してきた。
『記紀』の記述のように、大伴金村ら奈良盆地南部の有力者達の平和的要請で継体が登場したのか、それとも、大豪族たる継体は力づくで登場したのか? おそらく、事実は「力づく」だったが、『記紀』編纂者は、継体王朝の正統性を脚色するため、できるだけ混乱を省略して記載したのだろう。
(5)即位から大和入まで19年
いよいよ本題に移ります。
507年(継体即位1年)2月4日、継体天皇は河内国の樟葉宮(くすは・の・みや)で即位した。なぜ、継体はヤマト政権の本拠地である奈良盆地南部で即位しなかったのか。継体の奈良盆地の知識は、雄略~武烈の間、そこは「血みどろの権力闘争」地域である、というものだ。継体の人脈には奈良盆地南部で信頼できる者がいなかった。いかに天皇即位という名誉ある地位を得るためとはいえ、何が発生するか訳のわからない地域にノコノコ行くわけにはいかない。
そこで、継体の主な活動範囲である越前・近江の近接地域である河内の樟葉宮での即位になったと推理します。河内は継体にとって信用できる地でした。①即位前に「河内馬飼の荒籠(あらこ)」を使って、ヤマト政権の動向を調査させています。つまり、継体は河内に信用できる人脈があった、ということです。②第5の妃は『古事記』にはありませんから、正式な妃でないかも知れませんが、少なくとも側にいる女性です。彼女は河内の有力者の娘に違いありません。①と②から、継体は河内の地を間違いなく信用していました。
511年(継体即位5年)10月、都を山城(=山背)の筒城(つつき)へ移しました。ここは、京都府京田辺市で、京都市の南部です。樟葉宮の東方向10キロ程度の地です。
樟葉宮(枚方市)は淀川が流れ、枚方市の少し上流で、保津川・宇治川・木津川に分かれ、筒城宮(京田辺市)には木津川が流れています。
518年(継体即位12年)3月9日、都を山城(山背)の弟国(おとくに)へ移しました。現在の京都府長岡京市あたり。枚方市の北方で保津川が流れています。
こうしてみると、継体天皇は、ヤマト政権の本来の拠点である奈良盆地南部を避けて、人脈がある河内をテコにして、淀川水系を自分の影響力を置こうとしていたと思われます。そして、用心深く奈良盆地をみていたのでしょう。奈良盆地へは行きたくないのです。
地図帳で、樟葉宮・筒城宮・弟国宮を眺めますと、この三角地域を自分の直轄的な勢力範囲にする意図があったのかも知れません。継体天皇の本当の古墳とされている今城塚も樟葉宮のすぐ西にあります。
526年(継体即位20年)9月13日、実に、即位20年目にしてやっと、大和の磐余玉穂(いわれ・たまほ)宮に移りました。磐余玉穂宮は、ヤマト政権の本拠地である奈良盆地南東部で、現在の桜井市のどこかです。
継体天皇の崩御の年は、3説あります。『古事記』では527年、『日本書紀』の「本文」では531年、『日本書紀』の「ある本云」では534年です。いずれにしても後期高齢者の数年間だけ、ほんの少々だけ大和の磐余玉穂宮にいたということです。
(6)磐井の乱
継体天皇は用心深い性格なのであろう。性格だけでなく、実際問題として、奈良盆地の中には「反継体勢力」が存在していたのでしょう。「反継体」ではないとしても、奈良盆地の有力豪族の力が強固で、継体の意思が通用しないという出来事が頻繁にあったのでしょう。だから、なかなか奈良盆地(大和)に入らなかったのでしょう。
それでは、継体天皇の治世は、どんなものだったのか。内政的なことは何も記載がなく、目立ったことは、①任那4県割譲、②磐井の乱鎮圧だけです。
『日本書紀』の継体天皇の箇所は、血統記述以外は大半が朝鮮半島との関係です。
512年(即位6年)、百済が任那4県の割譲を求めた。割譲に、大伴金村は賛成、物部麁鹿火(もののべ・の・あらかひ)と大兄皇子(後の安閑天皇)は反対したが、結局、4県は割譲となった。
物部麁鹿火は最初は割譲に賛成だったが、妻に説得されて反対となった。
賛成の大伴金村は百済から賄賂をもらったとの流言が立った。
継体天皇は、群臣の意見・決定に従っていただけみたい。
その後の『日本書紀』の継体天皇の箇所を読むと、百済・新羅・任那・高句麗との関係があれこれ記載されていますが、「安定」ではなく、詳細はわかりませんが、とてもゴタついています。記載を省略します。
513年(即位7年)、任那4県割譲の見返りに、百済から五経博士が献上された。儒教は断片的には伝わっていたが、一応、これが正式の儒教伝来です。
なお、大伴金村の運命ですが、欽明天皇即位元年(540年)に新羅政策が議論されました。その際、継体時代の任那4県割譲は失敗だったと糾弾され、大伴金村は失脚した。代わりに、蘇我氏が台頭し、物部・蘇我の時代となった。なお、任那は562年に滅亡します。
527年(即位21年)、九州北部で「磐井の乱」が勃発した。
そもそも、「磐井の乱」自体が不明です。『古事記』では「磐井は無礼が多いので殺した」程度の記述、『筑後国風土記』逸文でも「官軍が急襲した」程度の記述です。『日本書紀』に詳しく書いてあるだけです。『日本書紀』の内容を要約してみます。
527年6月3日、朝廷は新羅に奪われた任那の土地を回復するため、近江毛野に6万人の兵を率いさせて任那・新羅へ向かわせた。それを知った新羅は筑紫の磐井へ賄賂を贈って阻止しようとした。磐井はそれに応じて、肥前・肥後、豊前・豊後を制圧し、北九州で近江毛野の兵と合戦した。
8月1日、朝廷は物部麁鹿火を将軍に任じた。
11月11日、磐井軍と物部朝廷軍は筑紫三井郡(福岡県小郡市)で激突して、磐井軍は敗退する。磐井は戦死したが、子の磐井葛子は糟屋の屯倉を献上して連座を免れた。
529年3月、朝廷は近江毛野を任那へ派遣して、新羅・百済と領土交渉をした。しかし、外交交渉は成果なしであった。
私の想像を一言。継体天皇が奈良盆地(大和)ではなく、河内・山城に宮を置いていたことは、地方豪族から見れば、自分達と同じようなひとつの地方政権(地方豪族)とみえた。それが、大和に都を移した(526年)となると、中央政権として地方を支配する意向、と判断したのだろう。
大和、吉備、出雲、筑紫(北九州)などは、基本的にそれぞれの地方政権であった。「緩やかなお付き合い連合」であっても、「強固な連合」ではない。それが、ヤマト政権から、たびたびの朝鮮出兵要請で困惑する。露骨に中央政権のような態度を示されたのでは、おもしろくない。
とりわけ、磐井氏の筑紫政権は、独立地方政権の意識が強固で、ヤマト中央政権に服従したくない。筑紫政権は新羅と合同してヤマト政権に対抗した。そんな感じだったのではなかろうか。
実際の乱の規模は、重要ではない。ヤマト政権の中央政権化の出来事とみなすべきだろう。結果論からすれば、ヤマト政権は九州を支配した。大袈裟に言えば、「筑紫王朝の終焉」かな。
歴史に「もしも」は無意味ですが、「もしも、磐井の乱で、磐井が勝っていたら」、磐井がヤマト政権に取って代わったことだろう。日本列島の命運を左右する「大豪族と大豪族の決戦」であった。
(7)仮説内乱「継体・欽明朝の内乱」
最後に、継体天皇(第26代)の崩御後のことです。前述したように、崩御の年は、3説あり、527年、531年、534年です。
欽明天皇(第29代)の即位は539年12月30日です。
その数年の間に、安閑天皇(第27代)、宣化天皇(第28代)がいたわけです。
「何か変だなぁ~」と疑う人が多くいます。
継体の後は欽明に決まっていたはずだ。安閑・宣化に皇位がいくはずがない。継体が奈良盆地(大和)に入らなかったのは、大和の「反継体勢力」の存在があったのでは……。九州の磐井と「反継体勢力」は連携があったのでは……。欽明天皇の即位年は539年ではなく、もっと早い時期だのでは……。大伴金村の失脚も変だ……あれやこれやで、「安閑・宣化」と「欽明」の「2朝並立」状態、つまり、内乱状態であったとする説があります。この仮説内乱を「継体・欽明朝の内乱」と言います。
基本的に、継体は「応神天皇5世」というアヤフヤな存在だからでしょう。「女系」であろうと、しっかりした血統の欽明天皇になって、やっと収束していった……ということかな。
ともかくも、継体の血統が現天皇まで継続しています。だから、継体天皇はとても重要です。
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太田哲二(おおたてつじ) 中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を9期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』など著書多数。近著は『やっとわかった!「年金+給与」の賢いもらい方』(中央経済社)。