●議論などしている場合か


 米国国立科学財団(NSF)の元長官であるリタ・コルウェルは、その著書で、世界の情報産業、医療産業の新しい時代を切り開いたと誰もが思っているシリコンバレーでも、スタートしたころには、信じられないくらいの性差別が横行していたことを明らかにしている。


 とくに09年においても、有力投資家が「女性に投票権を与えることは民主主義と資本主義にとって害悪だ」と書いたことを明らかにした。発言力があり、ゼネラリストだと思われている男のこうした発信が許される土壌は米国のほうが固いように思える。


 子どものころ、「米国ではレディーファーストで、女性が大切にされる国」だと学び、実際、ハリウッド映画などではそうしたシーンを度々みるうち、なるほどと得心していた。だが、上記のような視点での雑読を重ねていくと、レディーファーストこそ性差別の象徴であるとの理解に変わる。


 私を戦後4年目に22歳で生んだ母は、私が9歳の頃、レディーファーストに感心したと語ると、「あれはまやかし。あれで自分が大事にされていると思うアメリカのブルジョア女は程度が悪い」と口汚くこき下ろした。そのうえで、「私は家計を握っている」と宣言して息子との議論を締め括った。今では母の言葉のほうが正鵠を射ているのではないかとも思う。


 しかし、性差別の状況を変革しようという動きは米国のほうが早い。今になっても堂々と性差別を言い募る白人男性がいたとしても、差別を認識し、その廃絶を進める動きの速度とパワーは日本とは比較にならない。


●2年で目標に達した米国の学会


 コルウェルは米国のアカデミー世界の改革に言及しながら、強い期待も示している。例えば、2015年の米国微生物学会では例年より100人も多い女性研究者が講演し、発表者の48.5%が女性で、それはこの分野の研究者割合と一致した。


 米国の科学アカデミーの世界では2013年頃から女性の発表者を増やす、男性しかいないセッションを無くすことの合意が果たされ始めた。動きは急だ。微生物学会はこのうねりの2年後には男女平等を達成した。


 コルウェルのレポートを読むと、現実には性差別の程度は小さかった(私の母が言うように何らかの権限を得ていたとしてだが)日本は、差別が存在するとの認識、無意識の差別に覚醒し、そこから活動を生み出すという跳び方ができない。「確かに男は威張っている。権力があると思いこんでいるが、実権という意味では大差ない」という女性側の考え方こそが、隠れた岩となっている。本質的な差別廃絶の初動に時間がかかり、航海を始めてもデッドロックに座礁し、エネルギーは削がれてばかりになる。やはり母の見解は是正する必要がある。


 アンコンシャス・バイアスという見方からすれば、それは男性ばかりでなく女性側にもある。それらの「偏見」というデッドロックを高速で乗り越えることができるだろうか。


 日本の改革に関してそれは時間がかかりすぎだ。「ノー」をできるだけ多くの挙手によって示す必要に迫られている。「いろんな意見がある」ので「広範な議論が必要」であり、「熟議」を重ねる必要はないのだ。「いろんな意見」の大半は愚見で、「広範な議論」は結論を先送りする便法で、「熟議」はまったく必要がないシロモノだという吹き込みを社会に伝えることが必要だろう。


 米国微生物学会の2年での「達成」は日本では真似のできない速度だが、真似ができないという思い込みは不要なものである。「性急」「拙速」は後から検証すればいいもので、改革はその言葉にたじろいでいてできるのだろうか。


 とりあえず、米国と同様に科学アカデミアの世界から、そうした行動が起こることを期待する。具体的方法としては、その世界ではセクシャルハラスメントを広義に捉えることも必要かもしれない。女性を受け入れるには「トイレなどの設備投資ができない」などと言い立てるのもセクハラだ、と。


 私の母のように、暗礁を形成する人々、父権主義的家族観、役割論を説く人々(政治家、教師、教育機関、親など)を口汚く罵るのも手かもしれない。


●教科書はセクハラへの対処


 コルウェルも実は、真の平等はまだ先だと考えている。「差別との戦いにおける勝利には程遠い。どうすれば、科学技術の世界で真の平等を実現し、男女が対等な立場で前進し、競争できるようになるのだろうか?」として具体的なアイデアを語っている。


 それは多岐にわたっている。女の子の教育で、自立を教える、孤立した場合の対処を教えるなどのトレーニング方法から、ルッキズムの排除、研究施設や機関のシステムの不公平や不平等に対する声の上げ方などだ。そのなかにセクハラへの対処も語られている。


 ハラスメント行為を報告したくない場合でも、すぐに記録する。具体的に書くこと。「あの人が私に嫌がらせをした」ではだめだ。彼(または彼女)が言ったこと、行ったこと、そして時と場所を正確に記録する。そして、その文書を認証してもらうか、信頼できる友人にその日のうちにメールで送ろう。性的捕食者は、捕まるまで同じ行動を繰り返すことが多い。あなたが自分の経験を文書化したという事実は、のちに自分のハラスメント事件を報告しようとする他の女性の助けになるかもしれない。不良な職場環境の存在を証明するためには、繰り返し広く行われている行為の証拠が必要だ。


 私はこの意見を読んで、これが広範に応用され、わかりやすくアレンジされることなどを通じて、一般的な教育の場で(男の子にも)理解させるテキストになるのではないかと考えた。そして、証拠が常に残ることが常識化されることで、加害側に「責任を取る」常識も常在することを促すのではないかと思えた。


 日本の多くの加害側は「責任を感じる」という表現で逃げることが少なくない。きっちりと責任を取らせる、それを早急に文化として根付かせることで、性差別のあらゆる暗礁を取り除き、米国微生物学会のような成果の早急な達成に結びつけることが必要なのだ。


●父権主義者の出番を増やさない


 性差別をアカデミアの世界での雑読を通じて見てきたが、一方で根本的な性差別が何から起こっているかも眺めていかなければならないだろう。ただ、2つの性は考えてみれば、生物学的には当然の物語しか存在しないものである。その所以をここでくどくどと語ってしまう必要ないし、各論になればなるほど、父権主義者や「伝統的な家族観」を隠れ蓑にして、元々の自分たちの価値を守りたい人々の出番を増やす。いくら論点はそこにはないと言っても、「親を介護する子どもを差別するのか」などといった荒唐無稽の反論を延々と聞く破目になる。


 この連載ですでに触れたのだが、大学時代の交際相手に「結婚したら仕事はやめる」と言われ、仰天してしまったことがある。男性である私がそのことに驚いたと聞いて、男性の友人たちがまた驚いた。どうやら私は、ヘンだと思われていた。私はシスジェンダーだが、当然ながら交際する相手の性自認も認める立場だ。生物学的な違いだけで、社会における存在の仕方に違いがあるとは思っていない。酒を飲んで適当に酔うのは私だが、一緒に飲む女性も適当に酔って議論してもらいたい。


●2つの大きな紙バッグ


 医薬系業界専門紙の駆け出し記者だった頃、私は広告稼ぎが目的の小特集を一手に任されていた。医薬分業がまったく進んでいなかった頃で、薬局の取扱商品は衛生用品や粉ミルク、生活日用品にまで広がっていて、医薬品以外の企画記事でそうしたクライアントのニーズを喚起していた。具体的には、粉ミルク、生理用品、紙おむつ、コンドーム、トイレットペーパー、防虫剤、石鹸・洗剤、シャンプー、化粧品などがあった。一般用医薬品でも痔疾用薬はこの小特集のカテゴリーだった。


 企画は営業担当者から広告出稿メーカーのニーズを聞き取り、それに沿った企画を作るのだが、広告売上高は粉ミルク、生理用品が抜けていた。当時の薬局商品としては化粧品もウェイトが大きかったが、化粧品は専門の業界専門紙があって、医薬系業界紙への期待は小さかった。


 あるとき、小特集企画で中堅の衛生材料メーカーに取材に行くと、帰りに土産だといって大きな紙バッグ2つにいっぱいの生理用品をもらった。「御社の女子社員さんたちに渡してください」と半ば強引に持たされたのだが、言われた通り、女性たちにはいいお土産だと帰社の道中ではいい気分になっていた。会社のドアを開けて、若手女性社員たちのリーダー格だった経理の女性社員に「皆んなで分けて」と紙バッグを渡そうとした。


 彼女は「えっ」と奇妙な声をあげ、続けて「これ持って電車に乗ったの」と怪訝そうに聞いた。確かに電車に乗って帰ってきた。彼女が指さしたのは紙バッグに縦に印字された大きなアルとファベット。「TAMPON」と書かれていた。(幸)