(1)「吉田兼好」は捏造された名前


 兼好法師(1283?~1352以降)は『徒然草』の作者である。かつては「吉田兼好」と教えられていたが、昨今の研究によって、「吉田兼好」の「吉田」は、どうやら吉田兼倶(かねとも、1435~1511)の捏造らしい、ということである。


 吉田兼倶とは何者か?


 吉田神道(=唯一神道)をつくりあげた人物である。簡単に言えば、神道が基本(根)で、仏教は「花実」、儒教は「枝葉」である。神道が一番、神道が根本という神道第一主義をぶち上げたのだ。神道は教義がなかった。それが、吉田神道(=唯一神道)によって、神道の教義・イデオロギーができた。


 そして、1484年に、応仁の乱(1467~1477)で焼失した吉田神社(藤原家の氏神)の跡地に、全国の神々が集まる神社、すなわち宇宙の中心としての(新)吉田神社をつくった。京都市左京区にあり、現在も繁盛しているようだ。


 そして、吉田兼倶および子孫によって、吉田家は全国の神社の家元的立場になった。


 その過程で、吉田兼倶および子孫は、教宣のため捏造・虚偽を「秘伝」として盛んに実行した。数々の捏造・虚偽は江戸時代に発覚したが、神道界は無頓着だったようだ。


 捏造・虚偽のささやかなひとつが、卜部氏吉田家の家系に兼好法師を組み入れたことである。理由は、吉田兼倶は有名人・兼好法師を祖先にすれば、格好がよい、と思ったのだろう。


 なお、捏造・虚偽でつくった吉田神道(=唯一神道)は400年後、明治維新の国家神道の源流となった。


(2)兼好法師の生涯


 1283年、この年に、たぶん誕生。


 1301年(19歳)、吉田兼倶が捏造した履歴では、六位蔵人に任じられ、その後、従五位まで出世したとされる。本当は、伊勢出身の武士であったようだ。伊勢国の守護は、北条一門の金沢家であったため、兼好は金沢(北条)貞顕(さだあき、1278~1333)の家臣のような地位になったようだ。


 兼好の基本的職場は、金沢家の家来として京で治安維持など武士の仕事をすることであった。金沢(北条)家の家来なので、鎌倉や金沢家の根拠地で金沢文庫がある地(横浜市金沢区)での滞在もあった。


 金沢(北条)貞顕に関して一言。彼は第15代執権となった。つまり、トップクラスの武士である。金沢文庫は貞顕の祖父が設立したが、貞顕が大幅に蔵書を拡大した。貞顕も兼好も、文化的素養があったので、親しく会話できたと思う。なお、貞顕は鎌倉幕府滅亡の際(1333年)、自害した。


 1310年(28歳)、この頃、堀川家の家司となっている。堀川家は公家の家柄で、鎌倉時代末期から南北朝時代に朝廷で要職に就いる。公卿のトップクラスである摂関家ではないが、それに次ぐ清華家の家格である。後二条天皇(第94代、在位1301~1308)の生母が堀川家の娘であった。堀川家第3代の堀川基具(もととも、1232~1297)は1289年に太政大臣になっている。


 1313年(31歳)、この頃に出家と推定。出家後、どこでどうしていたのか、はっきりしません。一般的イメージは、出家=世捨て人で、無常観をベースにした『徒然草』なる随筆を書いていた、ということである。あるいは、清貧な生活をしながら、①仏道修行、②執筆、③和歌の3つに専心した、ということである。


 しかし、真実は全然違うように思う。


 そもそも、31歳で出家とは、「早すぎる」と思う。前述したように、兼好は、武家たる北条(金沢)家と緊密であった。また、公家たる堀川家とも緊密であった。つまり、幕府と朝廷の両方に親しく関係していた。当然、両方の情報を知る立場であった。そこから、一歩距離を置くため「出家」という「フリー」の立場になった。フリーになって、両者の情報を伝達し、両者から何かと相談される立場になった。世捨て人ではなく、両者からの「フリーコンサルタント」になったのではなかろうか。


 どんな相談があったのか。資料として確認できるのは、1348年、室町幕府のトップ級武士である高師直(こうの・もろなお)が正月に宮中へ行くときの衣装について相談に来た、というものである。朝廷・公卿と幕府・武士の間は、まったく別世界で、さらに直接に問い合せることもできなかったので、両者にコネがある人物が役に立つのである。


 1319年(37歳)、この頃に『徒然草』第1部が完了と推定。『徒然草』は、序段以下243段あるが、第1部は序段〜32段。第2部は33段〜243段。


 さて、兼好法師=『徒然草』であるが、当時、随筆なんてものは低い価値しかなく、そもそも「随筆」なる言葉もなかった。文化人は和歌である。兼好法師は和歌を二条為世(ためよ、1250~1338)に学んだ。


 二条為世は、『新後撰和歌集』(第13番目の勅撰和歌集、1303年成立)及び『続千載和歌集』(第15番目の勅撰和歌集、1320年成立)の撰者である。彼の門弟で「為世門四天王」と呼ばれる4人がいるが、兼好法師はそのひとりである。


 後世、「為世門四天王」は、南北朝時代の和歌四天王とみなされた。兼好法師は一流歌人として知られていたのである。当然、そのことは「フリーコンサルタント」として、大いに役に立ったと想像する。


 兼好法師の和歌は、『徒然草』には、数首しか登場していませんが、『続千載和歌集』・『続後拾遺和歌集』(第16番目の勅撰和歌集)・『風雅和歌集』(第17番目の勅撰和歌集)に18首が収められている。また、自撰自筆の『兼好法師家集』を残しました。


 1333年(51歳)、鎌倉幕府滅亡、後醍醐天皇(第96代、在位1318~1339)の建武の新政が始まる。


 1336年(54歳)、この頃に『徒然草』完成。


 1352年(70歳)、たぶんこの年に兼好死亡。


 兼好法師が生きた時代は、政治的激変期である。経済的には、二毛作の普及、定期市が開かれるなど商業が発達した。人口は、鎌倉幕府成立時の760万人が滅亡時に820万人と僅かながら増加している。年表を眺めると、大地震、疫病大流行、大飢饉が随時発生している。1293年の鎌倉大地震は死者2万4000人とある。


 兼好法師を激動期の「世捨て人」ではなく、「フリーコンサルタント」として認識すれば、かなり面白い物語、例えば朝廷と幕府の二重スパイ物語が考えられるかも……空想していると楽しいな~。


(3)ラブレター代作のフィクション


『徒然草』第3段は、江戸時代にあっては最も有名な文章であったようです。中学・高校の教科書、試験問題には絶対でません。


 万(よろず)にいみじくとも、色好まざらん男は、いとさうざうしく、玉のさかづきのそこなき心地ぞすべき

(現代語訳)万事に優れていても、色恋を好まない男は、とても物足りなく、玉の盃で底が抜けているような感じがする。


 この一文で、兼好法師は色恋の師匠とされました。色恋の話は、8段、9段、137段、190段にもあります。ともかくも、兼好法師は、人里離れた庵で、ひっそりと清貧に暮らす世捨て人ではありませんでした。


 そして、『太平記』巻21にある兼好法師のラブレター代作話となります。フィクションと言われていますが、さてさて……。


 室町幕府の実力者・高師直(?~1351)が塩治高貞の美人妻に横恋慕してしまう。美人妻は高師直の誘いを無視します。兼好法師は高師直の家に出入りしています。高師直は和歌・文筆で名高い兼好法師にラブレターの代作をさせた。しかし、高師直の使者が、その文を美人妻に届けたが、美人妻は読まずに捨ててしまった。高師直は怒って、見当違いにも、怒りの矛先を兼好法師に向けたので、兼好法師は高師直邸への出入り禁止となった。


『徒然草』第3段などの色恋話、『太平記』のラブレター話によって、時代が下ると、兼好法師は色恋の師匠どころか、色恋実践者へと進化します。兼好法師は「人道兼好」と「好色兼好」の両方が語られるようになりました。だから、江戸時代では、兼好法師は抜群の人気者となり、『徒然草』の講演を開催すれば、会場は満員となりました。スケベ話でにたにた喜ばせますが、最後しっかり人の道で締めくくるわけです。


『仮名手本忠臣蔵』も、「好色兼好」が進化したものです。

 

(4)『徒然草』第60段


『徒然草』には、とても関心を引く数々のお話がある。無常話だけでなく、色恋もあれば、お笑いもある。あれもいいなぁ、これもいいなぁ、ですが、個人的に最近、第60段が好きになりました。それで紹介します。私的な現代語訳です。


    ☆     ☆     ☆


 真乗院(真言宗仁和寺系統)に、盛親僧都(じょうしん・そうづ)という、すばらしい知恵の僧がいた。里芋が大好物で、沢山食べていた。説法の座でも、大きな鉢(はち)に里芋を山盛りにして、膝元に置いて、食べながら文を読んでいた。


 病気になったときには、1週間か2週間、治療のため部屋に立て籠って、よい芋を選んで、普段よりも多く食べて、万(よろず)の病を治した。


 人に食べさせることはなく、ただひとりで食べていた。


 盛親僧都は極めて貧乏だったので、師匠は死に際に、盛親僧都に銭200貫と寺をひとつ譲った。ところが、盛親僧都は寺を100貫で売って、合計300貫とした。この300貫をすべて里芋の代金と決めて、京に居る人に預けた。10貫ずつ金を引き出しては、里芋を買って、満足するまで食べ続けた。


 他に使うことはなく、すべて里芋の代金になった。


「貧しい身に300貫もの銭をもらい受けて、このように使いきってしまうとは、まったく珍しい仏教人である」と、人々は言った。

 

 盛親僧都は、ある法師を見て、「しろうるり」というあだ名をつけた。「しろうるりとは、何ものですか?」と質問されたら、「そのようなものを私は知りません。もし、あったら、この僧の顔に似ているでしょう」と答えた。


 盛親僧都は、顔立ちがよく、力持ち、大食家であり、達筆・学識・弁舌はとても優れていて、真言宗仁和寺系統では最も重く思われていた。しかし、世の中を軽く思う曲者(くせもの)で、万事わたって自分勝手で、人に従うということはしない。


 法事でもてなしの御膳が出る際は、皆に配膳している最中でも、自分の御膳が置かれればさっさと食べてしまう。そして、帰りたくなると、ひとりだけ立ち上がってさっさと帰ってしまう。


 正式な食事(午前中)であろうと、非時の食事(午後の食事)であろうと、皆と一緒に揃って食べることはない。自分が食べたいときに夜中だろうと早朝だろうと食べた(※僧侶は正式には1日1食で午前中に摂る。午後に食するのは禁止されているが、「非時」(ひじき)と称して慣行されていた)。


 眠たくなったら、昼でも部屋に鍵をかけて籠って寝てしまう。いかに大事な用であろうと、人が何と言おうと聞き入れず寝ていた。


 寝すぎて目が冴えていると、幾夜でも眠らず、心を澄まして鼻歌を歌っていた。


 そういう尋常ではない態度・行動だけれど、他人から嫌われもせず、万事容認されていた。人徳がとても高いということか。


       ☆     ☆     ☆


『論語』に「七十にして心の欲する所に従ひて矩(のり)をこえず」とありますが、そうしたことかな……。でも、違うような気がします。


 兼好法師は、自由気ままな盛親僧都に憧れているのではなかろうか。ある程度の徳に達したら、日常の細かい規則などは無視してもいいのではなかろうか。ある程度の徳に達したら、好物を好きなだけ、食べたいときに食べ、寝たいときに寝る。細かいことは、「気にしない、気にしない」ということかな。


 なんにしても、私は昨今、この第60段に、憧れのようなものを感じます。しかし、1年後は、別の段が好きになっているかも知れません。


 なお、江戸時代にあっては、「しろうるり」をめぐって、その意味は、何か深い意味があるのではないか、と推測され、「秘伝」とされた。そして、珍説・奇説が生まれた。現代では、僧都が「白い瓜(うり)」と言うべきところを、口ごもって言い間違えたのだろう、とされているようだ。


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 太田哲二(おおたてつじ)  中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を9期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』など著書多数。近著は『やっとわかった!「年金+給与」の賢いもらい方』(中央経済社)。