先頃、「国立大学の学費を年間150万円にすべきだ」という話が話題になった。新聞各紙、あるいはテレビのバラエティ番組でも大きく取り上げられたのでご存知の人も多いだろう。


 国立大学の学費値上げ論の発端は今年3月に開かれた文部科学省の中央教育審議会での慶応義塾長の伊藤公平委員の提言だという。伊藤委員は「高度な大学教育を実施するには学生1人当たり年間300万円が必要であり、……国立大学に(在学する)家庭の負担は(その半分に当たる)150万円程度に引き上げるべきだ」というもので、要は国立大学の学費を150万円にすべきだ、という趣旨だ。


 現在の国立大学の学費は53万5800円で20年近く据え置かれているそうだが、ざっと3倍弱に値上げすべきだ、ということになる。学費が20年間近く据え置かれていたのは、デフレが続いていたから、ということなのだろうか。


 昨今は物価の値上がりが激しい。それにしても一挙に3倍に値上げすべきだ、というのだから、マスコミが大きく取り上げたのも当然だろう。もっとも、3月の発言が5月中旬になって報道されるのはどういうことなのかと思うが、おそらく、それはIT時代にもかかわらず、審議会の発言が原稿になって公表されるのが2ヵ月くらいかかるからなのだろう。


 だが、幸か不幸か、東大が学費を10万円値上げすることを決めたことで騒ぎは沈静化してしまった。さすが、東大の人たちは頭がいい。新聞報道では前々から値上げを考えていたらしいが、10万円の学費値上げで、東大自身に騒ぎが波及するのを回避してしまった。マスコミより頭の構造が優れていたというしかない。


 それはともかく、伊藤発言が報道されるや、新聞紙面で、テレビでニュースやバラエティ番組で取り上げられたのは周知の通りだ。たまたまテレビを見ていたら、この国立大学の学費値上げ問題を取り上げていた。


 テレビのことだからテレビ局自身の見解はもちろん、考えも言わない。登場するいつものコメンテーターが発言するだけだが、常連のコメンテーターである慶応大学の教授は「国立大学の学費は低すぎる。国立大学と私立大学の格差が開く」と国立大学の学費値上げに賛成し、そうではない普通(?)のコメンテーターは「成績優秀であっても所得の低い家庭の子供が大学に行けなくなる」、「それでなくても地方から来る学生にとっては住宅費も大きな負担になっている」と学費値上げに反対論を主張していた。


 余談だが、共通1次試験が始まったころ、「あんなもので評価されるのはまっぴらだ」と優秀な学生が国立大に行かず、早稲田大、慶応大に進んだのだそうで、いまや学生の質は東大より早稲田、慶應のほうが優秀だ、などと言われたそうだ。だが、共通1次が定着するにつれ、優秀な学生は学費の安い東大に進むようになったのだろうか、伊藤氏はそれを憂いたのだろうか。


 ともかく、国立大学の学費値上げ論、反対論のどちらも正論だ。では、どちらが正しいのだろうか。私がいた週刊誌は「常識とは何か。世間で常識とされていることが本当に常識なのか、もう一度、考えよう」というのが発刊のテーマだったから、こういうときは得意である。


 で、結論から言えば、国立大学の学費は値上げすべきだろう。今の東大生の家庭は裕福だ、という点にある。というのも、昔と違って今日ではほとんどの高校生、いや中学生、小学生のときから塾に通っている。これは東京も地方も変わらなくなっている。


 例えば、東京郊外に住んでいる私の近所でも子供たちはみんな学校が終わると、塾に通っているのだ。10年ほど前に、町内会の役員が回ってきたことがある。なんでも新しく住みついた順に役員になるのだそうで、私の番になったというのである。


 町内会は正式には自治会というのだが、12班で構成され、ひとつの班がざっと30軒で構成されているから、町内会は360軒で構成されている。もっとも町内会に入らない家もあるから実際には400軒くらいに上るだろう。


 私が属したのは第1班で31軒あった。一度、役員をすれば、次に役員が回って来るのは31年後になる。もちろん、各役員もみんな初めての経験者ばかりだが、幸いにも2度目という人が2人いたので助かったが、この役員のとき、子供会が解散するという連絡があった。理由は子供会の会員が2軒、3人になってしまったから、というものだった。


 少子化で子供がいなくなったというわけではない。自治会員の家庭の子供はみんな塾に通うため、子供会に参加しないのだそうだ。実際、小学生は学校が終わると、塾に行き、中学生は部活がない日は自宅に一旦、帰った後、塾に行く。高校生は学校帰りに、あるいは一度自宅に帰り、自転車に乗って出掛けて行く。主婦も働いている人が多いから町内に残っているのは幼稚園の年少組くらいと、老人ばかりである。


 斯くの如く、昨今はどこの家庭でも子供たちは塾に通っている。当然のことだが、駅前や商店街の外れ、いや住宅街にも塾がある。


 かつて週刊誌時代に予備校が上場するというので、証券マンに「18歳人口が減っているのに上場してどうするんだ?」と尋ねたことがある。が、証券マンは「これからはどこの家庭でも子供たちは塾に行く時代が来るし、上場は早いもの勝ちだろう」と答えた。上場した資金で設備を整え、優秀な講師陣を揃えた予備校が生き残ることになるというのだ。


 だが、そればかりではない。マンツーマンの授業を行なう、ネット教育を行なう、など、あの手この手の教育を行なう塾が登場し、それぞれ成功している。生徒の家庭だって、隣の


 子供が塾に通っていれば、わが子も塾に通わせるということもあるだろう。子供会が消滅するのも必然だったようだ。


 こうした状況は東京だけではない。地方でも同じなのだ。当然、塾に通うには資金がいる。裕福な家庭の子供ほど塾で学び成績が上がり、東大を目指すことになる。従って、裕福な家庭の子供たちが国立大学に行けなくなるという主張は、昭和40年ごろまでの「常識」なのである。今は裕福な家庭の子供ほど国立大学に行ける、という時代なのである。


 東京・池袋で80歳代の老人が運転する車が暴走し母子を死亡させた事故があった。池袋暴走事故である。このとき、運転していた老人は工業技術院長だった。東大を卒業し、経産省に就職したエリート官僚だ。この事故を巡り、ネット上で「上流国民」とものがあったが、これが裕福な家庭で塾通いをして国立大学に進んだものに対する庶民の感情だろう。


 これが現代なのだ。もちろん、裕福ではない家庭もあるだろうが、現代は裕福な家庭の子供が国立大学に進んでいる、というのが常識というべきなのだ。従って、慶応義塾長の発言通り、年間授業料を150万円にしてもおかしくない。これでも私大の半分の学費である。もちろん、裕福ではない家庭の子供もいるだろう。それは奨学金で補えばいい。


 アメリカでは大学の学費が高く、卒業したときには600万円から800万円の借金があるともいう。多くが銀行の学費ローンだそうだ。日本では銀行借り入れとはいかないだろうから、奨学金でいい。裕福ではない家庭の子供には、今までも同じ56万円程度で済むように奨学金を付与すればいい。卒業後の返還には1年分を返還したら、2年分返還と同じように減額しればよいだろうし、私大と同様に成績優秀な学生には授業料無料としてもよいだろう。要は古い常識に縛られず、新しい視点を持つことが必要だ。


 もっとも、同じ国立大学でも東大のような旧帝大と地方の国立大学がある。戦後、旧高等学校や旧師範学校が合併して誕生した国立大学だ。かつては特急が止まり、駅弁を売っているところに国立大学があるということから「駅弁大学」などと呼ばれ、旧帝大系の1期校に対して受験時期をずらした2期校とされた国立大学である。こうした地方大学の学生には裕福ではない家庭の子供もいるだろうから、国立大学でも授業料に差をつけるか、奨学金を多くすればよいだろう。


 だが、実際には国立大学の授業料値上げは難しいだろうなぁ。自民党には官僚から政治家に転身した代議士が多い。だいいち、文部科学省のエリート官僚には東大卒が多いし、肝心な国家財政を預かる財務省に優秀な東大卒のエリートが集まっている。彼らが母校の東大の授業料値上げにおいそれと賛成はしないだろう。東大の10万円の授業料値上げは財務省も文科省も、さらに世間をも納得させるような治め方だ。見事にマスコミも騙されたということなのだろう。さすが東大のエリートと感心するしかない。(常)