(1)宝塚歌劇にもなっている
悲恋物語数々あれど、古代史の悲恋物語と言えば、何はさておいても、『古事記』に語られている軽皇子と衣通姫の物語です。「衣通姫伝説」と書いた方が知られているかも……。まずは、その概略を。
時代は5世紀、第19代允恭天皇は皇后(忍坂大中姫)との間に9人の皇子皇女をもうけた。そして、皇太子には、長男の軽皇子(かるのみこ)が決まっていた。「軽」は大和国の高市郡の地名で、今でも橿原市に残っています。決して、「軽い」という意味ではありません。
9人の皇子皇女の5番目は軽大郎女(かるのおおいらめ)で、絶世の美女。またの名を衣通姫(そとおりひめ)と言う。その意味は、美が衣を通過して輝いているのである。古代の夏も暑い、エアコンもないから、ファッションは風通しの良いスケスケ衣なのかな……。美しいお肌やボディラインが光輝いて、衣を着ていても全裸と変わらないというセクシー美女なのだ。
『古事記』全体は、歌物語である。歌が中心で、散文は歌の説明みたいなものだ。その中でも、軽皇子と衣通姫の悲恋物語は、起承転結の完璧なストーリーである。
第1幕(起)は、2人のラブラブ・セックス・シーンである。兄妹のラブラブ・セックスは異母ならともかく、同母の場合は禁断。でも2人は禁断の恋に溺れる。
第2幕(承)は、権力闘争である。父の允恭天皇が崩御し、皇太子の軽皇子が即位しないうちに禁断スキャンダルが広がり、人心が離れ、反軽皇子の穴穂皇子(允恭天皇の第4子、後に第20代・安康天皇)が謀反する。両者、次期皇位をめぐって武器・軍勢を整える。しかし、軽皇子は頼りにしていた実力者の裏切りにあい、捕えられてしまう。
第3幕(転)の舞台は、四国の伊予の湯、現在の道後温泉である。軽皇子は、伊予の湯に流された。離れ離れになったが、2人の愛は変わらない。軽皇子を恋い続ける衣通姫は、ついに意を決して伊予へ行く。感動の再開シーン。
第4幕(結)は、2人の心中となり悲恋物語の完結。お涙頂戴ありがとうございます。
この物語をベースに、宝塚歌劇団月組は、『月雲の皇子—衣通姫伝説より-』を2013年に公演した。やはり、かなり脚色されていて、軽皇子と穴穂皇子の衣通姫をめぐる三角関係が基本になっている。衣通姫が天皇に征伐された土蜘蛛の娘であったり、穴穂皇子は実は允恭天皇と皇后の子ではなく、皇后と渡来人の子であったり、伊予では土蜘蛛の女戦士が登場したり、『古事記』を知っている者にとっては、「どうなっちゃてるの」と頭が混乱するばかりである。でも、美しい歌劇だろうな〜。
(2)歌物語エキス
歌は暗記しやすく、散文の暗記は難しい。文字のない時代ならば、必然的に歌物語になる。軽皇子と衣通姫の物語は、『古事記』を読むことをお勧めします。少ないページなので、すぐ読めます。とりあえず、ここではエキスを抽出しておきます。なお、歌の現代訳としては、おとなしく表面的な訳だけにしておきました。拡大解釈、想像力解釈、深読み解釈は、ご自由に。
第1幕(起)のラブラブ・セックス・シーンでは、軽皇子の2つ歌が記されている。
(略)其のいろ妹、軽大郎女を姦(密通)して、歌ひて曰く
あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下訪ひに 我が訪ふ妹を 下泣きに
我が泣く妻を 今夜こそは 安く肌触れ
<山田を作ると山が高いので、地下に下樋(排水管)を走らせる。そのように、こっそりと訪れて、私が訪れる妹を、ひそかに泣き、私が焦がれ泣く妻を 今夜こそ、思いっきり肌に触れている>
(略)又、歌いて曰く
笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離れゆとも
愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば
<笹葉に霰がタンタンと打つように、確かに2人が寝た後は、人が(とやかく言おうが)離れようが、私は貴女を愛おしい。恍惚に寝て恍惚に寝て、刈薦がバラバラに乱れるなら乱れよ、とにかく、恍惚に寝て恍惚に寝て>
第2幕(承)の権力闘争シーンでは、軽皇子の3首があります。2首は権力闘争がらみの歌です。3首目は、軽皇子が捕えられ、軽大郎女を思う歌です。3首とも省略。
第3幕(転)は、まずは別れの日。軽皇子が衣通姫に歌った。大意は、「我が妻よ、変わらずに待っていてくれ」という歌。それに対して、衣通姫が軽皇子に献上した歌。
夏草の あひねの浜の かき貝に 足踏ますな 明して通れ
<男と女が一緒に寝るあひねの浜の牡蠣の貝殻を足で踏んで怪我をしないように、夜が明けてから出発されては>
2人は離れ離れになったが、衣通姫は恋しさにじっと待っていることに耐え切れず、伊予へ行く。その時の歌。
君が往き 日長くなりぬ やまたづの迎えを行かむ 待つには待たじ
<あなたが行ってから日がずい分たちました。山の鶴になってお迎えに参りましょう。待つことは、もうできません>
そして、軽皇子と衣通姫の感動の再開シーン。軽皇子は衣通姫を「かき抱いて」、愛の賛歌を2首、絶唱する。
第4幕(結)は、一言、「かく歌ひて、即ち共に自ら死にき」と記されているだけである。
(3)2人の衣通姫
『日本書記』には、『古事記』とは違う衣通姫が登場している。允恭天皇の皇后(忍坂大中姫)には妹がいた。名を弟姫(おとひめ)という。これが絶世の美女で、『日本書記』には次のように記載されている。
容姿絶妙れて比無し。其の艶しき色、衣より徹りて晃れり。是を以って、時人、号けて、衣通郎姫と曰す。
<かほすぐれてならびなし。そのうるわしきいろ、そよりとほりててれり。ここをもて、ときのひと、なづけて、そとおりのいらつめともうす>
『日本書記』の衣通姫物語は次のようなものである。皇后は妹(衣通姫)を允恭天皇に差し出すのを拒むのであるが、允恭天皇は策を弄して弟姫(衣通姫)を妃にしてしまう。そして、允恭天皇の寵愛をめぐる姉妹の確執が生まれる。最終的には、皇后の意思によって、允恭天皇の弟姫(衣通姫)への行幸は稀になった。『日本書記』を読むと、皇后は極めて気性が激しく、「かかあ天下」であることがわかる。
では、『日本書記』には軽皇子と軽大郎女の悲恋物語はどうなっているのか。
➀『日本書記』では、軽皇子と軽大郎女の禁断の恋が発覚し、軽皇子は皇太子のためお咎めなし。軽大郎女だけが伊予へ流される。
②允恭天皇が崩御して、軽皇子と穴穂皇子の次期皇位継承争いが勃発、形勢は軽皇子が不利。軽皇子は重臣の裏切りにあい、敗北が確定し、その重臣の家で自害する。
悲恋物語としては、『古事記』のほうが格段に上である。『日本書記』は、ほぼ権力争いのお話となっている。
■本朝三美人
さて、『尊卑分脈』に「本朝三美人」なる言葉が登場している。『尊卑分脈』は日本初の系図集で、室町時代初期に完成した。その中に、藤原道綱母(936〜995)は「本朝第一美人三人内成り」(本朝第一の美人三人の内の一人である)とある。藤原道綱自身はパッとした活躍はないが、その母は歌人として活躍し、『蜻蛉日記』の作者でもある。小倉百人一首では、右大将道綱母の名で次の歌が選ばれています。
嘆ききつつ ひとりぬる夜の あくるまは いかに久しき ものとかはしる
意味は、次のようなものです。
「今夜もまた来てくれないかも…」と嘆きつつ、一人でいる夜、朝まで(待ち続ける)時間は、いかに長いものか、(あなたは)知っているかしら?
本朝三美人の一人が、こんな歌を詠ったら、男はイチコロですね。
横道に逸れましたが、本朝三美人の他の2人は誰か?『尊卑分脈』には、藤原道綱母しか名前がありません。それで、昔から「美女探し」がなされたようです。衆目の一致するところでは、衣通姫は当選確実。やはり、『古事記』・『日本書記』の効果は絶大です。ただし、どっちの衣通姫なのか不明です。もうひとりは、額田王、光明皇后、小野小町の3人が争っています。
■和歌三神
和歌三神は和歌を守護する三柱の神で、一般的には「住吉神社・玉津島明神・柿本人麻呂」を言います。でも、諸説ある。「柿本人麻呂・衣通姫・山部赤人」説や「住吉明神・玉津島明神(=衣通姫)・天満天神(=菅原道真)」説などである。
後述に述べますが、玉津島神社(明神)は衣通姫と一体化しています。なぜ、衣通姫が和歌三神になっているのか。
『古事記』の衣通姫は2首の和歌を詠んでいる。『日本書記』の衣通姫も2首詠んでいる。2人合わせても、たったの4首である。どうして、それで和歌の守護神なのだろうか。
原因は、和歌の絶対的権威者である紀貫之(866〜945)が、「古今和歌集」の「仮名序」の中で、小野小町の歌を次のように評した。
「小野小町は古の衣通姫の流なり。あわれなるようにて、つよからず、いわば、よき女のなやめるところあるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし」
その意味は、「小野小町の歌は衣通姫に似ている」と言っているだけなのだが、想像力が2つの方向をつくってしまった。
1つの方向は、小野小町は歌だけではなく容姿も衣通姫に似ていて絶世の美女である、というお話である。各種の小野小町美女伝説が創作されるようになる。明治時代になると、世界三大美女(クレオパトラ、楊貴妃、小野小町)が吹聴され、「馬っ鹿じゃなかろかルンバ」のレベルに至った。
もう1つの方向性は、小野小町は間違いなく優れた歌人である(これは事実)、小野小町の歌風は衣通姫の流である(紀貫之)、ということは、衣通姫は小野小町の師匠である、師匠の歌は小野小町よりも優れている、という論理的思考である。そして、衣通姫は和歌の神へ進化していく。
次に、衣通姫と玉津島神社(明神)が一体化している理由は……。
玉津島神社がある和歌浦は、歌の題材に相応しい風光明媚な土地で、実際に万葉集でも、それ以後でも、多くの歌人が和歌浦を詠んだ歌をつくっている。それに、「和歌」という語呂合わせ効果もある。だから、玉津島神社が和歌の神になるのは、当然の成り行きである。それだけなら、衣通姫は登場しないのだが、なぜか、何だかわからないが、玉津島明神=衣津姫ということになってしまった。
南北朝時代の北畠親房の『古今集註』の中に次の話がある。
光孝天皇(在位884〜887)が和歌浦に行幸した夜、夢の中で、ひとりの美女があらわれた。天皇が「そなたは誰ぞ」と尋ねると、「わらわは衣通姫なり」と答えて、次の歌を詠んで消えた。
立ち帰り またも此の世に跡垂れむ 名もおもしろき 和歌の浦波
意味は、「あの世から、此の世に帰りました」ということである。この逸話によって、衣通姫は玉津島神社の神に確定したのである。それにしても、衣通姫の霊魂は、あの世と此の世を往復して、未だ成仏していない。深か過ぎる悲しみと恨みが、そうさせているのか……。
(4)禁断の愛ではなかった
『古事記』でも『日本書記』でも、軽大郎女が超美女で、それがために、軽皇子は同母兄妹の愛はタブーにもかかわらず、禁断の愛をおかして権威凋落、権力闘争に敗北というストーリーになっている。
しかし、5世紀の日本では、そんなタブーはなかった。
『古事記』では、軽皇子と衣通姫の悲恋物語の次のお話は、なんと、穴穂皇子の同母姉弟の結婚である。穴穂皇子はライバルの軽皇子を蹴落とし皇位につく(安康天皇)と、叔父(允恭天皇の異母弟)の大日下王(=大草香皇子)を殺害し、その妃(長田大郎女皇女)を強奪して皇后にしたのだ。長田大郎女皇女は允恭天皇と皇后の二番目の子である。禁断の恋はケシカランと騒いだ張本人が、堂々と禁断の婚姻をするのだから、どう考えても、5世紀には、そんなタブーは存在しない。
『古事記』『日本書記』が編纂された8世紀では、同母兄妹の結婚はタブーが確立していたが、5世紀はタブーではなかったようだ。その結果、8世紀の道徳観がところどころに反映されたのだろう。軽皇子は『古事記』でも『日本書記』でも、「木梨軽皇子」の名前になっているが、この「木梨」も8世紀の道徳観のため付け加わったものと思われる。当時の仮名は「木=柵=城」(キ)であり、「梨」=「無し」である。つまり、兄と妹の間にある障害物(柵、城)が無い、という意味で「木梨」とは、「タブーを無視した」というニュアンスがこめられていると思われる。
古代史は基本的によくわからない。だから、いかようにも解釈できる。
例えば、允恭天皇と皇后の間に9人の皇子皇女がいたと記紀にはあるが、皇后以外の子も皇后の子として記されている可能性が高い。そう考えると、『日本書記』の「衣通姫」と『古事記』の「衣通姫」は、親子かも知れない。となると、薄幸な超美人の母娘の物語を創作できる。
あるいは、5世紀は「倭の五王」の時代である。中国の歴史書に、倭国の五王(讃、珍、済、興、武)の朝貢の様子が記されている。倭の五王が、記紀のどの天皇に該当するかは諸説ある。「倭の六王」説があるくらいだ。一応、済=允恭天皇は多数説である。朝貢の様子からすると、倭の権力闘争にも中国の影響力が存在する。軽皇子と穴穂皇子の権力闘争にも中国の影がチラついても不思議はない。宝塚歌劇のストーリーには、渡来人が一定の役割を果たしているが、そうかもしれないな〜と思ってもいいじゃない〜。
宝塚歌劇では、土蜘蛛(非服従部族)が重要な役割を果たしているが、5世紀は豪族、非服従部族が乱立していて、機会あるごとに勢力拡大を意図していた。その最大チャンスは、皇位継承の争いである。あらゆる豪族、非服従部族は、そのチャンスを虎視眈々と狙っていた。伊予の豪族、あるいは非服従部族が、「軽皇子を担いで……」ということもあったかも。伊予の伝承、伝説を調べると何かわかるかも知れない。
あれやこれや、想像はドンドン展開されるが、『古事記』『日本書記』は、親子兄弟の血みどろ権力争いのオン・パレードである。そうした中から、この真珠のごとき悲恋物語が生まれたということである。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。