このところビジネス界隈では、どこもかしこも「DX」である。なかでもAIは注目の的だ。経営者も政治家も行政も連呼する(どこまでわかっているかは別にして)……。一方で、DXの対局にあるとも言えるのが、医療の世界だろう。


 治療や患者とのコミュニケーションは別にしても、コロナ禍で話題になったファックスでの情報共有をはじめ、業務の中にアナログの部分が相当残されている(中小企業や地域金融機関でもだが……)。そんな医療業界にあって、内視鏡画像診断支援AIのスタートアップを立ち上げ、承認まで漕ぎ着けたのが、『東大病院をやめて埼玉で開業医になった僕が世界をめざしてAIスタートアップを立ち上げた話』の著者である。


 タイトルのとおり、著者は東京大学医学部卒業で外科専門医の資格を取得。さらに博士号まで取得した直後に、医師不足で知られる埼玉県で胃腸科肛門科を開業した(東大卒では、異例のキャリアだとか)。


 臨床医としても優秀だったようで、開業して4年目に〈無送気軸保持短縮法〉なる大腸カメラの無痛挿入法を考案している。クリニックの経営者としても才覚を発揮していたようで、〈年間8000件近い内視鏡検査を行う、日本トップクラスの検査数を誇る内視鏡クリニック〉に育てた。


 と、普通の医師なら、この成功に大満足して終わるところだろう。


 著者が違っていたのは、問題意識とそれを新たなソリューションにつなげる力である。内視鏡は日本で開発され、診断技術も大いに発展してきた分野(内視鏡医は人口比で米国の5倍!)。


 自治体が行う胃がん健診などでは、検査画像をダブルチェックする仕組みも導入されているが、さいたま市だけで年間4万人が胃腸内視鏡検査を行い、160万枚(!)の画像が発生するという。


 能力の高い医師が集中力を持って見るとは言え、人のやることだけに〈現場の医師がどんなにベストを尽くしても起こり得るのが、残念なことに「診断ミス」や「「見逃し」〉が発生するリスクはある。


〈どうにかしてダブルチェック業務を減らせる手立てはないか――〉。これが著者が抱いた問題意識である。


■直接聞きに行くフットワークの軽さ


 著者はAI勉強会でAIの画像認識能力が人間を上回ったことを知り、〈画像認識能力が人間を超えているのであれば、内視鏡医療に応用すればいいのではないか〉と考え、自ら行動に移す。


 わからないことがあれば、その道のプロに直接聞きに行くフットワークの軽さは、地位や年齢が上がるごとに難しくなっていくが、その点著者は面識がない人物にも連絡をとり、詳しい人物に会いに行く(見習いたいところである)。


 わりとサラりと書かれているが、2017年1月のスタートからクリアしてきた課題は多岐にわたる。


 診断技術を確立していきながら、患者の画像情報の匿名化処理ソフトの開発、画像にタグやメタデータをつけていくアノテーション、スタッフの教育、シリーズA・B・Cの資金調達、承認申請・再申請……と短い期間の間にさまざまな壁を越えていった(通常のスタートアップのドタバタ具合を考えると、もっと苦労があったのではないだろうか?)。


 医療機器の開発から承認・申請には時間がかかるし、承認する側も新しい技術に関しての判断は慎重になる。それでも、開始から7年で承認まで漕ぎ着けた。 


 著者は開業医から、内視鏡画像診断支援AIのスタートアップを立ち上げ、承認、販売までたどり着いた。博士号を持っているとはいえ、通常、医療ベンチャーと言えば有名教授など「大学発」が多いだけにかなり異色の経歴だ。それだけに、これからチャレンジする人にとって本書は、勇気とヒントをもらえる1冊である。(鎌)


<書籍データ>

東大病院をやめて埼玉で開業医になった僕が世界をめざしてAIスタートアップを立ち上げた話

多田智裕著(東洋経済新報社1760円)